クリスチャンか否かで決まらない価値。マララさんのノーベル平和賞受賞をみて。

2014年10月11日土曜日

キリスト教信仰 時事問題

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 先日、パキスタンのマララ・ユスフザイさんが、ノーベル平和賞を受賞した。
 
 女性の教育の権利を訴えてタリバンに銃撃され、重傷を負ってなお活動を続ける、若干17歳の少女である。銃撃事件後の昨年7月、国連での演説が世界中から注目され、称賛された。「教育こそ解決です」
 日本でも報道されたから、記憶にある方も多いと思う。
 
 出所はわからないけれど、一部のクリスチャンの間で、このマララさんはクリスチャンだ、という話が流れた。すると途端に、彼女の行動も演説も、銃撃からの奇跡的な回復も、その恐れに立ち向かう勇気も、「やっぱりクリスチャンだからね」みたいな話になった。そして国連での演説の動画が、もてはやされた。
 
 マララさんがクリスチャンで、素晴らしい信仰の持ち主だから、神様に用いられたんだ、という信仰譚がどうやら出来上がったようである。同じクリスチャンだ、という親近感も芽生えたと思われる。

 しかし(彼らにとって)残念なことに、マララさんはクリスチャンではなかった。それがわかると、その信仰譚もパッタリ途絶えた。「マララさんすごい」はどこへやら。
 
 なんだか、クリスチャンだから良い人間だ 、価値が高い、注目に値する、という話みたいだ。
 
 つまり上記の彼らが称賛したのは「ノーベル平和賞を取って超有名になったクリスチャン」であって、「女性の教育の権利を訴えるマララさん」本人ではなかった。「クリスチャンが偉大なことをして有名になり、キリスト教の株を上げてくれた」みたいに考えていたのだ。自分たちの信仰の価値や正当性にしか、関心がなかったのである。
 もしマララさん本人を称賛していたのなら、彼女がクリスチャンかどうかに関係なく、虐げられてきた女性たちの権利向上を思って喜んだはずだ。もっと言えば、キリスト教の存在意義とか価値とかの前に、弱者に手を差し伸べることに心を向けるはずだ。
 
 それに、クリスチャンだから良い人間だ、というのはハッキリ言って間違っている。ある牧師は「どうせノンクリなんてこんなもんだ」と未信者をあきらかに蔑視していたけれど、そういうことを平気で言えるクリスチャンの方がよっぽど問題がある。そんな蔑視をしない未信者は大勢いるし、ヘタなクリスチャンよりよっぽど愛深い未信者なんて沢山いる。
 
 所詮、クリスチャンだろうがノンクリスチャンだろうが、同じ人間なのだ。「きよめられた」を主張する聖霊派クリスチャンらは反対するだろうけれど、両者ともまったく同じ罪の性質を持っており、同じように弱く、同じように間違いを犯す。そこに区別はなく、上下もなく、優劣もない。唯一あるとしたら、クリスチャンには聖書の価値基準がある、ということくらいだ(しかしそれとて、自分自身から出たものではないから、クリスチャンが自慢していいものではない)。
 
 当然だけれど、人の価値はクリスチャンかどうかでは決まらない。「主は人のたましいの値打ちをはかられる」と聖書は言っているから、人のたましいの値打ちは、それぞれ違うのだと考えられる。けれど、「私はクリスチャンだから未信者より値打ちは高い」とか思っている人のそれが高いとは言えないと、私は思う。

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