「母さん助けて詐欺」と「終末の惑わし」の共通点

2014年10月1日水曜日

「終末」に関する問題

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 マタイの福音書24章で、キリストは終末について語っている。
 

 もちろん、世の終わりにどんなことが起こるか、ということも語っているけれど、それより私たちが何に注意しなければいけないか、に重きが置かれているように思う。その注意というのは、大雑把に言って2つある。24章を前半後半に分けると、前半は「惑わされないようにしなさい」、後半は「用心していなさい」と言っている。
 すなわち、

①にせ預言者が多く起こって、多くの人を惑わします。(11節・新改訳)
②用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。(44節・新改訳)

 今回は、この①について考えてみたい。

・惑わしについて

「惑わされないようにしなさい」と言われると、多くの人が、「よし、気をつけよう」と思う。私もそう思う。けれど「気をつけよう」だけで騙される人がいなくなるなら、いわゆる「母さん助けて詐欺」(旧称オレオレ詐欺)みたいな詐欺は蔓延しないと思う。「あんな手口、自分は引っかからないぞ」と普段から注意している人がコロッと騙される訳で、そこに詐欺とか人間心理とかの恐ろしさがある。注意しているつもり、わかっているつもり、という落とし穴がある。

 その証拠に、①の通り、「多くの人が惑わされる」とキリスト自身が明言している。つまり、騙されないで済む人は少なく、終末の時、多くの人が騙されることになる。キリストのこのシンプルな注意喚起は、結論から言うと、多くの人の心に届かない(かくいう私も騙されるかもしれない)。

 ではどうしたら良いかというと、少なくとも「よし、気をつけよう」だけではダメであろう。もっと明確な効力のある、具体的な何かでなければならない。
 そしてそのヒントは、「母さん助け詐欺」の対策と共通しているように思える。

・「母さん助けて詐欺」と「終末の惑わし」の共通点

①それは身内を装ってくる
「母さん助けて詐欺」の基本パターンは、息子のフリをした犯人が高齢者を騙す。つまり、身内を装ってくる。
 終末の惑わしは「私こそキリストだ」と騙る人が多く起こる訳で、惑わす者はクリスチャン、つまり身内を装ってくる。だからこの惑わしは、別宗教の人がクリスチャンを惑わそうとするのでなく、クリスチャンと思われる人たちが、福音に似た別物を巧妙に広めていくのだと思われる。そして信仰から少しずつ少しずつ、人々をずらしていく。騙される方は、相手がクリスチャンだから、有名な先生だから、影響力のある誰々さんだから、ということで信じてしまう。そこには、「身内だから」という油断がある。

②それは見分けが付きにくい
「母さん助けて詐欺」の電話は、息子らしき人物がいきなり泣き叫ぶことで、被害者を緊急事態に追い込む。そして「ああ息子がこんなに苦しんでいる。すぐに何とかしなきゃ」という切迫した心理状態に追い込む。結果、息子の声と違うとか、話し方や言葉遣いが違うとか、そういう普通なら気づく差異に気づかない。すっかり息子だと思い込んでしまう。
 親の愛を利用した、巧妙な手口だ。
 終末の惑わしもそれに似ていて、にせクリスチャンらは、信仰モドキを巧妙に吹き込んでくる。「これは新しく開かれた真理だ」とか、「主は少数の選民に特別な啓示を与える」とかいろいろ言って、聖書と違う原理原則へとちょっとずつスライドさせる。騙される方は、聖書から次第にずれていっていることに気づかない。

③それは大きなことを言う
「母さん助けて詐欺」は、いきなり何百万円もの支払いを要求してくる。その額の大きさが、被害者を余計にパニックに陥らせる。そして正常な判断力を奪ってしまう。
 終末の惑わしもそれに似ている。キリスト言わく、「大きなしるしや不思議なことをして見せます」
 にせクリスチャンらの行いに通常では考えられないような奇跡が伴うことで、「ああ、これは本当に神様だ」と思わせる。それは偽物を信じさせる強力な武器となる。
 そして、それはすでに起こっている。礼拝中に降ってくる「天使の羽」とか、「金粉」とか、「天使の声」とか、そういう事象が一部の教会で見られている。しかし、その体験によって信仰の正当性が測られるのではない。聖書を見ると、悪魔も一定の奇跡を起こすのがわかる。信仰の正当性を測るのは、あくまで聖書に基づいているか、矛盾していないか、その結果どういう結実があるか、という点においてだ。

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