自分の欲求を「神の導き」のせいにするいやらしさ

2013年10月13日日曜日

キリスト教信仰

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 牧師の「ワンマン経営」の問題点が、神のせい(あるいは神の導き)にされて片付けられている、という記事を前回書いた。
 けれどこれは教会運営に限らず、クリスチャン個人や関連団体にも起こる得る問題だと思う。

 例えば、始めたことをごく短期間で辞めてしまう人がいて、その理由を聞くと「神様に導かれたから」と答えることがある。本当ですかと聞くのも憚られるけれど、何とも腑に落ちない。それで次に始めたことも同じように短期間で辞めてしまうのを見ると、やはり疑問を持たざるを得ない。

 また、怒りっぽい牧師で、幾度も信徒とトラブルを起こしてきたという人がいる。それでも短気を改善できず、時々「自分は人格的にリーダーとしてふさわしくない」と漏らしていた。けれど同時に付け加えるのが、「でも神様が自分をリーダーにしたんだから仕方ない」という台詞だった。
 普段から「リーダーに必要なのは人格だ」と言っていただけに、それが本当に「仕方ない」で済ませられることなのかどうか、私は疑問に思う。

 他にも、ある人の通勤ルートで待ち伏せておいて「神様に導かれてここにいたら偶然会った」とか言う人もいる。例を挙げたらたくさんある。

 もちろんそういう「導き」を完全に否定することはできない。けれど、それを神様に対してもまっすぐに言えるかどうかは、本人が一番よく知っているだろう。そしてそれがもし偽りなら、信仰どころの話ではない。本人はそれでいいのだろうか。

 そういう例に共通するのは、「自分はこうしたいけれど、するのはいささか憚られる」という心理のような気がする。「こうしたい」と言いにくいので、「神の導き」のせいにする。そうすれば、「自分は気が進まないけれどしなければならない」と言えて気が楽になるのだろう。

 しかしそうやって自分の願望を神のせいにして実現しようとするのは、聖書の言う「偽預言者」と同じではないだろうか。「神がこう言った」と言って、自分の欲求を満たそうとするからだ。

 そういうリスクを背負うくらいなら、「神の御心はわからないけれど、自分はこうしたいと思っている」と正直に言う方がよっぽど楽ではないだろうか。それで諌められたり、別の案を提示されたりする方が、結果的に自分の欲求を健全に扱えるような気がする。そこからいろいろ学ぶこともあるだろう。

 そういう正直さを隠して「神の導き」というキレイ事で通そうとする、その気持ちはわかるけれど、いやらしく思えてならない。それなら日本人的「建前」の方が、社交辞令的意味合いがあるだけマシだと思う。

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