神の為に富を放棄することと、放棄させられることは違う

2013年10月27日日曜日

キリスト教信仰

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■自ら富を放棄すること

 キリスト教というと、「清貧」という言葉がイメージされるかもしれない。

「清貧」は最古の修道院、ベネディクト会の戒律でもある。貧しいと言うより、余分な富を持たないで労働と祈りと共同生活に徹する、という意味合いだったと聞いている。だから「貧乏」という表現は適切でないだろう。それより「質素」とか「倹約」とかいう言葉の方が似合うと思う。

 けれどどうも、単なる「貧乏」と認識されやすい傾向があると思う。これはよく語られる牧師や宣教師の「開拓伝道中の貧乏話」によるところが大きいと思う。私も実際に聞いたことがあるけれど、味噌汁しかなくて公園の葉っぱを具にしたとか、一年間Tシャツと短パンだけで過ごしたとか、現在の日本では考えられないような「ジリ貧」振りも珍しくない。開拓伝道=貧乏、くらいの認識があるかもしれない(そういう苦労を経て教会を築き上げた方々の献身には本当に頭が下がる)。

 私の知っている牧師も、「神様のためなら多少の貧乏なんてどうってことない」と言っていた。そこには「神のために働くことは貧乏することだ」くらいの認識があるような気がする。
 もちろん開拓を始めたばかりで信徒もおらず、母教会等からの援助もないなら、無収入だから貧乏になるのは必定だ。それでも次第に人が集まって教会の体を成していくならいいだろうが、そうならない場合もある。そういう苦労とリスクを背負う開拓者の精神を、私は本当に尊敬する。

 けれど、これは厳密に言うと「清貧」とは違うだろうと思う。修道院のケースで言えば、べつにとりたててお金に困っている訳ではなく、あえて質素な生活を選択することで、「清貧」を標榜しているからだ。
 ただし、自ら富を放棄するという意味では、修道院も開拓伝道者も似ているだろうと思う。

■富を放棄させられること

 しかしこの「自ら富を放棄する」という選択が、事実上の強制になることがある。

 ある教会で、スタッフの給与支払いが遅れる、あるいは結果的に支払われない、というようなことがあった。理由は教会会計が苦しいからという単純なものなのだが、「神の為なんだからこれくらい我慢してくれ」という雰囲気があって、誰も何も言えなかった(言えば不信仰だと責められる)。

 この理不尽を補強する聖書箇所はいくつかある。たとえば第一列王記17章の、エリヤを養うことになるやもめの話だ。飢饉の激しい時期で、やもめとその息子はまさに餓死しようとしていた。また第二列王記4章にも、借金返済の為に子どもを奴隷にしなければならないやもめが登場する。新約聖書を見ても、ペテロが税金を払えない場面というのがある。
 これらの例に共通するのは、もはやこれまで的な赤貧状態を神様に助けられた、ということだ。それ自体は素晴らしいことだと思う。けれどこういうケースばかりが強調されて、「絶体絶命の状態にまで陥らないと神の御業は見られない」というメッセージに変換される。そうすると前述の給与未払いは、なんだか「信仰のチャレンジ」みたいに見えてくる。

 こういう聖書補強と教会全体の雰囲気の中では、真面目なスタッフほど文句が言えなくなる。むしろ文句どころか、良き信仰者であろうと、率先してこれに従う。特に贅沢したいと思っている訳でもない。結果として、貧乏をさせられることになる。

 これが独身の信徒一人のことならまだマシだが、家族がいると問題はより深刻になる。幼い子どもがいるなら将来が思いやられるだろう。

 余談だが、そういう教会でスタッフをしながら時々おいしいものが食べたいと思ったら、牧師の出張に付き添ったらいい。「神の為に貧乏も厭わない」はずの牧師と一緒に、豪勢な食事にありつける可能性が高いからだ。

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