24時間の礼拝について思うこと

2013年10月9日水曜日

キリスト教信仰

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「24時間の礼拝」というのがある。文字通り24時間365日、賛美とか祈りとかの礼拝を休まず続けるものだ。礼拝のグループが複数あって、それぞれ2時間くらいずつ順番に担当するのが主流だと思う。1999年5月にアメリカのカンザスシティで始まった International house of prayer (IHOP) が、そのスタイルでは有名だ。

 IHOPは2009年に十周年を迎えた。そのあたりからだと私は認識しているが、日本の教会でも、そのスタイルを取り入れる動きが活発化しはじめた。現在、いくつかの教会や団体が、24時間の礼拝を行っていると聞く。

 それぞれの教会のポリシーは知らないけれど、IHOPで言えば「ダビデの幕屋の回復」というのが掲げられている。ダビデの時代、幕屋では24時間の礼拝が捧げられていて、288人の歌い手と4000人の奏楽者たちがその奉仕を担っていたという(これはIHOPの受け売りだ)。
 その幕屋と同じように24時間の礼拝を捧げることは、「神の力の満しと御心の解放に深くつながっている」とIHOPは表明している(HPに詳細が載っているので、英語の勉強がてらに見るのもいいかもしれない)。

 私個人は、その働きを否定しようとは思わない。実は私もその働きに関わっていた時期がある。

 24時間の礼拝というのは、確かに「特別」な感覚をもたらすと思う。未体験の方には説明しにくいけれど、幸福感というか安心感というか、そういうものに浸ることができる。しかもそれには終わりがないので、いつまででも居たい、居られる、というような感覚になる(もちろん奉仕者には大変な面もある)。
 賛否両論あるかもしれないけれど、それが「特別」であることは間違いないと思う。

 という認識のもと、この「24時間の礼拝」について、私なりに思う注意点を書きたい。

・現実生活との乖離
 奉仕者は基本的に、祈りとか歌とか楽器とかの担当に徹する。自分の礼拝奉仕の時間以外も、その準備をすることが奉仕となっている。だから文字通り、「日夜主に仕える」ような生活になる。それはそれで幸福なことかもしれない。けれど日常生活とか、友人や家族との交流とか、そういう「地上の暮らし」も大切であろうと思う。
 また奉仕者でなくても、前述の通り参加することで得られる幸福感みたいなものがある。それにずるずる引きずられて現実の生活から離れてしまうとしたら、どこかバランスが悪いような気がする。

・優越意識、特別意識
 奉仕者は「神からの深い啓示を受けた」「特別な御心が示された」という感覚を多く体験すると思う。それ自体は素晴らしいことだけれど、「だから自分は特別だ」「自分は優れている」となるのは本末転倒であろう。深い啓示を受けたということは、それだけ深い責任を負った、ということだと私は思う。

・神と人との間に割って入る
 これは私が関わった団体だけの問題かもしれないが、24時間の礼拝の奉仕者は、「特別に神に召された者」だという認識があった。だから普通のクリスチャンには啓示されない「高度な御心」が啓示される。それを人々に伝える。そういう大切な役割が私たちにはある、とされていた。
 その賛否はさておくとしても、この考え方の延長線上にあるのは、神と人との間に割って入るという越権行為だと思う。クリスチャンはそれぞれが神様と個人的に交わりを持てるはずで、そういう意味で「万民祭司」と言われるのだ。けれどこの「特別な啓示を持って人々(一般のクリスチャンたち)を導く」というのは、それに反しているのではないだろうか。

・過重な負担
 情熱とか勢いとかで始めてしまうと、次第に息切れしてしまう。始めたことを継続できないのは証にならない。定期的に、動機を点検した方がいいかもしれない。

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