けれどこれは小グループ制の話だけでなく、教会の奉仕全般に言えることだと思う。そして残念ながら、そういう成果主義的な話を耳にすることが多い。
例えば週報にミスがあったから、車を運転していて道を間違えたから、仕事の期日に遅れたから、歌が下手だからとかいう、能力的な理由で信徒が叱責されることがある。能力主義とも言えるかもしれない。それで給料をもらっているならまだ理解できるが(それでも、できないことで罵倒されるのはおかしい)、ほとんどの信徒は完全なボランティアで、善意と献身の気持ち一つで奉仕をしているはずだ。まずはそれを感謝されるのが一般常識のはずだ。
けれどそういう教会の牧師は、「信徒が奉仕するのは当たり前だ。そして奉仕はハイクオリティでなければならない。日本のクリスチャンはそこが甘いから舐められるんだ」とかいうような理屈を並べる(だから有給のスタッフには更に厳しくなる)。
その言い分はわからなくもない。奉仕に対して無責任なのは困るし、ボランティアだから何でも許される訳ではない。私もどちらかと言うと、自分の奉仕はハイクオリティでありたいと願っている。
けれど結果を求められる奉仕というのは、いったい誰のための奉仕なのだろうか、神がそのような結果を求めておられるのだろうか?
けれど結果を求められる奉仕というのは、いったい誰のための奉仕なのだろうか、神がそのような結果を求めておられるのだろうか?
例えば、何人かで伝道に行く。中には初対面の人に話しかけるのが上手い人もいるし、そうでない人もいる。前者は相手を入信にまで導く可能性が高いけれど、後者は「自分はダメだな」と思うかもしれない。
そこに成果主義的な牧師が現れ、前者を褒める(せいぜい褒める程度だ)。そして後者を責める(あるいは無視したり蔑んだりする)。「大切な魂を救うチャンスを逃したな!」等ともっともらしい説教をするかもしれない。
そういうことを神が願っておられるとは、私には到底思えない。むしろ口下手な人が伝道しようとした、その努力を喜ばれるのではないかと思う。神は人間の協力を喜ばれるだろうけれど、人間の協力を絶対的に必要としている訳ではないからだ。
そこに成果主義的な牧師が現れ、前者を褒める(せいぜい褒める程度だ)。そして後者を責める(あるいは無視したり蔑んだりする)。「大切な魂を救うチャンスを逃したな!」等ともっともらしい説教をするかもしれない。
そういうことを神が願っておられるとは、私には到底思えない。むしろ口下手な人が伝道しようとした、その努力を喜ばれるのではないかと思う。神は人間の協力を喜ばれるだろうけれど、人間の協力を絶対的に必要としている訳ではないからだ。
そもそも教会で奉仕をする動機とは、何かの結果を求めることでなく、神を信じ愛する心にあるはずだ。十字架の愛に感謝する心があるはずだ。だから心を込めて奉仕しようとするのだし、その結果としてクオリティが上がり得るのだ。そしてそうであるなら、結果が良かろうが悪かろうが問題にはならない(もちろん反省が必要な場合もあるだろうが)。
それは自ら進んで捧げる奉仕であって、誰かに強制されたり結果を管理されたりするものではない。
それでも成果主義の正当性を主張するなら、それにふさわしく全ての奉仕にノルマを設定し、達成したらこれこれの報酬、達成しなかったらこれこれのペナルティ、と明確に決めておくべきだ。それならフェアだろう。
しかしそうなると、そこはもはや教会とは言えない気がする。ただノルマと結果があるだけで、神の愛も何も関係ないからだ。では企業かと言うと、未信者が入信しても基本的にお金が入る訳ではないから、企業としても成立しない。
そう考えると、成果主義の教会というのは、自己矛盾を起こしているように思えてならない。教会でありながら教会でなく、かといって他の何にもなれない、定義不能な存在だからだ。
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