「意図」と「結果」の因果関係。男性牧師と女性信徒たちの関係について思うこと。

2013年10月28日月曜日

キリスト教信仰

t f B! P L
 ある男性牧師のまわりには、いつも女性ばかりがいた。
 近くで働くスタッフはほとんど女性で、カウンセリングの対象となるのも、私の知る限り女性信徒ばかり。いろいろな集会やミーティングの後、その牧師と一緒に遅くまで残って歓談するのは、やはり女性たち。SNSをみるとその手の写真がたくさん出てくる。

 
 日本の教会の男女構成比は、正確なデータはないがおそらく女性の方が高いだろう。だから何かと目立つのは女性たちで、結果的にそういう状況になるのもある程度は必然だと思う。けれど妻帯している牧師のまわりをいつも若い女性信徒が囲むという風景には、どうも違和感を覚えた。
 その牧師にはそういう意図がなく、結果的にそうなっただけなのかもしれないけれど。

 しかしこの「意図」と「結果」の関係について考えてみると、両者にまったく相関関係がないとは言えない。

 もちろん、意図したことがいつもそのまま結果になるという訳ではない。
 大学受験した学生が必ず合格する訳ではないし、企業した若者が必ず成功する訳でもない。若者でいっぱいの教会を目指して開拓伝道した牧師が、結果的に高齢者ばかりの教会を作るということもあるかもしれない。
 願う通りにならないというのは、この世の常であろう。

 けれど一方、あくまでその意図を諦めないことで、一定の結果をみるのもまた世の常だ。
 例えば私の知り合いは、若くして舞台俳優を目指し、海外へ出て行った。けれどなかなか芽が出ず、アルバイト生活を長い間続けることとなった。それでも諦めず挑戦し続けた結果、20数年後、初めてエキストラとしてCMに出演することができた。今もオーディションを受け続ける日々だから、結果を出したとは言えないかもしれない。けれどその人が俳優業界に生きているのは間違いないし、俳優を目指しはじめた素人とは経験的にも知識的にも全然違う次元にいる。それはその人が意図した結果だろう。

 諦めないことで、あるいはあくまで継続することで、私たちはそれぞれ(意識的にも無意識的にも)、意図した結果に近づいていくのだと思う。
 例えば、卒業後も友人たちと交流したいと願う人と、願わない人とがいる。それぞれの10年後は、ほぼそれぞれが願った通りになっているだろう。

 そういう視点でみると、その男性牧師が女性信徒ばかりを侍らせるのにも、もともとそういう意図があるからではないかと思えてしまう。もしそれが誤解だとしても、そういう誤解があり得ることは容易に想像できるはずだし、避けるべきではないだろうか(それが想像できないとしたらまた別の問題がある)。その牧師がそれをよくわかっていて、「これは何とかしなければ誤解されてしまう」と真剣に対応するならば、当然状況は変えられるはずだからだ。

 もしかしたら牧師が言い訳として、「イエス様にも大勢の女性が近くで仕えていた」とか言うかもしれない。けれどもっと近くに12人も男がいたという事実を、まさか牧師が忘れるはずがないだろうと思う。

QooQ