「もうすぐ携挙」と言い張るクリスチャン(?)がブログ更新を止めて、しばらく過ぎた。
最後の方の記事で、別れを匂わす表現をしていた。けれど、コメントの返事はまだしている。携挙の夢は叶っていないのだろう。
と言うかこのところ、「イエス様が遅れると言っている」などと書いているから、いよいよ「守り」の姿勢に入ったと思われる。すなわち携挙も何も起こらなかった場合の予防線を張っているのだ。
当人は10月の「仮庵の祭」にこだわっていたけれど、祭の期間ももうすぐ終わる。終わった時どうするだろうか。間違いを認めて反省する、ということはないと私は思う。断言してもいい。その後どうするか、大体わかる。聖霊派クリスチャンお得意の「何とでも言える」を駆使するのだ。
「イエス様が携挙を思い直されました」とか、
「確かに霊の次元ですごいことが起きました。気づきませんでしたか?」とか、
適当なことを言って、話をウヤムヤにするだろう。とにかく「自分は神様に聞いているだけ」であって、「神様がいろいろ変えておられる」という主張だ。
もともと「思い込み」で始まったことだから、同じ「思い込み」で、いかようにも軌道修正できてしまう。
しかしそうやって御心をでっち上げるのは、非常に罪深い。少なからぬ人々を惑わしているからだ。自分自身が「信仰の破船」に乗るのはまだいいとして、甘言をもって人々をそこに招き、同じ過ちを犯させようとしている。神様が黙っていないと思う。それで実害を受けている人がいるなら尚更だ。
実際、かつて終末思想に走って失脚した人を私は見た。神様は想像もつかない方法でそれを暴かれたし、間違いを正された。だから今回の当事者にも同じようなことが起こると、私は考えている。
・それを積極的に信じる人々について
上記の「もうすぐ携挙」を信じてしまう人たちが、少なからずいる。そしてもう、みんなして「お別れムード」である。「天国で会いましょう」とか、「私はたぶん第2便で行きます」とか、「霊的なことがわからない人たちの目が開かれますように」とか、まあいろいろ言っている。
そういう発言の共通点は、「信仰のレベル」を気にしている点だ。彼らには「信仰に進んだ霊的な人は携挙される・そうでない人は残される」という価値基準しかなく、完全に競争原理に支配されている。
「あの人は携挙されるだろう」
「私は残されるだろう」
「でも私はこの人よりはマシなはずだ」
どれも上下、優劣、高低の話だ。
そういう人たちは有名牧師や有名クリスチャンの話は聞くけれど、聖書も神の恵みも無視している。
マタイ20章の前半に、ぶどう園の主人と労務者の話がある。主人は早朝と9時、12時、15時、17時にそれぞれ労務者を雇った。そして全員に同じ1デナリを渡した。早朝雇われた者と17時に雇われた者とでは、労働時間がずいぶん違う。けれど主人は「最後の人にも最初の人と同じだけあげたい」と言う。
これが「神の恵み」だ。
「信仰のレベル」を気にする人たちは、この点を無視してしまっている。
「信仰に進んだ分だけ」「祈った分だけ」「奉仕した分だけ」「霊的な分だけ」神に近づき、携挙される資格を得る、というのは単なる対価主義だ。「働いた分だけ多くもらえるはずだ」と考えているに過ぎない。しかし早朝から働いた人も17時から一時間だけ働いた人も同じように扱われるのが、神の恵みである。一般的には不公平な話だけれど、聖書はそれを愛とも憐れみとも呼んでいる。そして、だからこそ神は偉大なのだと私は思う。
「信仰のレベル」を気にする人たちは、そういう神様を自分たちのせまい価値基準の枠に押し込め、神様を都合のいい「祝福生産マシーン」に貶めている。神様の働きを想定内と考え、コントロールできると考えている。
けれどそんなはずはないし、そうであってはならない。
人間の想定内の神様がつくる、人間の想定内の天国に、行きたいだろうか。そこはきっと競争原理と上下関係と、嫉妬と虚栄で満ちている。そんな天国なら私は遠慮したい。
10/10金曜に来ると言っていた携挙が来なくて、困惑しているようですよ。
返信削除3日遅れて月曜になると直前で変更になったそうですが・・。
婆原彰晃でも困惑なんてことがあるのですか。あの面の皮の厚さをみるととても想像できませんが(笑)。
返信削除あのばあさんはかつて会社の顧客情報を派遣社員に扱わせて、その情報が勝手に売却されてしまって、たくさんの人がさまざまな大迷惑をこうむって激怒したというのに、「うちも被害者です。その社員を派遣した派遣会社に損害賠償を請求しています。」といいながら、個人情報を漏えいされて抗議の声をあげている顧客たちに向かっては「うちは小さい会社だからお金は払えない。」と開き直るという本当に厚顔無恥なばあさんです。(確かその年の最低最悪の経営者に選ばれていたという話を聞きました。)
経営者としても人間としてもワースト1のばあさんのいうことなんか真に受けるほうも人間的にみてどうかなと思います。婆原彰晃もバカだと思いますが、賛同して携挙が近いと定期を解約したような連中はもっとバカだと思うのです。
新興宗教系のプロテスタントは宗教詐欺師だらけの世界だということが、まだまだ周知徹底されていないがために、このような事件が全国で毎年のように頻発しています。婆原彰晃のような人間はこれからもどんどん出てきます。私たちは「第二第三の婆原彰晃に心せよ!」と世に訴えていかなくてはなりません。
実は、私の個人情報、その会社で流出しました。当時は、その会社の社長がクリスチャンだとは知らず、あのブログに書いてあったので、この人だと知り、驚きました。そこの会員をすぐにやめたかったのですが、なぜかできずに、対応が遅くて、悪いなぁという印象が残りました。
返信削除クリスチャンだったら、もうちょっと誠意のある対応や謝罪文が欲しかったですね。
残念ではありますが、所詮「宗教」であると言う事を、冷静になって頭を冷やし「①蛇のように聡く、②鳩のように素直であれ」と言われた御言葉を、順序を間違える事無く自分の糧とする事が大切ではないでしょうか?キリスト教界はともすれば、「鳩のように素直に素直に素直に・・・・」とばかり教育されて来たのではないでしょうか?
返信削除勿論私も含めて、「蛇のように聡く」ありたいものです。
携挙携挙とわめいていた婆原彰晃ですが、あのブログはどうみても電波ゆんゆんで、まともな神経ではとても読むに堪えないものになっていますね。
返信削除婆原教祖が聖霊派という新興宗教系のプロテスタントを信じるようになったのは16歳のときだったそうですよ。「若い方、とくにお嬢さんがあまりにも熱心に宗教をやってはいけませんよ。神様の声が聞こえるようになってしまいますよ・・・」を思い出してしまいました。
キリスト教系に限らず新興宗教系の宗教団体では、熱心であることがよいことであり、かつ正しいことだと教えていることがおうおうにしてありますよね。
何も知らない学生が新興宗教系の宗教団体に行ってしまった結果、神様の声が聞こえるようになってしまった悲劇は昔からよくあることなのです。たとえば大山ねづの命神示教会の二代目教祖となった森家の娘がその例ではないかと思うのです。彼女は教団を設立した初代教祖の家柄である稲飯家の出身ではありませんでしたが、熱心に宗教を信じ、しまいに初代教祖をしのぐようなカリスマぶりを発揮したのか、年を取って心身ともに弱り切った初代教祖を自分のところに引き取り、初代教祖の威光をかさに着て、自分の住まいに信者を来させるようになり、最後にはとうとう教団をのっとってしまうほどになってしまったのです。
やはりこの場合も婆原が母教会を乗っ取るか、そうでなければ分裂してかなりの数の信者を連れて出て、上祐のひかりの輪のような新教団を立ち上げるようになるのかもしれませんね。
「婆原教祖が聖霊派という新興宗教系プロテスタントを」と仰っていますが、
削除すべての聖霊派が彼女のような新興宗教ではありません。お間違えのありませんように。
聖霊派でもまともな教会はあることはありますが、そう簡単にはわかりません。それが残念ですね。電波系とか狂信的とか什一献金とかいうのもその教会の個性といえば個性なのでしょう。それがいいと思ってやっているわけです。それならそれでいいのですから、だれが見てもわかるようにそのむねをホームページのトップに大きく出してほしいと思いますよ。
削除その教会がどういった教会であるのかを具体的に知る権利というのは、すべての人に保障された権利でなくてはならないのですよ。自己決定権を侵害することはやはり許されざる話ではないでしょうか。
日本人は権利意識がまだまだ低く、本当なら「ホームページで教会の正確な情報を告知しなかったのは自己決定権の侵害である」と訴訟を起こすくらいのことをすべきなのですね。
ところで、婆原彰晃、って誰ですか?
返信削除ググってもわからないし、ブログを読んでみたくもあるけど。
「携挙 サンプル百貨店」で検索するとわかります。
返信削除新興宗教とはメインラインに入っていないものをいいます
初めてコメントをさせて頂きます。
返信削除この「携挙」と叫んでいた女性の方のブログをFBで「いいね」や「シェア」をしている方がおられて、読んでみました。
この方の言動は聖書からすると、おかしいと思うのですが、結構多くの方が「祝福されました」「勉強になりました」等とコメントをしているが、私には理解できませんでした。
「携挙」がなかったことについては、「聖霊様から、準備をさせたのだよと語られた」というような事を書かれていましたが、またそれを信じる人がいることも不思議です。
マリック様がコメントされていたように、「蛇のように聡く」あることが大切なのですね。
愛希穂様
返信削除コメントありがとうございます。
おっしゃる通り、「恵まれました」と言う人が少なくないのは驚きです。やはり人は、「自分が信じたいものを信じる」のだと思います。
「聖霊様から、準備をさせたのだよと語られた」というのは初めて見ました。方便もいいところです。私がいつも書いているように、そういう論法を使えば何とでも言えますし、どうとでも弁解できてしまいます。それはもはや信仰でなく、聖書も神も関係なく、言うなれば「神を冠した自分教」みたいなものですね。