先日、パキスタンのマララ・ユスフザイさんが、ノーベル平和賞を受賞した。
女性の教育の権利を訴えてタリバンに銃撃され、重傷を負ってなお活動を続ける、若干17歳の少女である。銃撃事件後の昨年7月、国連での演説が世界中から注目され、称賛された。「教育こそ解決です」
日本でも報道されたから、記憶にある方も多いと思う。
日本でも報道されたから、記憶にある方も多いと思う。
出所はわからないけれど、一部のクリスチャンの間で、このマララさんはクリスチャンだ、という話が流れた。すると途端に、彼女の行動も演説も、銃撃からの奇跡的な回復も、その恐れに立ち向かう勇気も、「やっぱりクリスチャンだからね」みたいな話になった。そして国連での演説の動画が、もてはやされた。
マララさんがクリスチャンで、素晴らしい信仰の持ち主だから、神様に用いられたんだ、という信仰譚がどうやら出来上がったようである。同じクリスチャンだ、という親近感も芽生えたと思われる。
しかし(彼らにとって)残念なことに、マララさんはクリスチャンではなかった。それがわかると、その信仰譚もパッタリ途絶えた。「マララさんすごい」はどこへやら。
なんだか、クリスチャンだから良い人間だ 、価値が高い、注目に値する、という話みたいだ。
つまり上記の彼らが称賛したのは「ノーベル平和賞を取って超有名になったクリスチャン」であって、「女性の教育の権利を訴えるマララさん」本人ではなかった。「クリスチャンが偉大なことをして有名になり、キリスト教の株を上げてくれた」みたいに考えていたのだ。自分たちの信仰の価値や正当性にしか、関心がなかったのである。
もしマララさん本人を称賛していたのなら、彼女がクリスチャンかどうかに関係なく、虐げられてきた女性たちの権利向上を思って喜んだはずだ。もっと言えば、キリスト教の存在意義とか価値とかの前に、弱者に手を差し伸べることに心を向けるはずだ。
それに、クリスチャンだから良い人間だ、というのはハッキリ言って間違っている。ある牧師は「どうせノンクリなんてこんなもんだ」と未信者をあきらかに蔑視していたけれど、そういうことを平気で言えるクリスチャンの方がよっぽど問題がある。そんな蔑視をしない未信者は大勢いるし、ヘタなクリスチャンよりよっぽど愛深い未信者なんて沢山いる。
所詮、クリスチャンだろうがノンクリスチャンだろうが、同じ人間なのだ。「きよめられた」を主張する聖霊派クリスチャンらは反対するだろうけれど、両者ともまったく同じ罪の性質を持っており、同じように弱く、同じように間違いを犯す。そこに区別はなく、上下もなく、優劣もない。唯一あるとしたら、クリスチャンには聖書の価値基準がある、ということくらいだ(しかしそれとて、自分自身から出たものではないから、クリスチャンが自慢していいものではない)。
当然だけれど、人の価値はクリスチャンかどうかでは決まらない。「主は人のたましいの値打ちをはかられる」と聖書は言っているから、人のたましいの値打ちは、それぞれ違うのだと考えられる。けれど、「私はクリスチャンだから未信者より値打ちは高い」とか思っている人のそれが高いとは言えないと、私は思う。
マララ・ユスフザイさんをクリスチャンだといっていた人たちがいたなんて!?驚きというより呆れ果てて開いた口がふさがりませんでした。こういう人たちはたぶん新興宗教系のキリスト教会の関係者ではないかと思われますが、なぜこういう発想になってしまうのでしょうね。
返信削除「クリスチャンが偉大なことをしてキリスト教の株を上げてくれた。」みたいに考えているのでしたら、それはとても興味深いことです。どうやら彼らの頭の中では「クリスチャンはキリスト教のお株があがるようなことをすべきであって、お株がさがるようなことはしちゃいけない。」という考えがあるということでしょう?
なら彼らはなぜ焼香を拒否しているのでしょうか?あれこそキリスト教のお株を上げるどころか下げる行為の典型的な例ではないかと思うのですよ。彼らはキリスト教のお株をあげなくてはならないと考えているわりには、常日頃の言動はキリスト教のお株を下げるようなものばかりです。たぶん日本にリバイバルがいっこうに起こらないのは、彼らの常日頃からの狂信的な言動が原因で、キリスト教のお株が下がりまくっているからではないのでしょうか(笑)。
「どうせノンクリなんてこんなもんだ。」という発言に至ってはただ笑うしかありませんね。私の知っている年配の方ですが、その方はキリスト教がお嫌いです。なぜならいとこの一人が新興宗教系のキリスト教にだまされて、親(その方にとってはおじおばにあたる)の墓参りをしなくなってしまったからだそうです。その方は小さなころからおじとおばには大変可愛がってもらったので、今でも墓参りには行くそうですが、「クリスチャンは墓参りなんかしない。」と主張しているいとこは全然行きません。もちろん当人の兄弟姉妹からも「あの子はキリスト教を信じるようになってから変になってしまった。」と嫌われています。よってその方も含めて親戚一同キリスト教にはどうしても悪いイメージしかないとかで、アメリカの創価学会みたいな新興宗教系のキリスト教が、イラクとの戦争に好意的な言動をするのをテレビで見て、「どうせキリスト教なんてこんなもんだ。親の墓参りをしないことで兄弟姉妹と対立することを嫌わないのだから戦争も嫌わないのだろう。」と」思ったそうですよ。
ところで、マララさんは国連でのスピーチのなかで、「思いやり」を学んだ対象として、ムハンマド、イエスキリストとあわせて、「Lord Buddha」の名前をあげていますね。
返信削除スッタニパータもダンマパダもそうとう難しい本のはずですが、彼女はムスリムの思考で何を読み取ったのでしょうか。
聞いてみたくは、ありますね。
うなずけた。人の価値はクリスチャンかどうかでは決まらない。私はクリスチャンだから未信者より値打ちは高い」とか思っている人のそれが高いとは言得ないと私は思う。にとても共感した。私が選ばれたのは愚かだからともかかれている。クリスチャンが唯一幸いなことはクリスチャンには聖書の価値基準がある、ということくらいだ。にそれがどんなに善いものであるかを学び続けたい。私の人生の終わりまで。気づかせてくれて、ありがとー。ありきたりだけど、感謝。
返信削除匿名様
削除コメントありがとうございます。
「ノンクリなんてこんなもんだ」発言をした牧師ですが、今じゃ牧師廃業して見る影もありません。他人の価値を勝手に決めてる時点でおかしいんだと思います。そう言うあなたは何様なのって感じです。
反面教師にしたいものです。