前回、人格的成熟度をざっくり量る方法として、「その人に安心感・信頼感を感じるか」というのを紹介した。今回は聖書的、実際的なところで思うことを書きたい。
聖書はリーダーの条件を複数の箇所で挙げていて、どれも参考にすべきだと思うが、人格に関してはガラテヤ5章22節がシンプルで明確だろうと思う。これは特にリーダーの条件として書かれたものでないけれど、クリスチャンなら備えたい人格であろう。リーダーなら必須だと私は考えている(もちろん完璧にというのは不可能だが)。
「愛・喜び・平安・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制」
これら9つの人格的性質の並び順は、ある程度の段階を示しているように思う。つまり最初の「愛」とか「喜び」とかが専ら個人の内側に現れる性質であるのに対し、最後の「自制」は外側(他者)に対して現れる性質である。だから後半の性質の方が、備えるのにより難しい傾向にあると思う。他者が見て判断しやすいのも、後半の方の性質であろう。
だから、だいぶ乱暴な言い方になるけれど、最後の「自制」を備えていれば他の8つも備えている、と言えるような気がする。
例えば、よく自制できるけれど誠実でない、という人は見たことがない。逆に、誠実だけれど自制することができない、という人はいる。
だからクリスチャン、特にリーダーを見る場合、その人がどれだけ自分自身をコントロールできるかが大切なポイントになるのだと思う。
といっても、自制を試される機会というのは、そう頻繁ではないかもしれない。だからある人の人格を見極めようとするには、相応の時間がかかるのだと思う。
普段は謙遜で誠実な人が、ストレスのかかる状況下で、急に怒り出すということがある。普段のその人からは到底考えられないような姿だったりする。あとから「あの時はストレスフルな状況だったから仕方がない」とか「あれは本来の自分ではない」とか言い訳するかもしれないが、むしろそちらがその人の本性だと私は思う。何故なら、百歩譲ってストレスがそうさせたのだとしても、それで怒りが噴出してしまうのは、まさに自制できていない証拠だからだ。
ちょっと見ただけだと謙遜な人格者に見える、ということはよくある。しかし人の本性は平時でなく、危急の時に現れる。その時になって「こんなはずじゃなかった」と思っても遅いということを、そのリーダーに従う立場の人間はよくよく理解しておかなければならない。