教会に限らずだが、リーダーに最も必要な資質は

2013年10月2日水曜日

カルト問題 キリスト教信仰

t f B! P L
 交通事故で相手を死なせてしまった運転手が、危険運転致死罪で実刑判決を受けた。懲役10年以上で、過去の判例を見ると長期の部類に入る。事故の理由が「煽られて腹が立ったから」だから、仕方ないかもしれない。運転手は免許取り立ての若者ではなかった。

 こういう事件や事故を見ると、人格的成熟について考えさせられる。私自身が成熟しているとはまったく言えないけれど、いたましい事件の多くは、この人間としての成長に関係があるように思える。

 つい最近も、通りがかりに男性どうしのケンカに遭遇した。理由はほんの些細なことだった。結局大騒ぎにならずに済んだけれど、あのままエスカレートして傷害事件とか殺人事件とかにならなかったとは言い切れない。もしケガを負ったり負わせてしまったりしたら、きっと長い後悔と贖罪の時間を過ごすことになる。そんな犠牲を払えるほどの理由でなかったにもかかわらずだ。それは、悲劇ではないだろうか。

 もちろん、そういう苦しみとか絶望とか自己嫌悪とかに苛まれることで、より他者や自己を見つめる生き方を選択できるようになるなら、その経験は決して無駄にはならないと思うけれど。

 私のかつての牧師は、「神の働き人として最も大切なのは人格だ」というようなことをよく言っていた。統率力とか判断力とか、スピーチのスキルとかユーモアとか、経営力とかマネジメントとか、そういう実務的な能力があるに越したことはないけれど、その前に人格的成熟がなければ意味がない、神のために働けない、という意味だと私は解釈している。
 それは正しいと思うし、キリスト教会だけに限った話でもないと思う。一般的なリーダーとか経営者とか上司に対して、多くの人は「できた人間」であってほしいと願っているのではないだろうか。私もその一人だ。

 とはいえ、この人格的成熟というのは定義が難しい。判断項目や判断基準は人によっていろいろだろう。それに個人の人格的成熟度は、年齢や経験で良くも悪くも変化していく。若いから未熟で、年配だから成熟しているとも言えない。

 けれど、一般常識的な視点からの人間的成熟というのは、ある程度決まっているのではないだろうか。少なくとも、車で煽られたから暴走するとか、欲しい物を得られないから盗むとかいうのは成熟とは言わない。

 私個人は、人の人格的成熟をおおまかに量る方法として、その人に対する安心感と信頼感を挙げたい。一緒にいて安心でき、自分の何かを任せることができる(その程度はいろいろだろうけれど)相手というのは、やはり一定の成熟を経た人だと思う。
 そうでない人とは付き合わない、という意味ではもちろんない。あくまで人格的成熟を量る方法としてだ。

 教会での諸問題を経た今、特にキリスト教会の牧師やリーダーを見るとき、私はどんな能力があるかでなく、どんな人格かに注目するようにしている。上目線な言い方かもしれないが、これは非常に大切なことだ。どんなにすごいカリスマ性があって、どんなにすごい「ミニストリー」ができても、教会が大きくても有名でも、その人格に一定の成熟がないなら、「車で煽られたから腹が立った」みたいな理由で人を殺しかねないからだ。

QooQ