【雑記】ハロウィン・携挙騒動・もしもの話

2014年10月27日月曜日

雑記

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 ちょっと雑談。

・ハロウィン

 昨日はあちこちでハロウィンの催し物があった様子。といっても「収穫祭」的な意味合いでなく、仮装イベントとか、子どもパーティとか、そういう娯楽だったようだ。仮装は素人でもかなりのクオリティである。きっと楽しかったであろう。

 そういうのをよそに、「ハロウィンの悪魔を退ける」みたいな「霊的戦い」をしてしまったクリスチャンや教会がきっとあったろうと思う。痛々しい限りである。
ハロウィンを祝うと呪われる」と彼らは言うけれど、じゃあ昨日、日本中が呪われてしまったのだろうか。昨日と今日とで、自殺率や殺人事件が格段に増えただろうか。

 そういう連中の「霊的冒険譚」を見ると、たとえば台風を祈りで退けたとか、自由の女神を退けたとか、徳川家康の結界を打ち破ったとか、パチンコ屋を祈りで潰したとか、そういう証明不能、根拠不明、結果不明の「妄言」でしかない。
 たとえば自由の女神と戦って勝ったと言うけれど、その「勝った」とはどういう意味なのだろうか。彼らが勝とうが負けようが、自由の女神は依然としてそこに建っているし、べつに接近禁止とかにもなっていない。アメリカの経済も政治も相変わらずである。

「霊の領域で勝った」を主張する場合、その「勝った」には、実質が伴わなければならない。実質とは現実世界の明らかな変化である。そして明らかな変化とは、様々な要因による偶然の変化を完全に否定した、れっきとした「戦い」の、純然たる「結果」でなければならない。一切の「こじつけ」や「思い込み」を排除しなければならない。そこまで証明して、ようやく「霊的に勝った」と言うことができる。

 べつにハロウィンをどう言おうと勝手だけれど、人の楽しみに水を差すべきではない。なのにそういう無粋なことをするから、「キリスト教は排他的だ」と言われるのではあるまいか。

・携挙騒動

「もうすぐ携挙」と言っていた人が、ついに「言い訳」を公表した。驚きの内容である。

「携挙がくると言ってこなかったのは、それでもなお(神を)信じるかどうか、試すためだった」
「批判者には言いたいことを言わせておけばいい」
「離れていった人ははじめから花嫁ではなかった」

 完全に手前勝手である。「信じていたのに裏切られた」という人の心情に、まったく配慮していない。保身しか考えていない。また、全てを神のせいにしている。神をおとしめている。神と人とに不誠実である。

 もはやかける言葉がないのだけれど、一つだけ、例を挙げてみたい。

 あなたが、友人と待ち合わせをしたとする。
 友人は「じゃあ11時に新宿駅東口で」と言う。
 あなたは11時前に新宿駅東口に行く。
 けれど、友人は11時を過ぎても、12時を過ぎても、来なかった。
 あなたは帰る。友人に電話する。友人は言う。
「行くと言って行かなかったのは、あなたが本当の友人かどうか試すためだった。あしからず!」
 あなたは、その人を次回も信じるだろうか?

 
・もしもの話

「もしも桃太郎がカルト的牧師だったら」という短編を3回に分けて書いたけれど、書いていて楽しかった。フィクションだからこそ、カルト牧師の特徴を、これでもかという程書けたように思う。
 実は最後の「後日談」にもまだ続きがある。「続・後日談」とも言うべきか。ただちょっとブラックなので、公開しない方がいいかと思っている。興味のある方がいれば、個別にご案内したい。

追記)
 当ブログへ来られた方の検索ワードに「携挙 2014」というのがあった。検索された方の意図とは別に、なんだか笑えた。C級ホラー映画の邦題みたいで、「携挙2015」とか、「大携挙2016」とか、「最後の携挙2017」とか、そういう展開を勝手に想像してしまった。もちろん聖書からは一万光年以上かけ離れた発想だけれど。

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