奉仕の動機をみる神、奉仕の結果をみる人間

2013年10月16日水曜日

キリスト教信仰

t f B! P L
 前回、教会の小グループ制について、良い結果が出ないとダメ出しされるのは無報酬の成果主義と書いた。
 けれどこれは小グループ制の話だけでなく、教会の奉仕全般に言えることだと思う。そして残念ながら、そういう成果主義的な話を耳にすることが多い。

 例えば週報にミスがあったから、車を運転していて道を間違えたから、仕事の期日に遅れたから、歌が下手だからとかいう、能力的な理由で信徒が叱責されることがある。能力主義とも言えるかもしれない。それで給料をもらっているならまだ理解できるが(それでも、できないことで罵倒されるのはおかしい)、ほとんどの信徒は完全なボランティアで、善意と献身の気持ち一つで奉仕をしているはずだ。まずはそれを感謝されるのが一般常識のはずだ。

 けれどそういう教会の牧師は、「信徒が奉仕するのは当たり前だ。そして奉仕はハイクオリティでなければならない。日本のクリスチャンはそこが甘いから舐められるんだ」とかいうような理屈を並べる(だから有給のスタッフには更に厳しくなる)。

 その言い分はわからなくもない。奉仕に対して無責任なのは困るし、ボランティアだから何でも許される訳ではない。私もどちらかと言うと、自分の奉仕はハイクオリティでありたいと願っている。

 けれど結果を求められる奉仕というのは、いったい誰のための奉仕なのだろうか、神がそのような結果を求めておられるのだろうか?

 例えば、何人かで伝道に行く。中には初対面の人に話しかけるのが上手い人もいるし、そうでない人もいる。前者は相手を入信にまで導く可能性が高いけれど、後者は「自分はダメだな」と思うかもしれない。
 そこに成果主義的な牧師が現れ、前者を褒める(せいぜい褒める程度だ)。そして後者を責める(あるいは無視したり蔑んだりする)。「大切な魂を救うチャンスを逃したな!」等ともっともらしい説教をするかもしれない。

 そういうことを神が願っておられるとは、私には到底思えない。むしろ口下手な人が伝道しようとした、その努力を喜ばれるのではないかと思う。神は人間の協力を喜ばれるだろうけれど、人間の協力を絶対的に必要としている訳ではないからだ。

 そもそも教会で奉仕をする動機とは、何かの結果を求めることでなく、神を信じ愛する心にあるはずだ。十字架の愛に感謝する心があるはずだ。だから心を込めて奉仕しようとするのだし、その結果としてクオリティが上がり得るのだ。そしてそうであるなら、結果が良かろうが悪かろうが問題にはならない(もちろん反省が必要な場合もあるだろうが)。
 それは自ら進んで捧げる奉仕であって、誰かに強制されたり結果を管理されたりするものではない
 
 それでも成果主義の正当性を主張するなら、それにふさわしく全ての奉仕にノルマを設定し、達成したらこれこれの報酬、達成しなかったらこれこれのペナルティ、と明確に決めておくべきだ。それならフェアだろう。

 しかしそうなると、そこはもはや教会とは言えない気がする。ただノルマと結果があるだけで、神の愛も何も関係ないからだ。では企業かと言うと、未信者が入信しても基本的にお金が入る訳ではないから、企業としても成立しない。
 そう考えると、成果主義の教会というのは、自己矛盾を起こしているように思えてならない。教会でありながら教会でなく、かといって他の何にもなれない、定義不能な存在だからだ。

QooQ