人は、神の愛に触れられて「変われる」のか

2014年10月17日金曜日

キリスト教信仰

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神の愛に触れられれば、人は変えられ、真に人を愛せるようになる

 というのはキリスト教の聖職者が語りやすいメッセージであろう。カトリックの事情はよく知らないけれど、少なくともプロテスタントではそうだ。実際そういう意味のことを言う牧師は多い。

 今回はこのメッセージについて考えてみたい。

 私は基本的にこのメッセージに同意している。
 神様が私の身代わりに死んで下さった、私を愛して許して下さった、というのは、一般社会ではなかなか見られない形の愛だ。いろいろ悩み苦しんできた人にとって、それは大きな癒しともなる。そして「自分もこんなふうに生きたい」と人に思わせもする。

 有名な物語『レ・ミゼラブル』でも、主人公ジャン・バルジャンは神父の愛と許しに触れて改心する。そしてその後の人生をかけて、人を愛するようになった。これはもちろん物語の話で、そんな劇的なこともそうそう起こらないだろうけれど、同種の感動をキリスト教の神は与えうる。そういう意味で、真実味がある。

 実際、以前にも書いたけれど、クリスチャンには優しい人が多い(と思う)。聖書を読んでいるからというのもあるだろう。自分が「許された」から、人のことも「許したい」、という心理もあると思う。

 けれどこのメッセージの注意点は少なくとも2つある。
 1つは「その変化は時間を要する」ということ。
 もう1つは「その変化は不可逆的ではない」ということ。

・その変化は時間を要する

 ある牧師はこう言う。
「日本の宣教が大変なのは、日本人がクリスチャンになっても心がなかなか変化しないからだ。しかし聖霊に触れられれば、人は一瞬で変わる。だから日本の宣教に必要なのは聖霊の力なのだ

 
 確かに聖書を見ると、心が一瞬で変わったような人たちが登場する。たとえばパウロとか、ザアカイとかだ。そういう例を取り上げて、「聖霊に触れられれば一瞬で心が変わる」と主張する。
 けれどパウロにしてもザアカイにしても、律法をよく知るイスラエル人だったはずで、何も知らない日本人とはそもそも出発点が違う。彼らは短い言葉や体験で「そうだったのか」と真理に気づくかもしれないけれど、日本人にはそんな素地はない。だからいろいろ教えられなければならないし、それにはたいへん時間がかかる。一瞬で変わるなど、到底あり得ない。

 よく、「祈っていたら一瞬でピアノが弾けるようになった」とか、「祈っていたら一瞬で英語がしゃべれるようになった」とかいう話を聞く。神の奇跡という訳だ。
 それらの真偽はさておき、もしそんな調子で「創造主のことが一瞬でわかり、生き方が変わった」としたら、実際どうだろうか。それは「神を知る」というプログラムをほんの数分でインストールされたロボットと同じではないだろうか。
 人間が自らの判断で神を知ろうとし、時間をかけて聖書を読み、次第に神の愛に触れ、結果として神を愛するようになった、というプロセスを、神は望まれるのではないだろうか。意思のないロボットに「愛されて」、はたして嬉しいだろうか。あなたならそういう「愛」を望むだろうか。

 だから人は変わるとしても、一瞬とか、ごく短い時間とかではない。長い長い時間がかかるし、それでいいのだ。たやすく得たものの価値は、それだけ安い。

 なのに上記の牧師みたいに「聖霊によって一瞬で変わる」を主張すると、おかしなことが起こる。感動的なメッセージや感動的な祈り、お涙頂戴の教会内ドラマで「感激」した人たちが、「今日の礼拝で自分は変わった」と思い込む。牧師もそれを支持する。すると、実質は何も変わっていないのに「きよめられた」「聖化された」という話になり、「クリスチャンとしてのレベル」が上がったように錯覚してしまう(いつも書いているように、レベルという話そのものがおかしい)。

 それで「自分は聖書に通じている」「自分は聖霊の力を受けている」「クリスチャンとして何者かになった」と自負する人たちが、平気で人を傷つけ、不誠実なことをし、非常識な振る舞いを「神の意志だ」と正当化するようになる。
 その人格的欠落が、神の愛によって何も変えられていない有様を証明しているのだけれど。

 しかしそういう人に限って、「人間なんだから欠点だってある。そういう点は許されるべきだ」などと自己弁護する。あれ、一瞬で変えられたんじゃなかったっけ?

 2つ目の注意点、「その変化は不可逆的ではない」は、次回に書きたい。

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