けれどこれは教会運営に限らず、クリスチャン個人や関連団体にも起こる得る問題だと思う。
例えば、始めたことをごく短期間で辞めてしまう人がいて、その理由を聞くと「神様に導かれたから」と答えることがある。本当ですかと聞くのも憚られるけれど、何とも腑に落ちない。それで次に始めたことも同じように短期間で辞めてしまうのを見ると、やはり疑問を持たざるを得ない。
また、怒りっぽい牧師で、幾度も信徒とトラブルを起こしてきたという人がいる。それでも短気を改善できず、時々「自分は人格的にリーダーとしてふさわしくない」と漏らしていた。けれど同時に付け加えるのが、「でも神様が自分をリーダーにしたんだから仕方ない」という台詞だった。
普段から「リーダーに必要なのは人格だ」と言っていただけに、それが本当に「仕方ない」で済ませられることなのかどうか、私は疑問に思う。
他にも、ある人の通勤ルートで待ち伏せておいて「神様に導かれてここにいたら偶然会った」とか言う人もいる。例を挙げたらたくさんある。
もちろんそういう「導き」を完全に否定することはできない。けれど、それを神様に対してもまっすぐに言えるかどうかは、本人が一番よく知っているだろう。そしてそれがもし偽りなら、信仰どころの話ではない。本人はそれでいいのだろうか。
そういう例に共通するのは、「自分はこうしたいけれど、するのはいささか憚られる」という心理のような気がする。「こうしたい」と言いにくいので、「神の導き」のせいにする。そうすれば、「自分は気が進まないけれどしなければならない」と言えて気が楽になるのだろう。
しかしそうやって自分の願望を神のせいにして実現しようとするのは、聖書の言う「偽預言者」と同じではないだろうか。「神がこう言った」と言って、自分の欲求を満たそうとするからだ。
そういうリスクを背負うくらいなら、「神の御心はわからないけれど、自分はこうしたいと思っている」と正直に言う方がよっぽど楽ではないだろうか。それで諌められたり、別の案を提示されたりする方が、結果的に自分の欲求を健全に扱えるような気がする。そこからいろいろ学ぶこともあるだろう。
そういう正直さを隠して「神の導き」というキレイ事で通そうとする、その気持ちはわかるけれど、いやらしく思えてならない。それなら日本人的「建前」の方が、社交辞令的意味合いがあるだけマシだと思う。
そういう例に共通するのは、「自分はこうしたいけれど、するのはいささか憚られる」という心理のような気がする。「こうしたい」と言いにくいので、「神の導き」のせいにする。そうすれば、「自分は気が進まないけれどしなければならない」と言えて気が楽になるのだろう。
しかしそうやって自分の願望を神のせいにして実現しようとするのは、聖書の言う「偽預言者」と同じではないだろうか。「神がこう言った」と言って、自分の欲求を満たそうとするからだ。
そういうリスクを背負うくらいなら、「神の御心はわからないけれど、自分はこうしたいと思っている」と正直に言う方がよっぽど楽ではないだろうか。それで諌められたり、別の案を提示されたりする方が、結果的に自分の欲求を健全に扱えるような気がする。そこからいろいろ学ぶこともあるだろう。
そういう正直さを隠して「神の導き」というキレイ事で通そうとする、その気持ちはわかるけれど、いやらしく思えてならない。それなら日本人的「建前」の方が、社交辞令的意味合いがあるだけマシだと思う。
いつも更新、ありがとうございます。
返信削除本当にそうだと思います。
これはささいなことのように見えますが、実は非常に根が深く、とても大きな問題を含んでいます。十戒に、主の御名をみだりに唱えてはならない、ともあります。そういうことを平気で言う、する人は、根本的に主を恐れていないと思います。神様を、侮っていると思います。おっしゃる通り、偽預言者と同じです。こういうやからが、聖霊に対する偏見や誤解を招いているのであって、その反動で、警戒が行き過ぎ、真実な聖霊のお働きに対してまで心を閉ざしてしまっている教会、クリスチャンが大勢いると思います。またそういう一部の人を指して、だから聖霊派は、、、という態度をとる福音派の人たちもいると思います。こういう人たちは、おおきなつまずきになっています。すみやかに悔い改めることを望みます。