未信者を「滅びゆく魂」と呼ぶ資格があるのか、という話

2014年10月22日水曜日

キリスト教信仰

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 クリスチャンが未信者のことを「滅びゆく魂」と表現することがある。
「この地の滅びゆく魂が救われるように・・・」等と祈ることがあるし、伝道の準備でそういう言葉が出ることもある。

 それは救われていない人(まだ神様を信じていない人)が救われるように、という愛の気持ちとか、憐れみの心とか、使命感から出るのだろう。それ自体は良いと思う。けれど同時に、この表現に、私は蔑視のようなものを感じる。「自分たちは(滅びゆく魂じゃないから)大丈夫だけどね」みたいな感じだ。私の考えすぎだろうか。

 もちろん、キリストを神と信じないと贖われない、天国に行けない、という意味で、「滅びゆく魂」と言うのは間違っていない。クリスチャンが滅びない、というのも正しいと思う。

 けれど、不祥事を起こして消えていく(文字通り失踪するケースもある)牧師やクリスチャンが後を絶たない現状を見ていると、本当にクリスチャンだから絶対大丈夫、とは言えないような気がする。特に「繁栄の神学」を振り回して信徒から搾取したり、過剰な奉仕をさせたり、暴力をふるったり、聖書を使って精神的に追い詰めたりする牧師らには、そのまま天国に行ってもらっては困ると個人的に思う。天国でまで、暴言を吐かれるような気がする(そんなことあり得ないはずだけれど)。

 あるいは終末信仰・携挙信仰を説いて人々に散財させたり、学歴や職歴を捨てさせたりする輩が、ノウノウと天国に入っていくなど、考えられるだろうか。

 そういう「救われる・救われない」の厳密な話でなくても、「自分たちは(滅びゆく魂じゃないから)大丈夫だけどね」みたいなニュアンスで「滅びゆく魂」を使うのは、何ともいやらしい。「未信者には福音を語ってやらなきゃならないけど、連中は目が開かれていないから、何度言ってもわからないんだよね」などと平気で言う人もいる。他者に対する尊敬がまるでない。

 自分が「救われている」としたら、それはただ恵みによるのであって、自分が努力したからではない。努力して得たものは恵みではない。また「義人でさえかろうじて救われる」のであって、それは当たり前に、軽々クリアできるハードルではない。

 であるなら、「自分は救われている」「あの人は救われていない」という線引きは、もちろん教理的には存在するけれど、クリスチャンの側がエラそうに引くものではない。「自分だって同じ罪人なのです。ただ許してもらえただけです」という意識は、持っていないといけないと私は思う。

「医者を必要とするのは病人」というたとえの通り、キリストは取税人や娼婦に積極的にかかわった。それを引用する現代のクリスチャンが、現代のそういう人々にかかわろうとするのは良いことだ。けれど、そこに「自分が語ってやろう」「救ってやろう」「~してやろう」という意識があるとしたら、それは違う。

 それにそういう意識は、言葉を越えて相手に通じてしまう。その場合、相手の心に響くのは、福音そのものでなく、クリスチャンのいやらしい優越意識だ。「こいつ、何言ってやがる」みたいなことになってしまう。
 そういう反応を見て、「やはり未信者は目が開かれていないんだ」と判断するとしたら、本当に目が開かれていないのはクリスチャンの方だ

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