終末思想にみられる「信仰のレベル」、あるいは競争原理

2014年10月15日水曜日

「終末」に関する問題

t f B! P L
もうすぐ携挙」と言い張るクリスチャン(?)がブログ更新を止めて、しばらく過ぎた。
 最後の方の記事で、別れを匂わす表現をしていた。けれど、コメントの返事はまだしている。携挙の夢は叶っていないのだろう。
 と言うかこのところ、「イエス様が遅れると言っている」などと書いているから、いよいよ「守り」の姿勢に入ったと思われる。すなわち携挙も何も起こらなかった場合の予防線を張っているのだ。
 
 当人は10月の「仮庵の祭」にこだわっていたけれど、祭の期間ももうすぐ終わる。終わった時どうするだろうか。間違いを認めて反省する、ということはないと私は思う。断言してもいい。その後どうするか、大体わかる。聖霊派クリスチャンお得意の「何とでも言える」を駆使するのだ。
 
イエス様が携挙を思い直されました」とか、
確かに霊の次元ですごいことが起きました。気づきませんでしたか?」とか、
 
適当なことを言って、話をウヤムヤにするだろう。とにかく「自分は神様に聞いているだけ」であって、「神様がいろいろ変えておられる」という主張だ。
 もともと「思い込み」で始まったことだから、同じ「思い込み」で、いかようにも軌道修正できてしまう。
 
 しかしそうやって御心をでっち上げるのは、非常に罪深い。少なからぬ人々を惑わしているからだ。自分自身が「信仰の破船」に乗るのはまだいいとして、甘言をもって人々をそこに招き、同じ過ちを犯させようとしている。神様が黙っていないと思う。それで実害を受けている人がいるなら尚更だ。
 
 実際、かつて終末思想に走って失脚した人を私は見た。神様は想像もつかない方法でそれを暴かれたし、間違いを正された。だから今回の当事者にも同じようなことが起こると、私は考えている。
 
・それを積極的に信じる人々について
 
 上記の「もうすぐ携挙」を信じてしまう人たちが、少なからずいる。そしてもう、みんなして「お別れムード」である。「天国で会いましょう」とか、「私はたぶん第2便で行きます」とか、「霊的なことがわからない人たちの目が開かれますように」とか、まあいろいろ言っている。
 
 そういう発言の共通点は、「信仰のレベル」を気にしている点だ。彼らには「信仰に進んだ霊的な人は携挙される・そうでない人は残される」という価値基準しかなく、完全に競争原理に支配されている
「あの人は携挙されるだろう」
「私は残されるだろう」
「でも私はこの人よりはマシなはずだ」
 どれも上下、優劣、高低の話だ。
 
 そういう人たちは有名牧師や有名クリスチャンの話は聞くけれど、聖書も神の恵みも無視している
 マタイ20章の前半に、ぶどう園の主人と労務者の話がある。主人は早朝と9時、12時、15時、17時にそれぞれ労務者を雇った。そして全員に同じ1デナリを渡した。早朝雇われた者と17時に雇われた者とでは、労働時間がずいぶん違う。けれど主人は「最後の人にも最初の人と同じだけあげたい」と言う。
 これが「神の恵み」だ。
「信仰のレベル」を気にする人たちは、この点を無視してしまっている。
 
「信仰に進んだ分だけ」「祈った分だけ」「奉仕した分だけ」「霊的な分だけ」神に近づき、携挙される資格を得る、というのは単なる対価主義だ。「働いた分だけ多くもらえるはずだ」と考えているに過ぎない。しかし早朝から働いた人も17時から一時間だけ働いた人も同じように扱われるのが、神の恵みである。一般的には不公平な話だけれど、聖書はそれを愛とも憐れみとも呼んでいる。そして、だからこそ神は偉大なのだと私は思う。
 
「信仰のレベル」を気にする人たちは、そういう神様を自分たちのせまい価値基準の枠に押し込め、神様を都合のいい「祝福生産マシーン」に貶めている。神様の働きを想定内と考え、コントロールできると考えている。
 けれどそんなはずはないし、そうであってはならない。
 
 人間の想定内の神様がつくる、人間の想定内の天国に、行きたいだろうか。そこはきっと競争原理と上下関係と、嫉妬と虚栄で満ちている。そんな天国なら私は遠慮したい。

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