2013年10月31日木曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第7話

 溝田牧師がイスラエル旅行に行き、一週間ほどで帰ってきた。
 案の定、次の礼拝はイスラエルの土産話に終始した。メッセージらしいメッセージはなく、イスラエルの名所がスライドで映し出される。写真ごとに溝田牧師の語りが入り、皆笑ったり、涙を流したり。最後はイスラエルのために祈ろうということになって、最大音量の奏楽の中、皆で大声で祈った。窓ガラスが曇るくらいの異様な熱気に包まれたまま、礼拝は幕を閉じた。

 昼食の最中、溝田牧師が言う。「イスラエルで撮ったビデオがあるんです。見てみませんか」
 何人かのスタッフが機材をいじり始め、スクリーンを出し、会堂を暗くする。試写室みたいになった。誰かが溝田牧師にリモコンを手渡す。牧師はそれを振りながらキマジメくんを呼んだ。
「キマジメくん、これ操作して」
 牧師はふんぞりかえったまま、リモコンを振り続けている。キマジメくんは走り寄ってそれをもらいに行った。
「私が指示するから、その通りに操作して」
「はい」
 溝田牧師はマイクで話し出す。「じゃ、これからイスラエルで私が撮ったビデオを見ていきましょう。キマジメくん、再生」
 キマジメくんは急いで再生ボタンを探し、押した。映像が始まった。ビデオは普段から使っているけれど、自分のものとは違う。リモコンも勝手が違うのでいちいち時間がかかってしまう。
 映像に合わせて、溝田牧師が何やら話している。皆、おおとかああとか反応している。時折「早送りして」と言われ、キマジメくんはその通りボタンを押した。

 そのうちに、溝田牧師の指示が慌ただしくなった。「早送りして」「ちょっと戻して」「やっぱ10分くらい早送りして」「行き過ぎた。戻して」キマジメくんは慌てて操作しているうち、早送りと巻き戻しを押し間違えた。
「違うって! 早送りだよ! ほら時間ないんだから」溝田牧師の叱責が飛ぶ。「ああ、今度は行き過ぎた。少しずつ戻してみて」
「はい」キマジメくんは小刻みに戻し始めた。映像の中の噴水が、ゆっくりと水を戻していく。
「あのねえキマジメくん、おっかなびっくり戻してたら日が暮れちゃうだろ。もっと大胆に戻してくれよ」
「はい」
「ああ、また戻し過ぎた。もうちょっと考えて操作してくれないかな。せっかくのビデオが台無しなんだけど」
 キマジメくんは恥ずかしいやら情けないやら、腹立たしいやらで、立ち上がった。けれど暗いので誰も気づかない。キマジメくんはまっすぐ溝田牧師のもとへ行き、リモコンを差し出した。「先生が操作された方がいいのでは…」
 途端に溝田牧師の顔つきが険しくなる。マイクを遠ざけ、小声で言う。「牧師にそんなことさせる気か? 早く戻れ!」
 キマジメくんはそのままリモコンを置いて行ってしまおうかと思ったが、寸前で思いとどまった。まっすぐ自分の席に戻り、憤慨したまま操作を続けた。

 牧師に対して腹を立てるのはいけないことだと思いながら、キマジメくんはそれを我慢することができなかった。なぜ自分はこんな扱いを受け、耐えなければならないのだろうか。あの後から入ってきたリッチ兄弟には、牧師は依然として親切に接している。なぜ自分はああいう扱いをされないのだろうか。いったい何が違うのだろう…。

 悶々と操作しているうち、ビデオは終わった。他の信徒たちは「ハレルヤ」とか「素晴らしい」とか「アーメン」とか口々に言いながら、それぞれ歓談を始める。キマジメくんは牧師のもとへ行き、黙ってリモコンを差し出しす。牧師はリッチ兄弟と話していたが、キマジメくんを見て「ありがとね、キマジメくん」と声をかけた。さっきの暴言など、なかったかのようだ。

 キマジメくんは聞こえない振りをして、自分の席に戻った。ささやかな、しかし精一杯の反抗だった。(続く)

・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。

独裁的教会運営の影で、追放される信徒たち

 以前、「独裁的教会運営の構造」について書いた。そこでは主にリーダーの問題点について書いたけれど、信徒の側についても補足する必要があると思う。

■反発する信徒は追放され、残るのはイエスマンだけ

 私が知っている教会もそうだったけれど、リーダーのやり方に堂々と意見できる信徒というのがいる。大体が反対意見だ。反対されたらリーダーは面白くないだろうし、ミーティングであれば長引くから、周囲からはあまり好まれない。その信徒はただ率直な意見を言っているだけだし、皆がなかなか言えないことを言ってくれる大事な存在なのだが、ともすると「反抗的」とか「不従順」とか思われてしまう。
 それでリーダーと決定的に対立するような事態が起こると、修羅場になってしまったりする。そうなると最終的には、その信徒は泣く泣く教会を出て行くことなる(そういうケースは実際にたくさんある)。
 本来なら、反対意見は大事にしなければならない。議論を深め、短絡的な結論を避けることができるからだ。なんでもすんなり決まった方が楽だけれど、それは長期的には組織にとって良くない。

 そうやってリーダーともめて出て行った信徒というのは、教会側からすれば「追放処分」だ。リーダーも自分を正当化するには、その信徒のことを悪く言うしかない。「彼は不従順の罪を犯し、再三忠告したのに悔い改めなかった」とか何とか。

 そういうケースが続くと、信徒の側には「反対してはいけない」「リーダーの言う通りに進めなければならない」という暗黙の了解が形作られていく。これは独裁的教会運営を許す一因となると思う。何故なら率直な意見を言う信徒はどんどん出て行き、リーダーに従順すぎる(あるいは思考停止状態の)信徒だけが残っていくからだ

 この背後には、「従順=何でもリーダーに従うこと」という誤った認識がある。

■では複数リーダー制が良いのか

 余談だが、独裁を避けるため、同等の権限を持った複数のリーダーを立てるべきだ、という意見がある。実際そういう形の教会政治の教派がある。それはそれで良いかもしれない。

 しかし私自身がそういうリーダーの一人として関わったあるキリスト教団体は、複数リーダー制が奏功しなかったと言わざるを得ない。意見が多すぎて、「船頭多くして船山に登る」的な状態になってしまったからだ。
 独裁的教会は意思決定の速さがメリットだろうが、複数リーダー制にはそれは期待できないだろう。もちろん単に時間がかかるだけで、より良い結論を出せるならベストだと思う。けれど何も決まらない、決まっても一貫性がない、というような状態になると、結局何がしたいのかわからない団体になってしまう。

 月並みな解決策だけれど、これには組織としての成熟、関わる個人としての成熟が必要だと思う。
 テレビや書籍を見ると、多くの民間企業や団体が、この成熟を目指して日々努力を重ねているのがわかる。そうであるなら、キリスト教会や関連団体こそ率先してそれを目指すべきではないかと私は思う。

2013年10月30日水曜日

曖昧な「預言」、恐怖の「預言」、真実の預言。

「預言」というのがある。簡単に定義すると「神様の言葉を預かって語る」ことだと思う。
 よく「未来に起こることを語る」という意味の「予言」と勘違いされる。字面も似ている。
 確かに「預言」は未来に関することも含むので、完全に間違いではないと思う。けれど「預言」の趣旨は未来の暗示というより、「神様からの励まし」みたいなものだと私は認識している。

 私の所属していた教会はこの預言を重要視していて、礼拝などでもよく語られていた。私の教会だけでなく、いわゆる聖霊派の教会の多くはそうだろう。以前高田馬場の「預言カフェ」が話題になったけれど、あれも同じような流れだと思う(私自身は行ったことがない)。

 預言の是非は教派によって別れるところだろうが、私自身は今もあり得る考えている(絶対に全くない、と断言するのは危険ではないだろうか)。けれどよくよく注意しなければならないとも思っている。

■預言の成就は曖昧でいいのか

 預言は基本的に「成就してナンボ」だと思う。
 例えば使徒の働き21章にアガボという預言者が出てくるが、彼はパウロが「エルサレムでユダヤ人に縛られて異邦人に渡される」と預言して、その通りになった。しかし一方、エレミヤ書27章には多くの偽預言者たちが出てきて、神様の勧めとは正反対のことを預言として語った。結果、彼らは滅びることとなった。

 このように、預言が正しいかどうかの判断基準は「その通りになったかどうか」にあると思う。

 私が実際に見聞きしてきた「預言」の中には、例えば「〇年〇月に〇〇で地震が起こる」とか「〇年〇月に〇〇に裁きの火が注がれる」とかいうのがあった。けれど結局何も起こらなかった。その弁明として、「霊の次元で起こった」とか「〇〇の人々が悔い改めたから回避された」とか言っていて、当時はそんなもんかと聞いていたものだ。
 しかし「霊の次元で起こった」というのは確認のしようがないし、何とでも言えるという点で、曖昧すぎて信憑性の問題がある。「疑うのは不信仰だ」とか言われても、実際に起こるとされたものが起こらず、霊が云々で曖昧にされるのは、やはり本物ではなかったのではないか。

 他にも、「あなたは今まで苦しみを通ってきたけれど、これから新しい季節がやってくる」などの励まし系の預言もあった。これは前述のタイプの預言に比べたら、成就云々はあまり重要ではないだろう。そういう意味で無害な(?)預言ではないかと思う。しかし、「苦しんできた」というのも「新しい季節がくる」というのも、ほぼ万人に当てはまる曖昧なキーワードだ。誰もが何となく当てはまるだろうし、何となく思い当たるだろう。真剣に信じる人は喜ぶかもしれない。そういう意味で、朝のニュースでやっている「占いコーナー」と大差ないような気がする。
 
■人を恐怖させる「預言」は本物なのか
 
 こんな預言もあった。「(会衆に向けて)この中に、今後、左眼に重大な問題が生じる人がいます。とても重大な問題です」
 私はその会衆の中にいたのだが、とても怖かったのを覚えている。「まさか自分ではないだろう」と思ったが、もちろんそんな確証はなかった。時限式の爆弾を他人に押し付けるような気持ちで、「他の誰かに違いない」と必死で思うようにしていた(我ながら愛のない態度だ)。けれど今に至るまで、私にそういう問題は起こっておらず、そこにいた人々に起こったという話も聞いていない。
 
 また、「あなたが〇〇大学で学んでいる姿が見えました」と言われた学生もいた。ちょうど大学進学について考えていたから、タイムリーと言えばタイムリーだったろう。けれど本人としては、「何としてもそこに入らなければならない空気になった」ことが不本意であったのと、「そこに入らなければ良くないことが起こるのではないか」という恐怖があったという。その気持ちはよくわかる(結局その学生は諸事情あって別の大学に入った)。
 
 それらの「預言」が人を励ましたのかどうか、大いに疑問ではないだろうか。
 
■偽預言に注意
 
 聖書は「偽預言者が多く出る」と言っているけれど、まさにその通りだと思う。私たちはよくよく注意しなければならない。前述のエレミヤ書を見ても、預言者と呼ばれた人々の大部分はニセモノだった。それは今も昔も変わらないのではないか。
 
 しかし同時に注意したいのは、ニセモノが多いからと、真実の声にまで耳を閉ざしてしまうことだと私は思う。

2013年10月28日月曜日

「意図」と「結果」の因果関係。男性牧師と女性信徒たちの関係について思うこと。

 ある男性牧師のまわりには、いつも女性ばかりがいた。
 近くで働くスタッフはほとんど女性で、カウンセリングの対象となるのも、私の知る限り女性信徒ばかり。いろいろな集会やミーティングの後、その牧師と一緒に遅くまで残って歓談するのは、やはり女性たち。SNSをみるとその手の写真がたくさん出てくる。

 
 日本の教会の男女構成比は、正確なデータはないがおそらく女性の方が高いだろう。だから何かと目立つのは女性たちで、結果的にそういう状況になるのもある程度は必然だと思う。けれど妻帯している牧師のまわりをいつも若い女性信徒が囲むという風景には、どうも違和感を覚えた。
 その牧師にはそういう意図がなく、結果的にそうなっただけなのかもしれないけれど。

 しかしこの「意図」と「結果」の関係について考えてみると、両者にまったく相関関係がないとは言えない。

 もちろん、意図したことがいつもそのまま結果になるという訳ではない。
 大学受験した学生が必ず合格する訳ではないし、企業した若者が必ず成功する訳でもない。若者でいっぱいの教会を目指して開拓伝道した牧師が、結果的に高齢者ばかりの教会を作るということもあるかもしれない。
 願う通りにならないというのは、この世の常であろう。

 けれど一方、あくまでその意図を諦めないことで、一定の結果をみるのもまた世の常だ。
 例えば私の知り合いは、若くして舞台俳優を目指し、海外へ出て行った。けれどなかなか芽が出ず、アルバイト生活を長い間続けることとなった。それでも諦めず挑戦し続けた結果、20数年後、初めてエキストラとしてCMに出演することができた。今もオーディションを受け続ける日々だから、結果を出したとは言えないかもしれない。けれどその人が俳優業界に生きているのは間違いないし、俳優を目指しはじめた素人とは経験的にも知識的にも全然違う次元にいる。それはその人が意図した結果だろう。

 諦めないことで、あるいはあくまで継続することで、私たちはそれぞれ(意識的にも無意識的にも)、意図した結果に近づいていくのだと思う。
 例えば、卒業後も友人たちと交流したいと願う人と、願わない人とがいる。それぞれの10年後は、ほぼそれぞれが願った通りになっているだろう。

 そういう視点でみると、その男性牧師が女性信徒ばかりを侍らせるのにも、もともとそういう意図があるからではないかと思えてしまう。もしそれが誤解だとしても、そういう誤解があり得ることは容易に想像できるはずだし、避けるべきではないだろうか(それが想像できないとしたらまた別の問題がある)。その牧師がそれをよくわかっていて、「これは何とかしなければ誤解されてしまう」と真剣に対応するならば、当然状況は変えられるはずだからだ。

 もしかしたら牧師が言い訳として、「イエス様にも大勢の女性が近くで仕えていた」とか言うかもしれない。けれどもっと近くに12人も男がいたという事実を、まさか牧師が忘れるはずがないだろうと思う。

「教会探し」は悪いことなのか

■「教会探し」について思っていたこと

私が所属していた教会だけかどうかわからないが、割と人の出入りが多かったように思う。もちろんレギュラーメンバーはいるけれど、新しく来る人も多く、出て行く(というか来なくなる)人も多かった。数週とか数ヶ月とか数年とかいうスパンで、そういうことが繰り返されていたように思う。

 私はもともと、「教会探し」を良く思っていなかった。一箇所に定着して落ち着いた信仰生活を送るのがベストだと思っていたし、いろいろな教会を巡ることで選り好みが強くなり、結局一箇所に決められなくなると思っていたからだ(現在はそれとは若干異なった視点を持っている)。

 実際、新来者の方と話してみると、「教会探し」を長年している人が多かった。方々の教会を巡った末に私の教会に辿り着き、そしてまた出て行った、という人は数え切れない。
 もちろん進学とか就職とか転勤とか家族の都合とかで引っ越さねばならないケースはあるし、諸事情あってそうなったケースもあるだろう。けれどその後も延々と「教会探し」が続くとしたら、その人の信仰生活(あるいは教会生活)がどのようになっていくのか、他人事ながら心配ではあった。

 しかしそういう私が通うべき教会を失い、どうすべきかと困惑した時になって、初めて「教会探し」の真の気持ちを体験できたように思う。しかも私のそれは決して積極的・肯定的なものでなく、喪失感と失望感に偏ったものだった。だから(教会というものに対する)基本的な信頼感から始めなければならなかった。そしてそれは今尚続いてる。

■信頼感の欠如がもたらすもの

 信頼感というのは、ある程度ルーチン化された日常生活の中では意識されないものだと思う。それは人の行動の土台だし、それなしには何もできないくらい、当たり前にあるべきものだからだ。
 例えば朝起きた時、世界が昨日とまったく同じ法則で今日も動いていると信じられなかったら、気軽に外出できない。財布に入っている千円札で本当にコンビニ弁当が買えるのかと疑っていたら、買い物もできない。

 それと同じような理屈で、「教会は○○なところだ。だから自分の人生を預ける価値があるのだ」という信頼感がないなら、どうして一つの教会に決められるだろうか。それは「ここの教会はこう」「あそこの教会はこう」というランク付けという意味ではない。教会の良し悪しとは全く関係ない、というかそれ以前の問題だと思う。そこにある心理は「教会につながるべきだと思う。でも怖くてできない」というようなものではないか。少なくとも私はそうだ。

 信頼感の反対側にあるのは、恐怖感であろう。

 そういう視点で冒頭の「教会探し」を見てみると、また違った意味が見えてくる。もちろんそこには単純な選り好みもあるかもしれないが、「何を信じたら良いのか」「本当にこの教会は信頼できるのか」という苦悩というか、葛藤みたいなものがあるように思う(教会からしてみれば失礼な話だろうが)。

■「教会探し」について今思っていること

 教会探しをどうしたらいいのか、そもそも教会とは探すものなのか等、今の私にはわからないことばかりだ。信頼感の回復には相当の時間がかかるような気がする。

 一つの教会しか知らず、そこでずっと過ごす、というのが良いのかもしれない。けれどその教会に致命的な問題が隠れていて、気づかぬうちに蝕まれていくとしたら悲劇ではないか。
 いろいろな教会を渡り歩くことで何らかの判断基準を模索しようとするのは、放浪者のようで安定を欠いているのかもしれない。また教会をランク付けするような傲慢に陥りやすいかもしれない。けれど「本当にこれでいいのか」と絶えず自問するその姿勢だけは、決して間違っていないと思う。

2013年10月27日日曜日

神の為に富を放棄することと、放棄させられることは違う

■自ら富を放棄すること

 キリスト教というと、「清貧」という言葉がイメージされるかもしれない。

「清貧」は最古の修道院、ベネディクト会の戒律でもある。貧しいと言うより、余分な富を持たないで労働と祈りと共同生活に徹する、という意味合いだったと聞いている。だから「貧乏」という表現は適切でないだろう。それより「質素」とか「倹約」とかいう言葉の方が似合うと思う。

 けれどどうも、単なる「貧乏」と認識されやすい傾向があると思う。これはよく語られる牧師や宣教師の「開拓伝道中の貧乏話」によるところが大きいと思う。私も実際に聞いたことがあるけれど、味噌汁しかなくて公園の葉っぱを具にしたとか、一年間Tシャツと短パンだけで過ごしたとか、現在の日本では考えられないような「ジリ貧」振りも珍しくない。開拓伝道=貧乏、くらいの認識があるかもしれない(そういう苦労を経て教会を築き上げた方々の献身には本当に頭が下がる)。

 私の知っている牧師も、「神様のためなら多少の貧乏なんてどうってことない」と言っていた。そこには「神のために働くことは貧乏することだ」くらいの認識があるような気がする。
 もちろん開拓を始めたばかりで信徒もおらず、母教会等からの援助もないなら、無収入だから貧乏になるのは必定だ。それでも次第に人が集まって教会の体を成していくならいいだろうが、そうならない場合もある。そういう苦労とリスクを背負う開拓者の精神を、私は本当に尊敬する。

 けれど、これは厳密に言うと「清貧」とは違うだろうと思う。修道院のケースで言えば、べつにとりたててお金に困っている訳ではなく、あえて質素な生活を選択することで、「清貧」を標榜しているからだ。
 ただし、自ら富を放棄するという意味では、修道院も開拓伝道者も似ているだろうと思う。

■富を放棄させられること

 しかしこの「自ら富を放棄する」という選択が、事実上の強制になることがある。

 ある教会で、スタッフの給与支払いが遅れる、あるいは結果的に支払われない、というようなことがあった。理由は教会会計が苦しいからという単純なものなのだが、「神の為なんだからこれくらい我慢してくれ」という雰囲気があって、誰も何も言えなかった(言えば不信仰だと責められる)。

 この理不尽を補強する聖書箇所はいくつかある。たとえば第一列王記17章の、エリヤを養うことになるやもめの話だ。飢饉の激しい時期で、やもめとその息子はまさに餓死しようとしていた。また第二列王記4章にも、借金返済の為に子どもを奴隷にしなければならないやもめが登場する。新約聖書を見ても、ペテロが税金を払えない場面というのがある。
 これらの例に共通するのは、もはやこれまで的な赤貧状態を神様に助けられた、ということだ。それ自体は素晴らしいことだと思う。けれどこういうケースばかりが強調されて、「絶体絶命の状態にまで陥らないと神の御業は見られない」というメッセージに変換される。そうすると前述の給与未払いは、なんだか「信仰のチャレンジ」みたいに見えてくる。

 こういう聖書補強と教会全体の雰囲気の中では、真面目なスタッフほど文句が言えなくなる。むしろ文句どころか、良き信仰者であろうと、率先してこれに従う。特に贅沢したいと思っている訳でもない。結果として、貧乏をさせられることになる。

 これが独身の信徒一人のことならまだマシだが、家族がいると問題はより深刻になる。幼い子どもがいるなら将来が思いやられるだろう。

 余談だが、そういう教会でスタッフをしながら時々おいしいものが食べたいと思ったら、牧師の出張に付き添ったらいい。「神の為に貧乏も厭わない」はずの牧師と一緒に、豪勢な食事にありつける可能性が高いからだ。

2013年10月25日金曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第6話

 キマジメくんが教会のポスター作りを担当して、はや6ヶ月。
 この間、月に一枚のペースでポスターを作ってきた。だんだん溝田牧師の好みがわかってきて、作業はスムースになった。まだ作り直しを頼まれることもあるけれど、以前のような徹夜作業にはならない。教会の皆にもポスターをよく褒められる。キマジメくんの居場所が、そこにできつつあった。

 その反面、大学でのキマジメくんの存在感は薄れつつある。講義に出席するだけで、友達付き合いをしなくなったからだ。バイトがあるのも理由の一つだが、大きな理由は「酒」にあった。
 放課後友人に付き合うと、何だかんだで酒の席に辿り着く。もちろん毎回ではないだろうし多少飲むのは問題ないけれど、溝田牧師から「大学生はこれだけは注意するように」と言われたリストがあって、そこに酒が入っていたのだ(ちなみにリストにあったのは酒、タバコ、ギャンブル、女だった)。

 キマジメくんは、純粋に神様のために生きたいと願っていた。だから教会で教えられたことや禁止されたことは、真剣に受け止めたい。そのせいで友達付き合いが減り、楽しいことを我慢しなければならないとしても、神様には変えられないのではないか。
 礼拝でよく歌われる「キリストには変えられません」の歌詞を思うと、そんな自分の選択は間違っていないと思えた。

 大きな伝道集会があって、キマジメくんの作ったポスターがあちこちに貼り出された。小さい版もたくさん印刷され、伝道隊によって地域に配られた。そうやって自分の作品が大勢の目に触れるのは、何だか嬉しい。けれどそれは顔に出さないようにした。

 実は以前、同じようにポスターが配られるのを嬉しく思って見ていた時、溝田牧師にこんなふうに注意された。
「キマジメくん、自分のポスターだからと愛着を持ってはいけないよ。まして傲慢な態度は良くない。それは確かに君が作ったものだが、実は神様によって作らせていただいたものなんだ。だから本当は君のものではない。今度から、作ったポスターは気持ちの上でも完全にリリースしなさい」
 自慢げな気持ちがあったのは事実なので、キマジメくんは反省した。

 そして伝道集会の当日がきた。未信者はさほど来なかったけれど、集会としてはそつなく終わった。他の教会のクリスチャンが何人か来ていて、集会の後もゆっくりしていた。その中に太めの中年男性がいて、溝田牧師と楽しげに話しこんでいる。たまたま近くを通りかかった時、牧師に呼び止められた。「キマジメくん、君にも紹介しとこうか。こちら、近所の教会から来られたリッチ兄弟」
 ああどうも、と互いに名前だけ紹介する。言い終らないうちに、「キマジメくん」と溝田牧師が言う。「リッチ兄弟に、ちょっと何か飲み物とか持ってきて」
 突然ふられて反応に困ったけれど、ハイと返事をしてその場を離れた。あたりを見ると、牧師夫人が端っこで誰かと話している。夫人からアイスコーヒーとグラスの場所を聞く。準備して、再び溝田牧師のもとへ。「どうぞ」とコーヒーを差し出す。
「ちょっと」溝田牧師が小声で言う。「お盆は? あと茶菓子か何かなかったのか? それくらい準備して当然だろう!」
「え、でも…」
「いいから早く!」牧師に手でシッシッとされる。
 すぐにリッチ兄弟と牧師の話が再開し、笑い声があがる。キマジメくんは途方に暮れつつ、また夫人のもとへ向かった。

 その後、リッチ兄弟は日曜の礼拝にも来るようになった。どういう事情があるのかわからないが、礼拝後はだいたい溝田牧師と話し込んでいる。キマジメくんはその二人には近づかないことにした。見つかると呼ばれ、これを持ってこいあれを持ってこいと始まるからだ。

 若干気になるのは、リッチ兄弟と自分とで、溝田牧師の態度が違うように見えることだ。リッチ兄弟にはいつも丁寧に楽しげに話しかけるが、キマジメくんにはそうでないことが多いように思える。大抵、何かを指図される。
 しかし溝田牧師自身はよく礼拝のメッセージで、「私は誰にでも同じうように接することにしています。人間関係は平等、対等であるべきだからです」と言っている。何となく矛盾しているような気がするが、もしかしたら自分の感じ方がおかしいのかもしれない。
「人のことを非難する前に、まず自分自身に非難されるところがないかどうか考えなさい」というのも、溝田牧師から言われているからだ。(続く)

・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。

独裁的教会運営の構造

 キリスト教会が、そのリーダーの極端な権威主義等により、信徒を心身ともに虐待する独裁的教会となることがある。そこにある構造について、私なりにまとめてみた。

■リーダー(牧師等)による独裁的教会運営の構造

「これは神が願っていることだから、不都合であっても従わねばならない。従わないのは神への不従順であり、不信仰の罪だ」
 そういうリーダーの主張によって、教会の活動方針が決まり、信徒に奉仕が割り当てられていく。信徒は多少不条理に感じても、「御心だから仕方ない」「自分が未熟だから不条理に感じるんだ」「みんな従っているから」とかいうような理由で、結果的に牧師に従う。それが多数を占める場合、従わない者、従えない者はそのコミュニティにいられなくなる。

 この背景には、リーダーが最も神に近い存在で、最も正しく御心をキャッチできる存在だ、と信徒に信じ込ませる心理的誘導がある。信徒は普段から「預言」とか「聖霊の臨在」とか「劇場型礼拝」とかを通して、「リーダーはすごい神の器だ」と思わせられている。これが恒常化すると、信徒はリーダーを疑うことなく信じるようになる。その時点で、リーダーは絶対的な「神の代弁者」である。

 この構造は、16世紀にローマ教会がしたり顔で「免罪符」を発行したのに似ている。聖書を持たない多くの信仰者がそれを信じて購入したのは無理もない。聖書が一般に普及していなかった以上、その真偽を確かめる術はなかったと思われるからだ。

 今日、少なくとも日本では、聖書は誰でも読める。けれど、それでもリーダーの非聖書的・虐待的指導を受け入れてしまう。
 その背後でリーダーが巧みに利用しているのは、例えば「真理の回復」である。「今まで明かされていなかった真理が、私たちの教会で回復している。だからこの○○は一見受け入れ難いかもしれないが、私たちに与えられた特別な真理なのだ。祝福なのだ」
 他にも「終末」が利用されたりする。「世の終わりが近づいた。だから身を引き締めて主に仕えなさい。でないと予備の油を準備しなかった愚かな娘たちのようになってしまう」
 そんなふうに聖書からあれこれが引用され、リーダーへの絶対服従と最大限の奉仕(労働)が補強される。信徒はそうすることで主に仕えていると信じている(そこには信徒の側の思考停止もあると思う)。

■その結果

 そういう独裁的運営は、対外的には成果を出すことがある。これはスピード感のある意思決定や、全員一丸の奉仕によるものだと思う。また良くも悪くも、リーダーのカリスマ性やビジネスセンスによるものだろう。大きな教会へと成長する可能性もある。そして新来者にとっては魅力的だったり、新進的だったり、感動的だったりする。その内部の実情がどうかはまったく別問題だが。

■長期化すると

 そういう教会の発展が長期化したり、動かす人やお金が増えたりすることで、綻びが生じやすくなる。というのは古い信徒ほど疲弊していたり疑問を抱いていたりして、何らかの行動を起こしやすくなるからだ。リーダー自身が決定的な問題を起こすこともある。

 もしリーダーが明確に罪を犯し、それが発覚し、もはや言い逃れできない状況になったとしても、そこで観念しないことがある。そういうリーダーは言う。「私にも悪い点はあった。けれどそれを許さないあなたがたは明らかに聖書に反している。あなたがたこそ悪霊の影響を受けている」
 逆ギレというか、逆裁きというか、そういう理屈で自身を正当化する。そこには悔い改めもなく、告白もなく、罪の償いもない。
 中にはリーダーを相手に訴訟を起こすケースもある。けれどそれで有罪判決を受けたとしても、引き下がらないリーダーはいる。そういうリーダーは言う。「これは悪魔の策略だ。正しい者が迫害される時代が来たのだ」そして信徒を少しでも自分の味方にしようとする。

■健全化するには

 現在の私にはこの項目を書くことはできない。けれど聞いた話によると、独裁的傾向の強かった教会が、何かのキッカケで悔い改めと構造改革に至ったという。もちろん他にも解散に至ったケースや、大分裂したケース、リーダーが替わっただけで体質が変わらなかったケース等あると聞いている。ケースバイケースという気もするが、私が一つだけ明確に言えるのは、解散に至るほどのインパクトが起こらなければ何も変わらない、ということだろう。

2013年10月24日木曜日

神の為だから仕方がない、で済む問題、済まない問題

 非常に活動的な教会というのがある。
 福祉事業とか飲食業とか出版事業とかCD制作とかの複数事業をやるだけでなく、賛美集会とか青年向けのキャンプとかを主催したり、震災があればボランティアに出向いたり、とにかく年中目まぐるしく動き回っている。その活動の主体が牧師だと、ほとんど教会にいなかったりする。

 それそのものは問題ではない。
 おそらく多忙を極めるだろうけれど、その全ての活動において社会的責任を果たせているなら、たとえ忙しくて休めなくても本人たちの自由だろう。それらの活動が真の社会貢献になっているなら大したものだと思う。

 けれどその手の教会で、事務処理や会計処理がずさんなのを見ることがある。例えば寄付金を集めて事業をしているにもかかわらず、会計報告が途中から来なくなり、その後の残高や使途がまったく不明なまま、いつの間にか事業を撤退していたということがあった。寄付した人がその教会に何度か問い合わせてみたけれど、「確認します」との回答だけで、何の音沙汰もなかったという。

 どうしてそうなってしまったのか、正確な事情はわからない。けれど、忙しいことがそれに全く影響しなかったとは思えない。私も同種の教会で熱心に働いていたので、その状況が多少はわかる。いろいろな事業や新企画を回すのにイッパイイッパイで、事務処理や会計処理が後回しにされ、結局手つかずのまま放置され、気づいた時には手遅れ、というような状況や傾向は少なからずあるはずだ。人手不足で若手中心の教会だと、特にそうなりやすいと思う。

 それは行政や一般企業では決して許されない事態だけれど、不思議なことにキリスト教会となると、何となく見過ごされてしまいやすい(日本のキリスト教界が人口の少ない狭い社会だからかもしれない)。

 それはそれで困った事態ではあるけれど、更に困るのは、本人たちにその自覚がない場合だ。自覚がないどころか、「自分たちは神様の御心を行っている。それで忙しくなっているのだから多少の不備は仕方がない。神の為のやむを得ない犠牲だ」くらいに言い切るケースがある。

 従業員にサービス残業をさせる企業は、最近では「ブラック企業」と呼ばれる。そういう企業でさえ、最低限の会計処理はしているはずだ。しないと法律違反になるからだ。しかしもし会計処理をしない企業があったとして、「ウチは社会貢献を精一杯しているんだからこれくらいの不備は仕方がない」と言ったら通用するだろうか。
 それが通用しないのが一般常識だと思う。けれどもし教会がそれを通用させようとするなら、そういう教会は非常識だと言われても仕方がないのではないだろうか。

2013年10月22日火曜日

人にとって「最も大切なもの」とは

人間にとって最も大切なものは何か、と聞かれたらどう答えるだろうか。

愛とか命とか、家族とか友人とか、仕事とかお金とか、人によっていろいろだろう。同じ人でも、年齢や境遇等で変わっていくかもしれない。数学の問題と違って唯一の正解などないように思える。けれどもしかしたら、絶対的な何かがあるかもしれない。

そういうことを考える上で、「時間」という概念は外せないと思う。これは一個人においては「寿命」と言い換えてもいいかもしれない。それは長短の差はあれ全員に与えられていて、等しく流れ、決して取り返すことができない。今日は何の変哲もない一日だったかもしれないが、人生においては唯一の86400秒間で、まったく同じ時間を過ごすことはできない。そう考えると、今も過ぎていく一瞬一瞬がまた違って見えるかもしれない。

何年か前に "Time" というハリウッド映画が上映されて話題になった。その世界では「時間」が通貨になっていて、人々は働いて時間を得て、物を買うのに時間を支払う。金持ちは莫大な時間を持て余していて、永遠に生きることもできる。しかし貧困層は毎日時間をやり繰りするのが精一杯、下手すると時間不足で死んでしまう。
それぞれの腕に残り時間が絶えず表示されていて、それが刻一刻と減っていく。それは映画の設定をわかりやすくする効果があるけれど、その点は私たちもまったく同じ。絶えず減っていく時間が、可視化されたに過ぎない。

つまり私たちの時間も、刻一刻と減っている。そう考えると恐怖すら覚える。

仕事観に関するブログなど見ても、同種のことが言われている。働いて給料を得るというのは、すなわち自分の時間をお金に換えることなのだと。それはその通りで、だからより高い時給の仕事が望まれるのだと思う。
もっともこの交換は一方通行で、お金で自分の時間を買い戻すことはできない。そういう意味では、どんな良い時給で働こうが、一文にもならない苦労をしようが、時間だけは平等に過ぎていく。

では人間にとって最も大切なのは「時間」かと言うと、そうでもないと私は思う。もちろん大切な要素であるのは変わらないけれど、そのものが最重要なのではない。それはどんどん指の隙間から抜け落ちていくものだから。

要は、その残された時間を使って何をするかではないだろうか。
例えば「愛」が最も大切だとして、それを眺めているだけでは何にもならない。「お金」も同様だ。そこにあるだけでは、大切かどうかは全然意味がない。愛が大切であるなら、自分の時間を使ってどう愛を表すかが重要であるはずだ。

最も大切なことというのは、人それぞれあるだろう。しかしその大切なものを大切にせしめるのは、その為にどれだけの時間を使って何をするかにあると私は思う。

追記)
小難しく書いてしまったけれど、これは当たり前といえば当たり前だろう。なぜなら人は普通、自分にとって価値あることにしか自分の時間を使わないからだ。

何を「断ち切る」べきか。「断ち切りの祈り」について思うこと。

「家系ののろい」を訴える牧師がいる。いろいろな種類の罪ののろいが親から子へ、孫へと代々受け継がれていくという。早死にののろいとか、一生懸命勉強しても成功できないのろいとか、いろいろあるようだ。
 そういうのろいは「断ち切り」が必要だと、その手の牧師は主張する。

 私の知っている牧師もその説を真面目に信じていた。日曜の度に「主の御名によって〇〇を断ち切る! 断ち切る!」と、怖い顔で何度も怒鳴っているのを見たことがある。

 けれどそういう「のろいの断ち切り」の問題点は、第一に効果を確認できないところにあると思う。
「断ち切った。もう大丈夫」と言われて安心することで、プラセボ的な効果が多少あるかもしれない。けれど同じような問題を何度も起こしてし、その都度「断ち切りの祈り」を受ける人というのが、決して少なくない。「何度も祈らなければ断ち切れないしつこい罪がある」とか言うかもしれないけれど、では「主の御名」はそんなに弱くて頼りないものなのだろうか。
 また「のろいのせいで成功できない」人がいるらしいが、それが本当にのろいなのか、あるいは別の原因なのか、誰にも検証できない。努力しても成功できない人というのはたくさんいる(そもそも何を成功とするかも微妙な話だ)。それに祈ることで成功できるなら、誰も苦労しない。

 第二の問題点は、「すべてをきよめる」はずのイエス・キリストの血潮を無効にしている点だ。「のろい」と思われるような、人間にとって不都合な何かをいちいち断ち切らなければならないとしたら、例えば早死にを断ち切り、不妊を断ち切り、癌を断ち切り、交通事故を断ち切り、糖尿病を断ち切り、いじめを断ち切り・・・というのが無限に続くだろう。それに、どれが家計ののろいなのかなんて、いったい誰にわかるのだろうか。「生活習慣病を断ち切る」なんていうのも、冗談にしかならない。それを断ち切るのは生活習慣の改善以外にないからだ。

 第三に、勝手にのろいと決めつけている点だ。例えば「早死に」とか「不妊」とかがのろいだなんて認識は私にはない。クリスチャンにとっては早死にするほうが祝福なのではと、私などは思う。他にも「成功できない」のがのろいだとしたら、世界はクリスチャンもノンクリスチャンも関係なく、のろわれた人で満ちている。それに成功している人というのは、皆が皆ではないだろうが、それ相当の苦労を重ね、犠牲を払い、研鑽してきた人が多いだろう。そういう苦労を、単純に祈ってスルーさせようとするのはご都合主義ではないだろうか。

 マルチ商法とか新興宗教とかで「ご利益のある壺」を破格の高値で売り付ける話が昔からあるけれど、それとあまり変わらない仕組みをこの「断ち切り」に感じるのは、私だけだろうか。
 それを真面目に信じる牧師も、その牧師や教師たちから教えられたことを鵜呑みにしているだけかもしれない。だとしたらその教えの連鎖こそ、断ち切られなければならないだろう。

2013年10月20日日曜日

「踏み絵」をとりあえず踏んでおくか、絶対踏まないか

 前回の記事で「踏み絵」という言葉を使ったが、関連して思い出すことがあったので書きたい。
 以前ある牧師が、踏み絵についてこんな話をしていた。

 踏み絵を踏んで難を逃れ、後で悔い改めればいい、というクリスチャンが当時は大勢いた。信仰は心の奥にあればいいと思ったのだろう。しかしそれは主に召された者としては失格で、祝福を失ってしまう。踏み絵を踏まなかったクリスチャンこそ、本物のクリスチャンだ。

 その具体例として、こんな話もした。

 当時、東北のかの地にリバイバリストがいて、非常に用いられた器だったが、彼も踏み絵を踏んでしまった。そこで彼のリバイバリストとしての祝福は断たれた。彼は悔い改めはしたけれど、以前のような祝福も油注ぎも、もうなかった。

 どうやらその牧師は、クリスチャンは二種類いると考えていたようだった。普通のクリスチャンと、特別なクリスチャン。そして後者は神様に特別に選ばれていて、決して神様を裏切らず、例えば踏み絵であれば踏まない。けれどそういう存在が過ちを犯してしまうと、いわゆる普通のクリスチャンに堕ちてしまう、というような考え方だ。何となく「ナジル人」を想起させる。
 ちなみにこの「普通」には、「ダメ」というニュアンスが多分に含まれているように思えた。

 しかしこの考え方の背景にあるのは根拠のないエリート意識であり、エリートとして失敗する訳にはいかないというプレッシャーであると思う。それに「悔い改めはしたけれど、祝福を失った」というのは神の許しを無効にすることであり、併せて聖書的でない。
 こういうふうに教え込まれる信徒は、どんなクリスチャン生活を送ることになるだろうか。

 もう一つ、踏み絵の時代に禁教対象にされたのはカトリックであり、踏み絵という方法は「聖像」と大いに関係があっただろう。そのカトリック教徒のことをプロテスタントみたいに「リバイバリスト」と呼ぶのは、違和感がある。歴史認識がおかしいのではないだろうか。

 そういう牧師の変な話は置いておくとして、「踏み絵はとりあえず踏んでおき、後で悔い改めればいい」というのはどう考えればいいだろうか。
 前回も挙げたダニエルの3人の友人たちの例で言うと、「とりあえず金の像を拝んでおこう」ということだろうか。

 しかし「踏み絵」が「主を否定するかどうか」のテストであるのに対し、「金の像」が「偶像を拝むかどうか」のテストであることを考えると、この両者を同列に並べて考えるのは少々無理がある。
 それよりは、ペテロが主を3度否定してしまったことを挙げた方が自然だと思う。ペテロが主を否定した後、どのような回復を遂げたかは、聖書を読む方であればご存知であろう。決して祝福を失った訳でなく、主に見捨てられた訳でもない。

 主のために命を捨てるとか、不利益を被ることも辞さないとか、そういうのは情熱的で一途でカッコよく見えるかもしれない。けれどそういう極端な選択に走る前に、よく考えるべきことがあると思う。

追記)
 カトリックの信仰についてはよく知らないのだが、「リバイバル」という言葉は通常使わないと認識している。もし間違っていたらご容赦いただきたい。

2013年10月19日土曜日

「信仰の戦い」と単なる非常識。国歌斉唱不起立問題について思うこと。

 大阪の公立学校の卒業式で、国歌斉唱の際に起立しなかった教諭がいて、教育委員会から処分を受けた。その処分を不服とした教諭が先月、大阪府を相手に訴訟を起こした(ニュース記事はこちら)。
 起立しなかったのは、「クリスチャンであり、信仰上の理由から」だと同教諭は言っている。それに対して「宗教と国歌斉唱は関係ない」という意見が多数出ているようだ。

 以前の私なら、この教諭と同じように国歌斉唱に対して起立しない、歌わないという選択をしたと思う。そして「宗教と国歌斉唱は関係ない」という意見に対しては、「何もわかってないな」とか「霊の目が開かれていないな」とかいう傲慢な考え方をしただろうと思う。

 こういう「信仰上の理由から〇〇しない」という姿勢は、基本的には真面目な信仰者の姿なのだと思う。一般信徒であるなら、教会で教えられたことに忠実に従っただけかもしれない。
 その心理的根拠は、例えば旧約聖書のダニエルの3人の友人たちの「金の像を拝むくらいなら死にます」という殉教的態度とか、17世紀の禁教時代の「踏み絵」を拒んで処罰された人々の精神とか、そういうところにあると思う。

 確かに聖書は、偶像を拝んではならないと言っているし、そういうことで殉教する人がいるとも言っている。ペテロが主を否定してしまったことも、信仰者の失敗例として扱われているだろう。
 けれど現在日本で行われている国歌斉唱は、殉教に至るほどの究極的試練だろうか。あるいは信仰か不信仰かを判別する材料だろうか。式の最中、学校長が「国歌を歌わなければ死刑だ」と宣言する訳でもないし、そもそもキリスト教や他の宗教を否定したい訳でもない。
 それに上記の教諭が処分されたのは、自身のキリスト教信仰を貫こうとしたからではなく、職務命令に違反したからだとされている。とすると、処分を不服とする理由に信仰を挙げるのは、お門違いというものだろう。

 国歌斉唱とか国旗掲揚、はたまた仏式葬儀での焼香とかは、クリスチャンとしてどうするかが問われるところかもしれない。しかしそれらで信仰か不信仰かを問うているのは、実のところ一般の未信者の人々でなく、教会内の人々、特に教職者たちではないだろうか。国歌斉唱を「信仰の戦い」とし、勝利するには迫害を受けねばならない、しかしその報いは大きい、として信徒たちをそういう行動に駆り立てる、ということが、一部であれ教会で行われていると思う。しかしその結果が冒頭のような訴訟問題となるなら、かえってキリスト教を貶めることになるのではないか。

 信仰を貫くのは大切なことだろうが、その方法はよくよく考えねばならないと思う。それは時に不利なこと、損なことかもしれない。けれど決して失礼なこと、儀礼的に見て非常識なことではないはずだ。

見えない努力は、文字通り見えない

 いつも責任を追求されはしても、その成果はなかなか認めてもらえない、という職種と状況がある。

 先日、三鷹で女子高生が刺殺され、連日のように大きく報道された。大変いたましく、悲惨な事件だったけれど、併せて報道されたのは警察がどう対応したか、という点だった。事前に(そして事件当日も)本人と家族が警察にストーカー被害の相談をしていたのに、何故あのような事件が起きたのか、何故防げなかったのか、いったいどういう経緯があったのか、というようなことが追求されていた。

 他にも、例えば児童が虐待死してしまった場合、児童相談所は何をしていたんだ、ちゃんと対応したのか、問題を認識していたのか、とかいう話になる。生徒が自殺してしまうと、その学校が追及される。企業が不祥事を起こした場合もしかり。

 もちろん、これは当然といえば当然と言える。何か問題が起これば、その責任者なり担当者なりに対応や責任が求められる。そしてその対応が適正だったかどうかが評価され、問題があると、容赦なく糾弾される。

 けれど冒頭に書いたように、その対応が的確で何も問題が起こらなかった場合、その正しい行いが正しく評価されるというのは、少ないのではないだろうか。
 例えば児童虐待のケースで、児童相談所がその親から子どもを強制的に隔離し、結果的に死に至るはずだった子どもを守れたとしても、それが世間に認知されて評価されるということはまずない。むしろ逆に、親から無理矢理子どもを引き離して本当に良かったのか、本当にその必要があったのかと、外部から無責任な疑問を投げかけられないとも限らない。

 このように、正常に機能しているからこそ何も起こらない、ということがある。関係者が見えないところで必死に努力し、その結果として安全なり何なりが維持されているとして、それが外部に認識されることはあまりない(それで当然だ、という意見もあるだろう)。

 かつて私の知っているキリスト教団体が、財政破綻のため解散に至ったというケースがある。実は財政難はその何年も前から続いていて、関係者らの必死の資金繰りで、何とか回していたと後から聞いた。その団体の活動自体は華々しく、大きなイベントを次々と開催していて、とてもお金に困っているようには見えなかった。それだけに、その突然の破綻は各方面に衝撃をもたらした。

 もちろん、財政難を根本的に解決すべく団体全体で努力すべきだったろう。その点で責任者らの危機意識が問われるのは当然だ。けれど、その中で必死で資金繰りし、何とか団体を維持しようとしていた人々がいたはずで、その努力がまったく無駄だったとは私には思えない(それでも根本的な方向性が間違っていたのは否めない)。その努力のおかげで何年かは活動を続けることができ、その結果、社会に一定の貢献をすることができたのもまた事実だからだ。

 見えない努力というのは、文字通り見えない。けれど見えないから存在しないとか、無意味だとかいうことにはならない。その意味と価値が他の誰にもわからなくても、少なくとも自分自身は知っている。それに満足して見えない努力を続けるのが、大人らしいというか、成熟というか、そういうことなのかもしれない。

2013年10月17日木曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第5話

 帰郷事件から数週間が過ぎた。
 溝田牧師とはそれから何度か顔を合わせた。けれど特別な言及はなかった。牧師があえて触れないのか、あるいは忘れているのか、定かでない。キマジメくんはしばらく気が気でなかった。けれど溝田牧師がいつも通りニコヤカに話しかけてくるので、次第に、まあいいかと思うようになった。

 ところで最近礼拝で、「奉仕」についてよく語られている。要約するとこうなる。
 信徒はそれぞれ何らかの賜物(才能)を持っていて、それに基づく使命もあって、それを達成するために生かされている。そして教会で奉仕することは、その使命に従って生きることになる。だから信徒は奉仕をすべきだ、という。
「教会は客船でなく、戦艦であるべきです」とも溝田牧師は言った。「客船というのは、大勢の乗客のために少数の乗組員が働くところです。しかし戦艦は、乗組員全員が働くのです。どちらが神の役に立つか、言うまでもないでしょう。教会は戦艦となって、神の御心を行うべきなのです」

 という訳で、教会員全員が何かの奉仕をすることが奨励された。掲示板に必要とされる奉仕の一覧が貼りだされ、次々に名前が埋まっていく。
 一方、キマジメくんは教会に通いはじめてまだ数か月、特に奉仕がなかった。一覧を眺めながら、何ができるだろうと考える。「収穫伝道隊」というのがあったが、この前の公園伝道のことを思うとできる気がしない。他にも受付とか、子守とか、新来者接待とかあったが、口下手なキマジメくんにはハードルが高く思われた。結局、「ポスター作り」というのを選んでみた。

「キマジメくんは パソコン使えるんだよね」溝田牧師に聞かれ、ハイと返事する。「じゃあ、試しに作ってみてくれるかな。来月の伝道集会のヤツ、まだ時間があるから、来週くらいにまでにお願いできるかな」
 伝道集会に関する情報をもらい、何となくのイメージを教えてもらって、話は終わった。

 実は高校時代に文化祭のポスターを作ったことがある。美術の成績はいつも良く、何かのコンクールで入賞したこともある。デザインは好きだし自信もあった。実際、集会のポスター作りはスムースに進んだ。

 翌週の日曜日、礼拝の後、溝田牧師にポスターを見てもらった。「お、いいね」溝田牧師は開口一番、そう言って笑顔を見せた。「キマジメくんはセンスがいいね」
 それほどでも、とキマジメくんが照れ笑いする中、牧師は続ける。
「ただ、この背景、もうちょっと色を濃くしてほしいな。字が見えづらいからね。あと、このイラスト、もうちょっと…」
 と、修正点を列挙される。キマジメくんはメモする間もなく、覚えるしかない。いろいろ言われた後、キマジメくんはハイと返事した。「じゃあ、直してまた来週持ってきます」
「うーん、来週じゃあ遅いなぁ」牧師は笑顔のまま言う。「キマジメくん、イベントのポスターはねぇ、少なくとも一ヶ月前には出さなきゃ遅いんだよ。だから来週持ってこられて、また修正があったら、また遅れてしまうだろ。それじゃあ、困るなぁ」牧師は眉間にシワを寄せる。「もしかしたら、このポスターを見て教会に来る人がいるかもしれないだろ。でもポスターがなかったら、その人は来ない。つまり救われない。そういうことが、ポスターの有無一つで決まってしまうんだよ、キマジメくん。そうであるなら、遅れちゃまずいとは思わないかね?」
 その通りだと思ったので、ハイと答えるだけだ。「じゃあ、どうすれば?」
「ま、これはキマジメくん次第なんだけどね」と溝田牧師。「明日にでも完成したら、早く貼り出せていいとは思うけどね…」

 ガンバリマス、とだけ答えて話を終えた。
 午後、早めに自宅に帰って修正作業を始めた。いくつか列挙されたけれど、作業そのものは短時間で済むものばかりだった。夕方には終わり、もう一度教会に足を運ぶ。
「ありがとね、キマジメくん」溝田牧師は修正済みのポスターを見ながら言う。「ただ、背景の色、もうちょっと…」
 結局また修正点をいくつか挙げられた。また自宅で作業。夜には終えて、また教会へ。溝田牧師は教会の上階に住んでいる。直接自宅へうかがった。
「遅くまでありがとね。でも、このイラスト、もうちょっと…」
 またまた修正作業。午前一時くらいまでは起きているから、と牧師に言われ、それまでに終わらせてまた持って行く。
「キマジメくん、悪いけど、最後の修正をお願いしたいんだけど、主のためと思って引き受けてくれるかい?」

 最後の修正と言われたら断れない。作業を済まし、指定された「早天祈祷会」の前に教会に持っていく。午前5時半だった。
「よし、これでいこう」ようやく承認をもらえた。一安心するキマジメくん。が、牧師は続ける。「じゃあ、このポスターを10枚くらい印刷して、貼ってくれるかい。言っとくけど、そこまでがポスター係の仕事だからね。貼る場所は…」
 キマジメくんは徹夜で疲労困憊ではあったが、「主のため」「人々のため」と言われて気力を奮い立たせた。さっそく家で印刷し、指定場所に貼った。

 これで神の役に立った、と思うと不思議な充足感があった。神のしもべとして働くのは時に労苦が大きいけれど、それは特権であり、選ばれた人間であることの証明だ、と牧師が言っていたのを思い出す。特権とか選ばれた人間とか思うと、悪い気はしない。

 家に帰ったのは午前7時過ぎだった。大学の講義は9時からだから、まだ少し休める。キマジメくんはソファに横になって、目を閉じた。

 次に目を開けたら、すでに午後になっていた。(続く)

・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。

2013年10月16日水曜日

奉仕の動機をみる神、奉仕の結果をみる人間

 前回、教会の小グループ制について、良い結果が出ないとダメ出しされるのは無報酬の成果主義と書いた。
 けれどこれは小グループ制の話だけでなく、教会の奉仕全般に言えることだと思う。そして残念ながら、そういう成果主義的な話を耳にすることが多い。

 例えば週報にミスがあったから、車を運転していて道を間違えたから、仕事の期日に遅れたから、歌が下手だからとかいう、能力的な理由で信徒が叱責されることがある。能力主義とも言えるかもしれない。それで給料をもらっているならまだ理解できるが(それでも、できないことで罵倒されるのはおかしい)、ほとんどの信徒は完全なボランティアで、善意と献身の気持ち一つで奉仕をしているはずだ。まずはそれを感謝されるのが一般常識のはずだ。

 けれどそういう教会の牧師は、「信徒が奉仕するのは当たり前だ。そして奉仕はハイクオリティでなければならない。日本のクリスチャンはそこが甘いから舐められるんだ」とかいうような理屈を並べる(だから有給のスタッフには更に厳しくなる)。

 その言い分はわからなくもない。奉仕に対して無責任なのは困るし、ボランティアだから何でも許される訳ではない。私もどちらかと言うと、自分の奉仕はハイクオリティでありたいと願っている。

 けれど結果を求められる奉仕というのは、いったい誰のための奉仕なのだろうか、神がそのような結果を求めておられるのだろうか?

 例えば、何人かで伝道に行く。中には初対面の人に話しかけるのが上手い人もいるし、そうでない人もいる。前者は相手を入信にまで導く可能性が高いけれど、後者は「自分はダメだな」と思うかもしれない。
 そこに成果主義的な牧師が現れ、前者を褒める(せいぜい褒める程度だ)。そして後者を責める(あるいは無視したり蔑んだりする)。「大切な魂を救うチャンスを逃したな!」等ともっともらしい説教をするかもしれない。

 そういうことを神が願っておられるとは、私には到底思えない。むしろ口下手な人が伝道しようとした、その努力を喜ばれるのではないかと思う。神は人間の協力を喜ばれるだろうけれど、人間の協力を絶対的に必要としている訳ではないからだ。

 そもそも教会で奉仕をする動機とは、何かの結果を求めることでなく、神を信じ愛する心にあるはずだ。十字架の愛に感謝する心があるはずだ。だから心を込めて奉仕しようとするのだし、その結果としてクオリティが上がり得るのだ。そしてそうであるなら、結果が良かろうが悪かろうが問題にはならない(もちろん反省が必要な場合もあるだろうが)。
 それは自ら進んで捧げる奉仕であって、誰かに強制されたり結果を管理されたりするものではない
 
 それでも成果主義の正当性を主張するなら、それにふさわしく全ての奉仕にノルマを設定し、達成したらこれこれの報酬、達成しなかったらこれこれのペナルティ、と明確に決めておくべきだ。それならフェアだろう。

 しかしそうなると、そこはもはや教会とは言えない気がする。ただノルマと結果があるだけで、神の愛も何も関係ないからだ。では企業かと言うと、未信者が入信しても基本的にお金が入る訳ではないから、企業としても成立しない。
 そう考えると、成果主義の教会というのは、自己矛盾を起こしているように思えてならない。教会でありながら教会でなく、かといって他の何にもなれない、定義不能な存在だからだ。

2013年10月15日火曜日

どうなるかよく考えずに決めてしまう危険性:「図書館戦争」映画評

 邦画「図書館戦争」をDVDで観た。
 岡田准一と榮倉奈々が主演だからミーハーっぽいかと思ったが、映画として(荒唐無稽ながら)なかなか良くできていた。有川浩の原作は読んでいないから両者の違いはわからない。

 この作品の秀逸なところは設定にあると思う。「メディア良化法」なる法律が成立した日本が舞台で、図書などのメディアが厳しい検閲を受ける社会となっている。発禁図書を取り締まる「良化隊」は武力行使も辞さず、多くの書店を閉店に追い込んでいる。そんな図書を守る唯一の機関が図書館で、独自の軍隊「図書隊」をもって良化隊に対抗している…という背景で、物語が進んでいく。

 私が興味深く思ったのは、このメディア良化法の成立に関してだ。要は「有害メディアから国民を守る」と「表現の自由」の真っ向対決なのだが、最終的には前者が勝ったことになっている。
 有害メディアを規制すること自体は決して悪いことではない。けれどその規制が行き着く先は、情報統制とか情報操作とかいう独裁政治的状況かもしれない。
 そこで得する人はきっと少ない。しかしその法律の成立には、大勢が賛成した。
 その皮肉な展開は、かつてドイツ国民がこぞってナチスを選んだこととその結果に似ている気がした。

 この作品は、そういう規制の危険性に警鐘を鳴らすと共に、「どうなるかよく考えずに決めてしまう危険性」みたいなことに注意を促しているように思える。現在自民党政権が進めている改憲の動きを想起させられた。

 そういうことを考えていたら、話が飛ぶようだが、一部のクリスチャンが行っているホームスクーリングを思い出した。「子どもを『この世』の悪影響から守りたい」と願う彼らの気持ちはよく理解できる。けれどその結果、親が見せたいと願う情報しか子どもに与えない状況を作り出すとしたら、それはメディア良化法のコンセプトと基本的に同じなのではないかと思う。
 それを否定しようとは思わない。けれど、そういう社会に住みたいとは私は思わない。

 作品としては荒唐無稽でツッコミどころが多いけれど、「こんな社会だったらどうなるだろう」ということをリアルに考えさせてくれるという点で、多くの人に観ていただきたいと思う。

 ちなみに主演は岡田准一らしいけれど、話自体は榮倉奈々を中心に進んでいく。彼女の成長物語として観た方が自然かもしれない。そういう意味で、男子よりは女子向けの映画と言えると思う。
 また、この2人のアクションが本格的で良い。岡田准一は空手の師範代だから当然かもしれないが、榮倉奈々が意外に長身で、スポーツもできそうで驚いた。

2013年10月14日月曜日

教会の小グループ制について思うこと

 スモールグループとかセルグループとか呼び方はいろいろだが、いわゆる「小グループでの活動」というのがキリスト教会に少なからず導入されている。日本に入ってきたのは90年代らしい。同じような時期に入ってきた「弟子訓練」と同じく、教会のカルト化問題と一緒に語られることが多い言葉だ。

 けれど、これは仕組みとしては悪くないと私は思っている。要は信徒数が増えて牧師一人で対応できないから、全体を小グループに分けてそれぞれリーダーを立て、牧師の牧会を手伝うという方法論であろう。合理的かつ効率的に思える。旧約聖書のモーセも、しゅうとの助言に従って似たような仕組みを作った。ローマ帝国の軍隊も、千人隊長とか百人隊長とかいったピラミッド型の組織を採用していた。現代の企業も営業部とか総務部とかいろいろ部門に分かれていて、それぞれに長と部下がいるという意味では、似たようなものだと思う。

 私の知っている教会の多くも、スモールグループを採用している。それなりに成果(?)が出ているという話も聞く。一方で、そうでない話も聞く。

 ある教会の友人は、一つのグループのリーダーを務めていた。メンバーは十名弱くらい。数年間いろいろ活動したけれど、結局どのメンバーも教会に定着しなかった(もともと教会に来たり来なかったりの人たちばかりだったようだ)。形からすると、彼がグループをうまく導けなかった、ということになる。
 後でそこの牧師が彼に言ったのは、「自分に余裕があったら自分が彼らの成長を導いてあげられたのに、残念だ」という、完璧なるダメ出しだったという。まるで彼のせいでメンバーが離散してしまったと言わんばかりだったようだ。

 真面目な彼は落ち込んでしまい、「悔い改めの祈り」みたいなことまでしたらしい。けれど、私には彼に責任があるとは思えなかった。
 もちろん、小グループのリーダーはある程度の学習期間をもってスタートするのが普通で、彼もそうやってリーダーになった。けれど、そこまで専門的な対人援助技術を系統的に学んだ訳ではない。ほとんど素人同然のうえ未経験だから、ぶっつけ本番みたいなものだっただろう。使える時間も限られている。それで相手がほとんど初対面なら、最初の数年は信頼関係を築くのに費やすのが普通だから、何のアプローチもできない。
 そういう条件下でメンバーが定着しなかったとしても、何ら不思議はない。殊更にリーダーが悪いとかメンバーが悪いとかいうこともないだろう。それでダメ出しされるのは、公園のゴミ拾いのボランティアを少しサボっただけで本気で怒られた、みたいなものだ。

小グループという形そのものは悪いものではないと思う。私の教会もやっていたけれど、特に問題があるようには見えなかった。
確かに発展するグループとそうでもないグループというのはあったけれど、そういうのはグループ内の人間関係や環境やその時々の状況などが、複雑に絡み合って起こるものだ。一概にリーダーの力量不足とは言えないだろう(リーダーの力量、というのも定義しづらいものだけれど)。
そういう意味では、小グループ制は悪いものでないにしても、絶対的に良いものとも言えないように思う。

少なくとも前述の友人のような、暗に結果を求められるような在り方には問題があるだろう。そこにあるのは成果主義で、しかもノルマ達成時の報酬などない成果主義だからだ。高いハードルだけが設定されていて、越えて当然、越えられなければダメ出しが待っている。
そういう小グループ運営に魅力を感じるならやってもいいだろう。もちろん私は遠慮するが。



2013年10月13日日曜日

自分の欲求を「神の導き」のせいにするいやらしさ

 牧師の「ワンマン経営」の問題点が、神のせい(あるいは神の導き)にされて片付けられている、という記事を前回書いた。
 けれどこれは教会運営に限らず、クリスチャン個人や関連団体にも起こる得る問題だと思う。

 例えば、始めたことをごく短期間で辞めてしまう人がいて、その理由を聞くと「神様に導かれたから」と答えることがある。本当ですかと聞くのも憚られるけれど、何とも腑に落ちない。それで次に始めたことも同じように短期間で辞めてしまうのを見ると、やはり疑問を持たざるを得ない。

 また、怒りっぽい牧師で、幾度も信徒とトラブルを起こしてきたという人がいる。それでも短気を改善できず、時々「自分は人格的にリーダーとしてふさわしくない」と漏らしていた。けれど同時に付け加えるのが、「でも神様が自分をリーダーにしたんだから仕方ない」という台詞だった。
 普段から「リーダーに必要なのは人格だ」と言っていただけに、それが本当に「仕方ない」で済ませられることなのかどうか、私は疑問に思う。

 他にも、ある人の通勤ルートで待ち伏せておいて「神様に導かれてここにいたら偶然会った」とか言う人もいる。例を挙げたらたくさんある。

 もちろんそういう「導き」を完全に否定することはできない。けれど、それを神様に対してもまっすぐに言えるかどうかは、本人が一番よく知っているだろう。そしてそれがもし偽りなら、信仰どころの話ではない。本人はそれでいいのだろうか。

 そういう例に共通するのは、「自分はこうしたいけれど、するのはいささか憚られる」という心理のような気がする。「こうしたい」と言いにくいので、「神の導き」のせいにする。そうすれば、「自分は気が進まないけれどしなければならない」と言えて気が楽になるのだろう。

 しかしそうやって自分の願望を神のせいにして実現しようとするのは、聖書の言う「偽預言者」と同じではないだろうか。「神がこう言った」と言って、自分の欲求を満たそうとするからだ。

 そういうリスクを背負うくらいなら、「神の御心はわからないけれど、自分はこうしたいと思っている」と正直に言う方がよっぽど楽ではないだろうか。それで諌められたり、別の案を提示されたりする方が、結果的に自分の欲求を健全に扱えるような気がする。そこからいろいろ学ぶこともあるだろう。

 そういう正直さを隠して「神の導き」というキレイ事で通そうとする、その気持ちはわかるけれど、いやらしく思えてならない。それなら日本人的「建前」の方が、社交辞令的意味合いがあるだけマシだと思う。

2013年10月12日土曜日

神のせいにされる牧師のワンマン経営

・教会の意思決定の仕方
 キリスト教会の意思決定プロセスは様々だろうが、一般的には牧師会とか役員会とか、執事会とか長老会とか、そういう何らかの集まりで決議されると思う。教会総会みたいな、大きな決議集会もあるかもしれない。

 いずれにせよ、適切なメンバーで話し合って決める、というのが主流だろう。それ相応の時間がかかるかもしれないけれど、いろいろな意見が出る方が、結果的にメリットが大きいと思う(実際には多数決の問題とか、いろいろ難しい点はあるだろうが)。

 けれど中には、牧師一人で決めるという教会もある。話し合うほど人がいない、超小規模教会ならそういうこともあるかもしれない。けれど基本的に、牧師の「ワンマン経営」というのは危険だとよく言われる。私もそう思う。

・カモフラージュされた牧師のワンマン経営
 しかし牧師のワンマン経営というのは、カモフラージュされていて、そうは見えないことがある。
 例えば、役員会などのリーダーシップの集まりがちゃんとあって、何かの決議の際には役員が集まり、議事録もあり、意見も出ている。けれど内情は全員牧師の言いなりで、そもそも反対意見など出ない、というような場合だ(それでも役員たちは自由に発言している、自分たちが決議している、と思っていたりする)。

 このそもそもの原因は、信徒教育にあると思う。牧師に完全従順するよう、初めから教えられているからだ。その場合、「神様に対する従順」という本来の教えが、あの手この手で「牧師に対する従順」にすり替えられていることが多い。信徒の側は、牧師に対する基本的な信頼感もあり、また依存心もあり、ほとんどそれに気づけない。だから役員がどれだけ大勢いようが、どれだけ話し合おうが、結局牧師の意見が通る構造になっている。
 それで物事がスピーディに進み、いろいろ発展していくと、「ウチの教会は革新的だ」「すばらしい一致の教会だ」「皆が同じ心を持っている」とかいう錯覚に陥る。しまいには、「神の国は民主主義でなく一神主義だから、これでいいんだ」ということで、結果的に牧師の独裁政治を許すことになる。

 それでも牧師が正しい良心をずっと維持できるなら、問題ないかもしれない。しかし残念ながら、そうでないケースはある。

・神のせいにされるワンマン経営
 上記のような独裁状態のもと、牧師がこう言う。「神様にこう示された。だからただちにこれこれの事業を始めなければならない。急かもしれないが、これは神の意志なんだ」
 その内部にいる人間が、これにどう反対できるだろうか。仮に反対できたとしても多勢に無勢、不信仰の烙印を押されかねない。それが本当に神の意志かどうかという吟味でさえ、不信仰にされかねない。
 

 これは一見不思議な現象に思えるかもしれないが、当事者たちにはそうではない。たとえ教会が経済的に苦しくて、新規事業に耐えられない状況だとしても、「これは神の意志なのだから従う以外にない」「今こそ信仰を働かせるんだ」「苦しくても必ず祝福される」というような話になってしまう(そういうことが全くないとは言わない)。
 そして自分たちが苦しいのは牧師のせいでなく、あくまでそれを示した神のせい(?)だ、ということになる。牧師は終始「従順な神のしもべ」を演じる。あたかも神が私たちを試し、従順を訓練するため、あえて理不尽な状況に置いておられるかのようだ(繰り返すが、そういうことが全くないとは言わない)。

 こういう状況がエスカレートするとどうなるか、想像に難しくないだろう。

・信徒にも責任の一端はある
 そう指導されてきたのだから仕方ないことではあるけれど、これは信徒の側にも責任の一端はあると思う。やはり自分で学び、考え、判断する力を養っていなければならないと思う。気になること、おかしいと思うことはよく吟味し、疑問を持ち、異を唱え、納得するまで話し合ったりするべきだ。話し合えないにしても、そのまま鵜呑みにすべきではない。
 それは確かに労力がかかるし大変だけれど、それを避けた結果受ける損失よりは、ずっと軽いだろうと思う。

2013年10月11日金曜日

自分の替わりがいるというメリット、替わりはいないというデメリット

・たくさんの種類の仕事と奉仕
 世の中にはいろいろな職業があり、同じようにキリスト教会にもいろいろな奉仕がある。
 職業や奉仕は基本的に、自分の希望とか適性とかに基づいて選ばれるだろう。もちろん何にでも、希望通りにいかないということはあるが。

 職業にしても奉仕にしても、だいたい適材適所的に配置されるのが一般的だと思う。特に教会の奉仕はその傾向がある。例えばピアノが弾ける人は賛美の奏楽をするだろうし、パソコンが得意な人は週報を作ったりするだろう。これを逆にするのは非効率的だし、人によってはストレスにもなり得る。
 職業で言えば、営業向きの人とか事務向きに人とか、技術職向きの人とかいろいろいる。

 いずれにせよ、ある程度「できる」とか「自信がある」とか、「他のよりマシ」とかいう仕事なり奉仕なりをするのが、一般的であろう。

・ほとんどの仕事や奉仕は替えがきく
 そして大多数の仕事や奉仕は「替えがきく」種類のものだと思う。自分がやっていることは、自分と同じような部類の誰かでもできる。
 例えば、礼拝の司会はこれに該当すると思う。決められた流れに従って、ほとんど決まっているセリフを言えばいい訳だから、ある個人でなければできない、ということはない。司会の適性(?)があれば、基本的に誰でもできる。もちろん各人によって面白かったり楽しかったり厳粛だったりという個性はあるけれど、司会という機能は変わらない。

 そういう意味で、ほとんどの仕事や奉仕というのは、替えがきくだろう。「自分でなければならない」ということはまずない。あるいは「AさんよりBさんの方が○○だ」というような評価があって、どちらかというとBさんの方が望まれる、ということはあるかもしれない。
 けれど究極的には、それはAさんでもBさんでも構わない訳だ。中にはAさんの方がいいと言う人もいるかもしれない。

・替えがきかないという勘違い
 しかし時々、この「Bさんの方がいい」を、「Bさんでなければならない」と勘違いすることがある。特に自分自身に対してそうで、「この仕事は自分がいなければダメだ」とか「この奉仕は他の人には任せられない」とか思い込んでしまうことがあると思う。

 定年退職した人が、再雇用契約で仕事を続けるということがある。それ自体は何ら問題ない。けれど、その人が「この仕事は自分がいなければダメだ」と信じ込んでいつまでも最前線にいるとしたら、それは後進の育成を阻害することにもなり得る。

 だからどんな仕事にも奉仕にも、責任を持つのはもちろんだが、替わりがいるという認識を持つのも大切だと思う。

・「替えがきかない」に潜む心理
 私は長い間、賛美の奏楽奉仕をさせてもらってきた。だから多少わかるつもりだけれど、この「替わりがいる」という認識はなかなか持ちづらい。むしろ簡単に、「自分でなければ」とか「まだ任せられない」とかいう間違った責任感を持ってしまいやすい。特に賛美奉仕はそうだと思う。そしてそこには、プライドとか傲慢とかが多分に含まれているような気がする。

 いわゆる悪魔の頭であるサタンも、以前はルシファーという天使で、賛美の長を務めていたという。その彼が堕ちてしまったのは、ひとえに傲慢の故だ。その原因が賛美奉仕とまったく関係ないとは思えない。

 教会によっては、いつも同じ人が賛美奉仕をしている、ということがある。もちろん他にできる人がいないとか、いろいろ事情があると思う。教会のやり方に口を出す気はまったくない。けれど、その奉仕者のことを思うと気の毒にならなくもない。誰か替わりがいればいいのにとか、同じスタイルでやらなくてもいいのにとか、思ってしまう。

・替わりがいることのメリット
 替わりがいることのメリットは、まずは奉仕者が休めるということだ。そして、他の奉仕者がもたらす新鮮さや自分との違いに気づかされることだ。もしかしたら、自分の中に嫉妬心や競争心があるのに気づくかもしれない。そしてそれは決して悪いことでなく、かえって向上心を生んでくれるだろうと思う。あるいはそれは謙遜をもたらすかもしれない。

 とにかく自分の奉仕を一歩引いた立場で見るのは、案外大切なことだと思う(例えば賛美奉仕をいつもしている人の場合、その奉仕をしなくても同じモチベーションで礼拝に臨めるかどうかは、一つの有益な判断材料となる)。

 そういうメリットを思うと、替わりがいないというデメリットは、非常に大きなものに思える。

 賛美以外の奉仕にもまったく同じことが言えるだろう。奉仕を任せる教会側なりリーダー側なりにそういう理解があるとないとでは、奉仕者の意識や成長に、大きな違いが出るのでがないかと私は思う。

2013年10月10日木曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第4話

 溝田牧師に三回忌のことをいろいろ聞かれ、キマジメくんは正直に答えた。結果、「土曜日一日で済むんだ。ならそのまま帰ってくればいいじゃないか」と言われて話は終わった。確かに三回忌は土曜日で、日曜日は用事がない。何も言い返せず、キマジメくんは受話器を置いた。

 置いてからいろいろ後悔しはじめた。結局、土曜の夜遅くに帰ってこなければならなくなった。どうしてこういう話になってしまったのだろうか。
 とはいえ、日曜の礼拝に出席するのが大切なのもわかる。これが神様を喜ばせることなら、仕方ないのかもしれない。

 溝田牧師の機嫌を損ねてしまったかと気になったが、何日か過ごすうちに忘れた。大学の講義と課題とバイトに明け暮れるうち、週末を迎えた。

 実家では思いのほか大忙しだった。祖母の車椅子を押したり皆の荷物を運んだり、飲み物を運んだり配ったりで、久しぶりの故郷を満喫する余裕はなかった。親戚の中で一番の若手だから、一番動かなければならない。

 全部終わって実家に戻ったら、もう夕方になっていた。すでにグッタリのキマジメくんは、これから東京に戻るのかと思うと気が遠くなった。
「どうしても帰らなきゃならないの?」と母親。心配してくれているようだ。ウン、と小さく返事をしたものの、やはり気が進まない。
 そこへ父親が、珍しく口をはさんでくる。「明日の朝でもいいんじゃないのか」

 その一言が決め手となった。キマジメくんは両親と一緒に夕食をとり、大学の話などして、床についた。
 久しぶりの実家のベッドだった。清潔なシーツの匂いがする。高校時代のあれこれが想起された。

 ふと目覚めると、ずいぶん部屋が明るい。窓から陽光が差し込んでいる。日が高いなと思った瞬間、キマジメくんは飛び起きた。時計を見ると、すでに午前9時を回っている。
「ヤバ…」
 今から出ても、礼拝には間に合わない。多少遅れて入るくらいならいいが、これではどんなに急いでも、着く頃には礼拝は終わっている。急激に汗ばむのを感じながら、携帯電話を取り出した。
「おお、キマジメくん。もう東京に帰ってるのかい?」
 開口一番、溝田牧師が言う。ずいぶん機嫌がいいようだ。しかし、それも長くは続かなかった。
「実は、朝帰ろうと思ったのですが、寝坊してしまって…」
「はぁっ?」溝田牧師の溜息。続いてしばらくの沈黙。キマジメくんは金縛り状態。
「キマジメくん、主が悲しんでおられるよ」溝田牧師は明らかな怒りを込めている。「キマジメくん、君はクリスチャンとしての大切な使命を放棄してしまったんだよ。私はそのことで怒りを感じるよ。これは聖書の言う、義憤というものだ。キマジメくん、実家でもどこでもいいから、真剣に悔い改めなさい」
「す、すみません」キマジメくんは反射的に謝る。
「私にじゃないよ!」と溝田牧師。「主に謝りたまえ! まったくわかってないな。それだから礼拝を休むことになるんだ」
「は、はい」もはやキマジメくんの声は消え入りそうだ。溝田牧師はそれを察したのか、急に猫なで声になる。「キマジメくんね、ちゃんと悔い改めなさい。でないと、君に与えられている永遠の命が、取り去られてしまうかもしれないから。私はね、それを心配してるんだよ」
「はい、ありがとうございます…」
 その後も牧師に何か言われたが、キマジメくんの耳には入らなかった。
 やっとの思いで電話を切ると、涙がこぼれ落ちた。(続く)

・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。

2013年10月9日水曜日

24時間の礼拝について思うこと

「24時間の礼拝」というのがある。文字通り24時間365日、賛美とか祈りとかの礼拝を休まず続けるものだ。礼拝のグループが複数あって、それぞれ2時間くらいずつ順番に担当するのが主流だと思う。1999年5月にアメリカのカンザスシティで始まった International house of prayer (IHOP) が、そのスタイルでは有名だ。

 IHOPは2009年に十周年を迎えた。そのあたりからだと私は認識しているが、日本の教会でも、そのスタイルを取り入れる動きが活発化しはじめた。現在、いくつかの教会や団体が、24時間の礼拝を行っていると聞く。

 それぞれの教会のポリシーは知らないけれど、IHOPで言えば「ダビデの幕屋の回復」というのが掲げられている。ダビデの時代、幕屋では24時間の礼拝が捧げられていて、288人の歌い手と4000人の奏楽者たちがその奉仕を担っていたという(これはIHOPの受け売りだ)。
 その幕屋と同じように24時間の礼拝を捧げることは、「神の力の満しと御心の解放に深くつながっている」とIHOPは表明している(HPに詳細が載っているので、英語の勉強がてらに見るのもいいかもしれない)。

 私個人は、その働きを否定しようとは思わない。実は私もその働きに関わっていた時期がある。

 24時間の礼拝というのは、確かに「特別」な感覚をもたらすと思う。未体験の方には説明しにくいけれど、幸福感というか安心感というか、そういうものに浸ることができる。しかもそれには終わりがないので、いつまででも居たい、居られる、というような感覚になる(もちろん奉仕者には大変な面もある)。
 賛否両論あるかもしれないけれど、それが「特別」であることは間違いないと思う。

 という認識のもと、この「24時間の礼拝」について、私なりに思う注意点を書きたい。

・現実生活との乖離
 奉仕者は基本的に、祈りとか歌とか楽器とかの担当に徹する。自分の礼拝奉仕の時間以外も、その準備をすることが奉仕となっている。だから文字通り、「日夜主に仕える」ような生活になる。それはそれで幸福なことかもしれない。けれど日常生活とか、友人や家族との交流とか、そういう「地上の暮らし」も大切であろうと思う。
 また奉仕者でなくても、前述の通り参加することで得られる幸福感みたいなものがある。それにずるずる引きずられて現実の生活から離れてしまうとしたら、どこかバランスが悪いような気がする。

・優越意識、特別意識
 奉仕者は「神からの深い啓示を受けた」「特別な御心が示された」という感覚を多く体験すると思う。それ自体は素晴らしいことだけれど、「だから自分は特別だ」「自分は優れている」となるのは本末転倒であろう。深い啓示を受けたということは、それだけ深い責任を負った、ということだと私は思う。

・神と人との間に割って入る
 これは私が関わった団体だけの問題かもしれないが、24時間の礼拝の奉仕者は、「特別に神に召された者」だという認識があった。だから普通のクリスチャンには啓示されない「高度な御心」が啓示される。それを人々に伝える。そういう大切な役割が私たちにはある、とされていた。
 その賛否はさておくとしても、この考え方の延長線上にあるのは、神と人との間に割って入るという越権行為だと思う。クリスチャンはそれぞれが神様と個人的に交わりを持てるはずで、そういう意味で「万民祭司」と言われるのだ。けれどこの「特別な啓示を持って人々(一般のクリスチャンたち)を導く」というのは、それに反しているのではないだろうか。

・過重な負担
 情熱とか勢いとかで始めてしまうと、次第に息切れしてしまう。始めたことを継続できないのは証にならない。定期的に、動機を点検した方がいいかもしれない。

2013年10月8日火曜日

クリスチャンで良かったこと

 教会の解散などいろいろあったけれど、私はこれまでの人生を振り返ると、クリスチャンで良かったなと思う。今も信仰の在り方を見直す最中で、まだ多くの疑問があるのは間違いない。けれど、クリスチャンとして人生の半分を過ごしたことは後悔していない。
 それで、クリスチャンで何が良かったかを書いてみたい。

・常にモラルを意識できる
 これは未信者であっても当然のことかもしれないが、とにかくどんな些細なことに関しても正しくあろうと努め続けてこれたのは、クリスチャンだからだと思う(もちろんたくさんの失敗があり、今も成人君主ではないのは言うまでもない)。

 聖書が示すモラルの基準は、基本的に高いと思う。殺人とか姦淫とかは一般常識的にも悪とされているけれど、聖書はある事柄について「心に思うだけ」でも罪だとしている。だから法律に触れなければいい、ばれなければいい、訴えられなければいい、とはいかない。もし真剣にキリストの教えを守ろうとするなら、何を心に思って生きるかまで注意しなければならない。

 そういう基準がなければ、私などは簡単に「ちょっとくらいいいだろう」的な考えになると思う。例えば、苦手な人との接触は極力避けたいものだ。けれど聖書が「敵を愛しなさい」と言うので、私は神様に従おうする手前、何とかその苦手な人を克服しようとする。
 それは動機がなんであれ、人間関係の再構築に努めるという意味で、悪いことではないと思う。どちらかというと正しいことのような気がする。

・一定の指針が与えられる
 これは上記にも通じるが、聖書が示す指針に従って生きることが推奨される。愛することとか許すこととか沢山あってここでは書けないが、そういう指針のもとで生きるというのは、シンプルで一貫した人生を実現すると思う。もちろんその指針が良いか悪いかという議論はあるし、そもそも一貫性が必要かどうかという意見もあるだろう。けれど、毎年3万人以上が自殺を選ぶほど生きづらい社会にあっては、そういう指針が拠り所となる人々は少なからずいると思う。

・大家族を経験できる
 教会内の密な人間関係は、「神の家族」というにふさわしいと思う。年輩の方から幼子まで、皆が祖父母であり、両親であり、兄弟姉妹であり、子どもであり、孫である。皆当然のように助け合うし、支え合う。そこで受けた恩恵は小さくないし、自分も誰かの役に立つことができる。

 もちろん他にもあるだろう。「永遠のいのちが与えられた」というのを第一に挙げるべきかもしれない。けれど教会の解散に係るいろいろを目にしてきた今は、それを短絡的に言うのは差し控えたいと思う。
 他にも「クリスチャンで良かったこと」があれば書いてきたいと思うし、何か良い案があれば教えていただきたいと思う。

2013年10月7日月曜日

クリスチャンの「あるある」的に書いてみた(礼拝篇)

 表題の通り、クリスチャンの「あるある」的に書いてみる。礼拝篇。

(注意)
 これはプロテスタント聖霊派にしか属したことのないクリスチャンの視点であって、クリスチャン全般について言えるとは限らない。

■礼拝に行く時間は
・奉仕があるから1時間前。(マジメ)
・いつも時間ギリギリ。時々ちょっと遅れる。(フツウ)
・3時間前から奉仕している。(超マジメ)
・前の晩からいる。(カルト疑惑)

■礼拝を休んだことは
・基本的にない。(マジメ)
・時々だるくて休む。(フツウ)
・休むなんて不信仰だ。(カルト疑惑)
・休みって何ですか?(カルト以上)

■賛美のとき立つか
・司会の指示に従って立つ。(マジメ)
・皆が立つから立つ。(フツウ)
・立つのは基本。場合によってジャンプ、ダンス、挙手、号泣など。(超マジメ)
・もう立っていられません。(カルト以上)

■挨拶の時間は
・できるだけ多くの人としたい。(マジメ)
・近所の人と挨拶。(フツウ)
・短い時間だけど、悩みを聞いて祈ってあげたい。(超マジメ)
・可能な限りの人と全力でハグ。(ヤケド注意)

■週報は
・メモを書き加えて保管する。(マジメ)
・一通り眺める。(フツウ)
・すぐなくしてしまう。(ノーコメント)
・メッセージ等のメモでびっしり。(超マジメ)
・折り目もつけず完璧に保管。(カルト疑惑)

■メッセージ(説教)を聞くときは
・ポイントを押さえて流れを理解する。(マジメ)
・聞いているけれど、時々意識が飛ぶ。(フツウ)
・牧師のテンションに合わせて「アーメン」と応答する。(超マジメ)
・暗記するのに必死。(カルト疑惑)

■献金は
・いつも一定額を捧げている。(マジメ)
・きついときは少なめ。(フツウ)
・多少無理してでも捧げる方が、祝福を受けられると思う。(超マジメ)
・借金してでも捧げる。(カルト疑惑)
・捧げられるものが全然ない。(カルト以上)

■礼拝中の証を頼まれたら
・数日かけて準備し、一応原稿にしておく。(マジメ)
・原稿はあるけど違う話をしてしまった。(フツウ)
・軽く準備して、ぶっつけ本番。(ベテラン)
・一週間前から牧師の校正、訂正を繰り返したうえで承認をもらった原稿を読む。(カルト疑惑)

■礼拝後は
・兄弟姉妹との交わりの時間をある程度持つ。(マジメ)
・簡単に挨拶して教会を出る。(フツウ)
・まだまだ礼拝や奉仕やミーティングがあるので、夜まで教会にいる。(超マジメ)
・仕事が終わっていないので、今夜も教会泊になりそう。(カルト疑惑)

牧会に限らずだが、失敗してもいいのでは

 知っている牧師に、「牧会は絶対失敗できない。百戦百勝でなければならない」というようなことを言う人がいた。
 彼はいわゆる「社会経験」のないまま若くして牧師になり、いきなり教会開拓を始めたという。伝道も牧会も相手はほとんど年上で、大変苦労したそうだ。自分の社会常識や聖書知識の不足を痛感したけれど、そんな素振りを見せる訳にもいかない、という意味で「失敗できない」ということらしかった。

(余談)牧師に「社会経験」が必要かどうかという議論が時々あるが、それをするなら「社会経験って何だ」「それがどれくらい必要なんだ」というところから始めなければならないと思うので、今回はさておく。

 彼が言う「失敗できない」を、私は「信徒をつまずかせてはならない」という意味だと解釈していた。つまり、自分の不足の故に信徒をつまずかせるなんて絶対にあってはならない、ということだ。
 聖書は「つまずきが起こるのは避けられないが、つまずきをもたらす者はわざわいだ」(マタイ18章7節・新改訳)と言っているから、そういう気持ちを支持していると思う。特に牧師であれば、殊更注意しなければならないことかもしれない。そういう意味で、真面目な牧師だなと思った。

 けれど彼の行動を見ていると、どうも「失敗」というのは「つまずき」ではないらしかった。
 それよりも、信徒(や他の誰か)に言い負けないこと、論破することにおいて失敗できない、という意味のようだった。特に教理や教会運営については、自分の主張を通さなければ気が済まないように見えた。
 牧会の初めから年配者とか会社の社長とかを「導いて」きたようだから、そうならざるを得なかったのかもしれない。

 
 牧師の牧会スタイルに口をはさむつもりはないけれど、この「失敗できない」というのは窮屈に思えてならない。
 世に失敗できない類の事柄は多々あるだろうけれど、失敗しないということはない。例えば医療業界では、人為的ミスをいかに防ぐかでなく、いかに減らすか、いかに発見するかに重きが置かれている。それは、「人はミスを犯す」という前提があるからだ。
 心理学的にも、「失敗するな」と言われるほど、人は失敗を誘発するようになるようだ。

 また、「失敗とは何か」という話にもなる。「塞翁が馬」の話にもあるけれど、何が幸か不幸かはすぐにはわからない。失敗だと思ったことが、かえって良い結果を生むこともある。もちろんその逆もあるけれど。

 牧会の話に戻せば、本当に避けるべき失敗は「信徒をつまずかせること」だと思う。信徒自身がいろいろな事情でつまずくのは避けられないかもしれないけれど、それを牧師自らが起こさせるべきではないからだ。
 けれど信徒がつまずくのは、私の経験では、牧師の能力の不足によってではない。例えばメッセージが難解だとか、伝道がうまくできないとか、カリスマ性がないとか、車の運転が下手だとか、伝道集会の運営に失敗があったとか、そういうことで信徒がつまずくとしたら、それは牧師の側の問題ではないと思う。それより信徒をつまずかせる唯一の要因は、牧師の人格に尽きると私は考えている。そしてそれは、失敗かどうかという次元の話ではなくなる。

 失敗しないようにしようとか、失敗を減らそうとかいう自己努力は必要だと思う。けれど精一杯やってそれでも失敗したと思ったら、それを認めて素直に謝ればいいと私は思う。それが誠実ということだろう。うまくできないことがある方が、人間らしいのではないだろうか。

2013年10月5日土曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第3話

 その次の週末、キマジメくんは久しぶりに実家に帰ることになっていた。ほぼ一年振りの帰郷となる。

 帰るチャンスがなかった訳ではない。けれどクリスチャンになってから、日曜は終日、教会で過ごすようになっていた。いろいろ活動もあるし、礼拝を休むのも何だか気が引けた。というのも、牧師が常日頃からこう言っているからだ。

「毎週の日曜を主に捧げることを、主は喜ばれる。だから日曜日の最も素晴らしい過ごし方は、教会に行くことだ。この恵みを知らない未信者は本当に哀れだと思うよ」

 実は今までにも、礼拝を休みたいことは何度かあった。大学の映画サークルで旅行に行く時とか、他の友人たちが日帰り旅行に誘ってくれた時とかだ。本当は行きたかったけれど、どちらも断っていた。
 キマジメくんには礼拝を休むことは不信仰なこと、悪いことのように思えた。というか、そういう雰囲気が少なからず教会にあるように感じていた。

 けれど、今回の帰郷にはそうも言っていられない事情がある。祖父の三回忌がちょうど、土曜日の午後にあるのだ。昨年の一周忌に続き、必ず出席するよう親に言われていた。

 一周忌の時と同様、土曜は実家に一泊し、日曜の夜に戻るようにすれば、スケジュールとして無理がない。家族で過ごす時間も持てる。少し頑張れば、故郷の友人たちにも会えるかもしれない。三回忌というのはちょうどいい理由みたいなもので、実は実家に帰ることの方がキマジメくんには大切なことだった。

 とはいえ、いきなり牧師に言うのは敷居が高い。まずは教会のノンビリ兄弟に、電話で尋ねてみることにした。ノンビリ兄弟はキマジメくんより十歳くらい上で、クリスチャンとしても先輩だ。礼拝でも司会の奉仕などしている。

「うん、大丈夫じゃないの」事情を話すとすぐ、ノンビリ兄弟は言った。「親御さんも楽しみにしているでしょう。ゆっくりしてきたら」
 キマジメくんは思いのほか簡単に言われたので拍子抜けした。「でも礼拝はいいんですか?」
「そういうことなら大丈夫だよ。でももしキマジメくんが礼拝を守りたいなら、地元の教会に行けばいいと思うよ」
「地元の教会って、どこでもいいんですか? なんかいろいろ違いがあるかと思うんですが」
「心配だったら、溝田先生に聞いてみたらいいんじゃないかな」
 溝田先生というのは、キマジメくんの牧師のことだ。

 ノンビリ兄弟の案外気軽な返事に安心して、キマジメくんは溝田牧師に電話してみることにした。

「ふうん、三回忌ね」溝田牧師は電話の向こうで鼻を鳴らした。「それは大事なことだね。でもね、キマジメくん。聖書にはね、死人のことは死人たちに任せなさいと書いてあるよ。いのちある君がそういうことに関わり合って、礼拝に出席しないことの不利益の方が、大きいと私は思うよ。うん、君のことが心配だ、本当に」
「はあ…」死人がどうのというのは、確かに聖書で読んだ記憶がある。
「でも、親には来るよう言われてて…。礼拝でしたら、地元の教会に行きたいと思います。どこか、紹介していただければ助かるんですが…」
「そっちの方の教会はねぇ」溝田牧師はしばらく低い声で唸った。「あまりお勧めできる教会はないねぇ。下手に他の教会に行くと、異端の霊に影響を受けかねないんだよ。それは、キマジメくんにとって益にはならないよねぇ」
「はあ…」
 何としても、礼拝には出なければならないようだった。(続く)

・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。

2013年10月4日金曜日

プロテスタントの超教派集会の意義について考えてみた

プロテスタントの超教派的な集会というのが時々ある。「カンファレンス」等と呼ばれるようになって久しい。大規模なものだと、海外の有名「ミニスター」がゲストとして呼ばれたりする。入場無料のものが多く(それでも席上献金はある)、誰でも入ることができる。もちろん未信者も入場できるけれど、私が知る限り、未信者はまず入らない。

超教派の集会というのは、基本的に伝道集会ではない(少なくとも私が知っているのはどれもそうだ)。賛美もメッセージもクリスチャン向けだから、もし未信者がそこいたら完全に置いていかれることになる。だから積極的に未信者を集めるようなことはしない。それより大勢のクリスチャンが来るよう、関係教会に案内が送られる。

伝道が目的でないなら何が目的かというと、クリスチャンたちの「励まし」の為だとされている。それはそれで良いかもしれない。実際多くのクリスチャンたちが、「恵まれる」ためにそういう集会に足を運んでいる。
けれど、そういう集会で励まされなければ信仰を維持できないとしたら、それはそれで問題があるような気がする。

私が思うに、そういう集会には同窓会的あるいは学会的な意味合いがありそうだ。それぞれ違う教会でしばらく会っていなかった者どうしが再会し、一緒に礼拝し、近況報告とか、今後の展望とかに花を咲かせる。あるいはプロテスタントの最近の、最新のムーブメントに触れる。実のところそれらが大きな目的の一つになっているように思える。

私は教会問題があって以降、そういう超教派集会の意義について考えてきたけれど、まだ上記のことくらいしか思いついていない。
以前、「エホバの証人」の信徒と話したことがあるけれど、彼らも地域教会が大規模に集まる大会というのを定期的に開いているそうだ。「幸福の科学」も同様らしい。イスラム教もメッカとかバングラデシュとかに世界中の信徒が集まる時期がある。
ということは、全てかどうかわからないが、宗教にはそういった「大勢の信徒が集まる大会」みたいなものが必要なのかもしれない。

その集会の意義はハッキリわからないけれど、そういう集会に集う時は、自分が何故参加するのかくらいは考える余裕があったらいいように思う。何でもそうだけれど、人は目標やゴールがないと、ぶれてしまいやすいからだ。

追記)
だいぶ前の話になるが、「ペンテコステ教役者大会」に参加した時、会場となったホテルの従業員がその区切り方を間違えて「ペンテコステ教・役者大会」と言っていた。まるで新興宗教の役者たちが集まる大会みたいだね、という笑い話がしばらく流行ったのを覚えている。ただの笑い話だが。

2013年10月3日木曜日

リーダーに最も必要な資質についての考察

 前回に続き、リーダーの人格について書きたい。
 前回、人格的成熟度をざっくり量る方法として、「その人に安心感・信頼感を感じるか」というのを紹介した。今回は聖書的、実際的なところで思うことを書きたい。

 聖書はリーダーの条件を複数の箇所で挙げていて、どれも参考にすべきだと思うが、人格に関してはガラテヤ5章22節がシンプルで明確だろうと思う。これは特にリーダーの条件として書かれたものでないけれど、クリスチャンなら備えたい人格であろう。リーダーなら必須だと私は考えている(もちろん完璧にというのは不可能だが)。

「愛・喜び・平安・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制」

 これら9つの人格的性質の並び順は、ある程度の段階を示しているように思う。つまり最初の「愛」とか「喜び」とかが専ら個人の内側に現れる性質であるのに対し、最後の「自制」は外側(他者)に対して現れる性質である。だから後半の性質の方が、備えるのにより難しい傾向にあると思う。他者が見て判断しやすいのも、後半の方の性質であろう。

 だから、だいぶ乱暴な言い方になるけれど、最後の「自制」を備えていれば他の8つも備えている、と言えるような気がする。
 例えば、よく自制できるけれど誠実でない、という人は見たことがない。逆に、誠実だけれど自制することができない、という人はいる。

 だからクリスチャン、特にリーダーを見る場合、その人がどれだけ自分自身をコントロールできるかが大切なポイントになるのだと思う。

 といっても、自制を試される機会というのは、そう頻繁ではないかもしれない。だからある人の人格を見極めようとするには、相応の時間がかかるのだと思う。

 普段は謙遜で誠実な人が、ストレスのかかる状況下で、急に怒り出すということがある。普段のその人からは到底考えられないような姿だったりする。あとから「あの時はストレスフルな状況だったから仕方がない」とか「あれは本来の自分ではない」とか言い訳するかもしれないが、むしろそちらがその人の本性だと私は思う。何故なら、百歩譲ってストレスがそうさせたのだとしても、それで怒りが噴出してしまうのは、まさに自制できていない証拠だからだ。

 ちょっと見ただけだと謙遜な人格者に見える、ということはよくある。しかし人の本性は平時でなく、危急の時に現れる。その時になって「こんなはずじゃなかった」と思っても遅いということを、そのリーダーに従う立場の人間はよくよく理解しておかなければならない。

2013年10月2日水曜日

教会に限らずだが、リーダーに最も必要な資質は

 交通事故で相手を死なせてしまった運転手が、危険運転致死罪で実刑判決を受けた。懲役10年以上で、過去の判例を見ると長期の部類に入る。事故の理由が「煽られて腹が立ったから」だから、仕方ないかもしれない。運転手は免許取り立ての若者ではなかった。

 こういう事件や事故を見ると、人格的成熟について考えさせられる。私自身が成熟しているとはまったく言えないけれど、いたましい事件の多くは、この人間としての成長に関係があるように思える。

 つい最近も、通りがかりに男性どうしのケンカに遭遇した。理由はほんの些細なことだった。結局大騒ぎにならずに済んだけれど、あのままエスカレートして傷害事件とか殺人事件とかにならなかったとは言い切れない。もしケガを負ったり負わせてしまったりしたら、きっと長い後悔と贖罪の時間を過ごすことになる。そんな犠牲を払えるほどの理由でなかったにもかかわらずだ。それは、悲劇ではないだろうか。

 もちろん、そういう苦しみとか絶望とか自己嫌悪とかに苛まれることで、より他者や自己を見つめる生き方を選択できるようになるなら、その経験は決して無駄にはならないと思うけれど。

 私のかつての牧師は、「神の働き人として最も大切なのは人格だ」というようなことをよく言っていた。統率力とか判断力とか、スピーチのスキルとかユーモアとか、経営力とかマネジメントとか、そういう実務的な能力があるに越したことはないけれど、その前に人格的成熟がなければ意味がない、神のために働けない、という意味だと私は解釈している。
 それは正しいと思うし、キリスト教会だけに限った話でもないと思う。一般的なリーダーとか経営者とか上司に対して、多くの人は「できた人間」であってほしいと願っているのではないだろうか。私もその一人だ。

 とはいえ、この人格的成熟というのは定義が難しい。判断項目や判断基準は人によっていろいろだろう。それに個人の人格的成熟度は、年齢や経験で良くも悪くも変化していく。若いから未熟で、年配だから成熟しているとも言えない。

 けれど、一般常識的な視点からの人間的成熟というのは、ある程度決まっているのではないだろうか。少なくとも、車で煽られたから暴走するとか、欲しい物を得られないから盗むとかいうのは成熟とは言わない。

 私個人は、人の人格的成熟をおおまかに量る方法として、その人に対する安心感と信頼感を挙げたい。一緒にいて安心でき、自分の何かを任せることができる(その程度はいろいろだろうけれど)相手というのは、やはり一定の成熟を経た人だと思う。
 そうでない人とは付き合わない、という意味ではもちろんない。あくまで人格的成熟を量る方法としてだ。

 教会での諸問題を経た今、特にキリスト教会の牧師やリーダーを見るとき、私はどんな能力があるかでなく、どんな人格かに注目するようにしている。上目線な言い方かもしれないが、これは非常に大切なことだ。どんなにすごいカリスマ性があって、どんなにすごい「ミニストリー」ができても、教会が大きくても有名でも、その人格に一定の成熟がないなら、「車で煽られたから腹が立った」みたいな理由で人を殺しかねないからだ。