神の為だから仕方がない、で済む問題、済まない問題

2013年10月24日木曜日

キリスト教信仰

t f B! P L
 非常に活動的な教会というのがある。
 福祉事業とか飲食業とか出版事業とかCD制作とかの複数事業をやるだけでなく、賛美集会とか青年向けのキャンプとかを主催したり、震災があればボランティアに出向いたり、とにかく年中目まぐるしく動き回っている。その活動の主体が牧師だと、ほとんど教会にいなかったりする。

 それそのものは問題ではない。
 おそらく多忙を極めるだろうけれど、その全ての活動において社会的責任を果たせているなら、たとえ忙しくて休めなくても本人たちの自由だろう。それらの活動が真の社会貢献になっているなら大したものだと思う。

 けれどその手の教会で、事務処理や会計処理がずさんなのを見ることがある。例えば寄付金を集めて事業をしているにもかかわらず、会計報告が途中から来なくなり、その後の残高や使途がまったく不明なまま、いつの間にか事業を撤退していたということがあった。寄付した人がその教会に何度か問い合わせてみたけれど、「確認します」との回答だけで、何の音沙汰もなかったという。

 どうしてそうなってしまったのか、正確な事情はわからない。けれど、忙しいことがそれに全く影響しなかったとは思えない。私も同種の教会で熱心に働いていたので、その状況が多少はわかる。いろいろな事業や新企画を回すのにイッパイイッパイで、事務処理や会計処理が後回しにされ、結局手つかずのまま放置され、気づいた時には手遅れ、というような状況や傾向は少なからずあるはずだ。人手不足で若手中心の教会だと、特にそうなりやすいと思う。

 それは行政や一般企業では決して許されない事態だけれど、不思議なことにキリスト教会となると、何となく見過ごされてしまいやすい(日本のキリスト教界が人口の少ない狭い社会だからかもしれない)。

 それはそれで困った事態ではあるけれど、更に困るのは、本人たちにその自覚がない場合だ。自覚がないどころか、「自分たちは神様の御心を行っている。それで忙しくなっているのだから多少の不備は仕方がない。神の為のやむを得ない犠牲だ」くらいに言い切るケースがある。

 従業員にサービス残業をさせる企業は、最近では「ブラック企業」と呼ばれる。そういう企業でさえ、最低限の会計処理はしているはずだ。しないと法律違反になるからだ。しかしもし会計処理をしない企業があったとして、「ウチは社会貢献を精一杯しているんだからこれくらいの不備は仕方がない」と言ったら通用するだろうか。
 それが通用しないのが一般常識だと思う。けれどもし教会がそれを通用させようとするなら、そういう教会は非常識だと言われても仕方がないのではないだろうか。

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