今回はちょっと雑談的に。
「もうすぐ携挙」を言っていた人は、結局何も起こらなくて、どうやら延期説を採用したようだ。
そのブログでは、まるで何もなかったみたいに別のことを書いている。予想した通りの展開だけれど、こういう予想は当たってもちっとも嬉しくない。
次なる「特定日」がいつになるかわからないけれど、さすがに同じ轍は踏まないだろうから、慎重にはなるだろう。
それにしても、今回のことで、どこからも何の抗議もなかったのだろうか。信じていた人で、「間違いだった」と気づく人はいなかったのだろうか。ブログのコメントには、「携挙が延期されたのも理由があるのでしょう」みたいに理解を示すものがあるけれど、どうなのだろうか。
ここまでくると、信じる側にも問題があると思う。「何か特別な者でありたい」「一目おかれる存在でありたい」みたいな動機を感じる。だから「霊的なことがわかる」と主張し、「他の人にはわからなくても自分にはわかる」と言うのだ。傍から見ると、痛々しい限りだけれど。
そういう人は、多分、ひどい実害を受けないとわからない。たとえば金銭とか家族とか、大切なものを失って、はじめて誤りに気づく。けれど気づいた時には遅い。かといって、気づくまでは何を言われてもわからない。完全に八方ふさがりである。
話題を変える。
昨日のコメントで、アメリカのサドルバック教会のことが取り上げられていた(コメント感謝)。
サドルバックと言えばリック・ウォレン牧師である。日本では "purpose driven" 思想の書籍「人生を導く5つの目的」がヒットしていて、キリスト教書店に行くと、彼のコーナーが一角に設けられている。
その本は未読だけれど、彼の思想が「目的志向型」なのは周知である。人間個人に注目するのでなく、その人が「何をするか」に注目する、というのはビジネスの世界では基本である。そこでは「行動」と「成果」が全てだからだ。
けれど、ビジネス的な「目的志向」をそのままキリスト教に当てはめるのは、正直微妙である。
もしキリストが目的志向型だったら、木の上のザアカイに声をかけたのは、彼個人の救いに関心があったからでなく、彼に「不正にとった金を皆に返します」と言わせるためだった、ということになる。ザアカイの魂のことは二の次、三の次である。
そういう思想の本を「聖書を土台とした人生の指南書」みたいに紹介するのは、私は大変な問題なのではないかと思う。キリスト教系出版社の方には、ぜひとも考えていただきたい。
リック・ウォレンというと、他にも「チャック・スミス追悼記念会事件」とか、キリスト教とイスラム教の奇跡(?)の融合「キリラム教」とか、話題に事欠かない。興味のある方は調べてみたらいいと思う。