2014年10月4日土曜日

「霊的なことがわかる」と言うクリスチャンのわからなさ・その2

「霊的なことがわかる・わからない」にこだわる聖霊派クリスチャンについて。2回目。

 彼らの「霊的なことがわかる」の問題点は、単なる「思い込み」や「こじつけ」を、「霊的」と勘違いしている点にある。
 たとえば今日が11月1日だとして、なんとなく祈っている時に、そのことを思い出す。そしてこんなふうに考える。

「11月1日は111で、1が3つ続いているな」

「111というのは、新しい始まりや出発を意味しているのではないか」

「今日は主にあって何かが始まる日なのではないか」

「(聖書を開いて)ほら、『すべてが新しくなった』という御言葉も今示された」

「今日は(以前から考えていたある活動の)始まりの日にしなさいと、主が語っておられるのだ!」

 この流れを見ればわかる通り、完全なる「こじつけ」だ。けれど彼らはこういうのを、「主からの霊的なメッセージだ。この手のことは、霊的に敏感でなければキャッチできない」とか自負しつつ言う。
 けれどそんなふうに解釈しだしたら、いくらでも、どんなふうにもでも解釈できてしまう。空の雲を見て「再臨雲だ」と言うこともできるし、「後の雨のしるしだ」と言うこともできる。「エリヤが7度目に見つけた雲だ」とか、「あの形は悪魔を表わしている」とかと言うこともできる。しかしそれでいて、自分たちの解釈だけが正しく、他の解釈は「偽りだ」とか言って退ける。他の解釈が偽りだと言うなら自分たちの解釈だって偽りかもしれないのに、そのへんの矛盾については、彼らは何も言わない。

 と、いうことは前回も書いた。今回は、なぜそんなことを「霊的」と主張するのか、その理由について考えてみたい。

・「霊的なことがわかる」と主張する理由

 結論から言うと、自己顕示欲と承認欲求を満たしたいからだ。
 ほとんどの人は承認欲求を持っているし、「何者かになりたい」という願望を持っている。たとえば働く人の多くは昇進や昇給を願うし、他者に対してある程度の影響力を持ちたいと願う。同じようにいろいろな所でいろいろな立場の人々が、「認められたい」「尊敬されたい」と思っている。
 そして認められる為には、自己顕示する必要がある。自分の考えをアピールしなければ、「それはすごい」とか言われないからだ。

 けれど一般的に考えてみて、自分の考えに対して「それはすごい」と言ってもらえるシチュエーションが、どれくらいあるだろうか。
 会社の会議なんかで良い意見を毎回毎回出すのは、たぶん至難の業だろう。そもそも自分の意見など必要とされない、という環境も少なくないと思う。多くの社員から尊敬され、「すごい」と言ってもらえる人は少ない。そしておそらく多くの人々が、「すごい」という言葉より多くの「それじゃダメだ」を言われているのではないかと思う。あるいはそこまでダメ出しされないにしても、「すごい」とも言ってもらえない。

 それが一般的なことだと思う。世の中、甘くないのである。
 けれどキリスト教界だと、ちょっと事情が変わってくる。

 クリスチャンは(基本的に)優しい人が多いと私は思う。「愛」とか「許し」とかが教義となっているから、それも当然かもしれない。私の周囲のクリスチャンを思い浮かべてみても、やはりそうだ。たまに厳しい人もいるけれど、割合的には圧倒的に「優しい人」が多い。
 それに加えて、「人を自分より優れた者と思いなさい」という聖書の言葉もあるから、クリスチャンは、他のクリスチャンを褒める機会がけっこう多いと思う。私自身、熱心な教会員だった頃はそうだったし、必要以上に人を褒めたり持ち上げたりすることが多かった。褒められることも多かった。
 だからクリスチャンは教会にいる限り、けっこう承認欲求が満たされるのだと思う。

 そういう土壌の中、「霊的」に振る舞ったらどうなるだろうか。いかにも祈っているふうに、聖書に親しんでいるふうに、「これは霊的には〇〇だと示されています」などと言ったら、「おお、それはすごい」とか言われたりする。
 それが続くと、「あの人は霊的な人だ」とか言われるようになる。
 そして講壇に上って話すようになると、「あの人は信仰のレベルが違う」とか言われるようになる。
 そのまま進んでいくと、「現代のパウロだ」とかいう評価になる。

 つまり「霊的」であることをアピールすれば、キリスト教界の、少なくとも聖霊派の中では「何者か」になりやすいのだ。もちろん簡単ではない。けれど、一般社会でのそれに比べれば、格段になりやすい。聖霊派クリスチャンたちの中でなら、さほど聖書を読む必要さえない。彼らも聖書をちゃんと読んでいないからだ。「霊的」と言えば、多少無理があっても通ってしまう。

「何者か」になれるなら、なりたいと願うのが人間だろう。そしてそれが割と楽に実現するのが、キリスト教界(特に聖霊派)なのだ。少なくともそういう状況があるから、「再臨雲だ」みたいなバカげた主張がまかり通るのだし、それが(一部で)称賛されてしまうのだ。

 そういう状況を考えてみると、「愛」と「許し」も程ほどに、と思ってしまう。

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