プロテスタントの超教派集会の意義について考えてみた

2013年10月4日金曜日

キリスト教信仰

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プロテスタントの超教派的な集会というのが時々ある。「カンファレンス」等と呼ばれるようになって久しい。大規模なものだと、海外の有名「ミニスター」がゲストとして呼ばれたりする。入場無料のものが多く(それでも席上献金はある)、誰でも入ることができる。もちろん未信者も入場できるけれど、私が知る限り、未信者はまず入らない。

超教派の集会というのは、基本的に伝道集会ではない(少なくとも私が知っているのはどれもそうだ)。賛美もメッセージもクリスチャン向けだから、もし未信者がそこいたら完全に置いていかれることになる。だから積極的に未信者を集めるようなことはしない。それより大勢のクリスチャンが来るよう、関係教会に案内が送られる。

伝道が目的でないなら何が目的かというと、クリスチャンたちの「励まし」の為だとされている。それはそれで良いかもしれない。実際多くのクリスチャンたちが、「恵まれる」ためにそういう集会に足を運んでいる。
けれど、そういう集会で励まされなければ信仰を維持できないとしたら、それはそれで問題があるような気がする。

私が思うに、そういう集会には同窓会的あるいは学会的な意味合いがありそうだ。それぞれ違う教会でしばらく会っていなかった者どうしが再会し、一緒に礼拝し、近況報告とか、今後の展望とかに花を咲かせる。あるいはプロテスタントの最近の、最新のムーブメントに触れる。実のところそれらが大きな目的の一つになっているように思える。

私は教会問題があって以降、そういう超教派集会の意義について考えてきたけれど、まだ上記のことくらいしか思いついていない。
以前、「エホバの証人」の信徒と話したことがあるけれど、彼らも地域教会が大規模に集まる大会というのを定期的に開いているそうだ。「幸福の科学」も同様らしい。イスラム教もメッカとかバングラデシュとかに世界中の信徒が集まる時期がある。
ということは、全てかどうかわからないが、宗教にはそういった「大勢の信徒が集まる大会」みたいなものが必要なのかもしれない。

その集会の意義はハッキリわからないけれど、そういう集会に集う時は、自分が何故参加するのかくらいは考える余裕があったらいいように思う。何でもそうだけれど、人は目標やゴールがないと、ぶれてしまいやすいからだ。

追記)
だいぶ前の話になるが、「ペンテコステ教役者大会」に参加した時、会場となったホテルの従業員がその区切り方を間違えて「ペンテコステ教・役者大会」と言っていた。まるで新興宗教の役者たちが集まる大会みたいだね、という笑い話がしばらく流行ったのを覚えている。ただの笑い話だが。

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