教会の「健康状態」の見極め方・その2

2014年10月29日水曜日

教会の「健康」

t f B! P L
 前回に続いて、教会の「健康状態」について書きたい。

 夫である牧師が教会の主任牧師である場合(そういうケースが多いだろう)、その教会の健康状態は、牧師夫人の健康状態(特に精神状態)に現れる、と前回書いた。

 それは要するに、教会の健康は、牧師が人をどう扱うかにかかっている、という意味だ。教理理解とか、聖書解釈とか、教会の方針とかやり方とかも影響があるけれど、直接的なものではない。

 牧師が自分にとって最も近い人間である夫人を、どう扱うか。そこに牧師の根本的な人間性が現れる。そしてそれと変わらない方法で、(最終的には)信徒らが扱われる。その結果が、教会の姿なのだ。

 もちろん、牧師が夫人と信徒とをまったく同じように扱う訳ではない。信徒は身内でないし、老若男女に合わせて態度を変えるのが普通だからだ。
 けれどそれは平時のことであって、緊急時には「素の自分」が出る。そしてそれこそが本当の姿だ。

 ある牧師は普段はとても紳士的で、誰にでも優しく、よく気遣うのだけれど、何か思い通りにいかないことがあると、烈火のごとく怒る。相手を口汚く罵ることもある。特に反論できない弱者に対してそうだ。
 それは牧師に言わせれば「いつもの自分ではなかった」のだろうけれど、いやいや、それこそが本当の姿だ。いつもの紳士的な姿の方が、仮面なのだ。

 同じように、夫人を表向き大切にしていても、イザとなると荒々しく接する牧師がいる。「私は妻をこの世で一番愛している」などとメッセージ等で言いながら、何かあると、信徒の前でも酷い罵声を浴びせることがある。
 こんな経験がある。その牧師が夫人に携帯で電話をかけた。急ぎの用事だった。ところがどちらかの電波が悪かったらしく、途中で切れた。牧師はしばらく待った後、また夫人に電話した。そして怒鳴った。「なんですぐ掛け直さないんだ!俺を待たせるんじゃない!

 結局その牧師は、イザとなるとそういう風に信徒も扱った。怒鳴り散らし、暴言を吐き、強制させ、怯えさせた。普段は優しいのだけれど、怒った時の姿を見ているから、誰もが内心怯えている。教会全体がそういう雰囲気になる。そしてその最たるものが、牧師夫人なのだ。

 夫人は誰よりも激しく怒られ、怒鳴られ、雑に扱われ、誰よりも怯えていた。けれど牧師夫人としての立場もあるから、そんな姿は見せられない。誰にも相談できず、一人苦悩し、神に向かい、ひたすら祈る。けれど何の解決もない。

 教会は一見楽しく、エキサイティングで、信仰に進んでいる。けれどその実、信徒らは内心牧師に怯えている。そして牧師夫人が一番怯えながら、一番耐えている。それは到底、健全な教会とは言えない。

 もちろん、こういう構図がどの教会にも当てはまる訳ではない。けれど決して少なくもないと、私は体験的に感じている。
 教会を見る時には、何気なく、そこの牧師夫人を見てみることをお勧めする(かと言ってジロジロ見てはいけない)。もしかしたら、いろいろわかることがあるかもしれない。そしてそれは、教会全体を見てもなかなかわからない事実を、如実に表しているかもしれない。

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