神のせいにされる牧師のワンマン経営

2013年10月12日土曜日

カルト問題 キリスト教信仰

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・教会の意思決定の仕方
 キリスト教会の意思決定プロセスは様々だろうが、一般的には牧師会とか役員会とか、執事会とか長老会とか、そういう何らかの集まりで決議されると思う。教会総会みたいな、大きな決議集会もあるかもしれない。

 いずれにせよ、適切なメンバーで話し合って決める、というのが主流だろう。それ相応の時間がかかるかもしれないけれど、いろいろな意見が出る方が、結果的にメリットが大きいと思う(実際には多数決の問題とか、いろいろ難しい点はあるだろうが)。

 けれど中には、牧師一人で決めるという教会もある。話し合うほど人がいない、超小規模教会ならそういうこともあるかもしれない。けれど基本的に、牧師の「ワンマン経営」というのは危険だとよく言われる。私もそう思う。

・カモフラージュされた牧師のワンマン経営
 しかし牧師のワンマン経営というのは、カモフラージュされていて、そうは見えないことがある。
 例えば、役員会などのリーダーシップの集まりがちゃんとあって、何かの決議の際には役員が集まり、議事録もあり、意見も出ている。けれど内情は全員牧師の言いなりで、そもそも反対意見など出ない、というような場合だ(それでも役員たちは自由に発言している、自分たちが決議している、と思っていたりする)。

 このそもそもの原因は、信徒教育にあると思う。牧師に完全従順するよう、初めから教えられているからだ。その場合、「神様に対する従順」という本来の教えが、あの手この手で「牧師に対する従順」にすり替えられていることが多い。信徒の側は、牧師に対する基本的な信頼感もあり、また依存心もあり、ほとんどそれに気づけない。だから役員がどれだけ大勢いようが、どれだけ話し合おうが、結局牧師の意見が通る構造になっている。
 それで物事がスピーディに進み、いろいろ発展していくと、「ウチの教会は革新的だ」「すばらしい一致の教会だ」「皆が同じ心を持っている」とかいう錯覚に陥る。しまいには、「神の国は民主主義でなく一神主義だから、これでいいんだ」ということで、結果的に牧師の独裁政治を許すことになる。

 それでも牧師が正しい良心をずっと維持できるなら、問題ないかもしれない。しかし残念ながら、そうでないケースはある。

・神のせいにされるワンマン経営
 上記のような独裁状態のもと、牧師がこう言う。「神様にこう示された。だからただちにこれこれの事業を始めなければならない。急かもしれないが、これは神の意志なんだ」
 その内部にいる人間が、これにどう反対できるだろうか。仮に反対できたとしても多勢に無勢、不信仰の烙印を押されかねない。それが本当に神の意志かどうかという吟味でさえ、不信仰にされかねない。
 

 これは一見不思議な現象に思えるかもしれないが、当事者たちにはそうではない。たとえ教会が経済的に苦しくて、新規事業に耐えられない状況だとしても、「これは神の意志なのだから従う以外にない」「今こそ信仰を働かせるんだ」「苦しくても必ず祝福される」というような話になってしまう(そういうことが全くないとは言わない)。
 そして自分たちが苦しいのは牧師のせいでなく、あくまでそれを示した神のせい(?)だ、ということになる。牧師は終始「従順な神のしもべ」を演じる。あたかも神が私たちを試し、従順を訓練するため、あえて理不尽な状況に置いておられるかのようだ(繰り返すが、そういうことが全くないとは言わない)。

 こういう状況がエスカレートするとどうなるか、想像に難しくないだろう。

・信徒にも責任の一端はある
 そう指導されてきたのだから仕方ないことではあるけれど、これは信徒の側にも責任の一端はあると思う。やはり自分で学び、考え、判断する力を養っていなければならないと思う。気になること、おかしいと思うことはよく吟味し、疑問を持ち、異を唱え、納得するまで話し合ったりするべきだ。話し合えないにしても、そのまま鵜呑みにすべきではない。
 それは確かに労力がかかるし大変だけれど、それを避けた結果受ける損失よりは、ずっと軽いだろうと思う。

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