自分の替わりがいるというメリット、替わりはいないというデメリット

2013年10月11日金曜日

キリスト教信仰 生き方について思うこと

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・たくさんの種類の仕事と奉仕
 世の中にはいろいろな職業があり、同じようにキリスト教会にもいろいろな奉仕がある。
 職業や奉仕は基本的に、自分の希望とか適性とかに基づいて選ばれるだろう。もちろん何にでも、希望通りにいかないということはあるが。

 職業にしても奉仕にしても、だいたい適材適所的に配置されるのが一般的だと思う。特に教会の奉仕はその傾向がある。例えばピアノが弾ける人は賛美の奏楽をするだろうし、パソコンが得意な人は週報を作ったりするだろう。これを逆にするのは非効率的だし、人によってはストレスにもなり得る。
 職業で言えば、営業向きの人とか事務向きに人とか、技術職向きの人とかいろいろいる。

 いずれにせよ、ある程度「できる」とか「自信がある」とか、「他のよりマシ」とかいう仕事なり奉仕なりをするのが、一般的であろう。

・ほとんどの仕事や奉仕は替えがきく
 そして大多数の仕事や奉仕は「替えがきく」種類のものだと思う。自分がやっていることは、自分と同じような部類の誰かでもできる。
 例えば、礼拝の司会はこれに該当すると思う。決められた流れに従って、ほとんど決まっているセリフを言えばいい訳だから、ある個人でなければできない、ということはない。司会の適性(?)があれば、基本的に誰でもできる。もちろん各人によって面白かったり楽しかったり厳粛だったりという個性はあるけれど、司会という機能は変わらない。

 そういう意味で、ほとんどの仕事や奉仕というのは、替えがきくだろう。「自分でなければならない」ということはまずない。あるいは「AさんよりBさんの方が○○だ」というような評価があって、どちらかというとBさんの方が望まれる、ということはあるかもしれない。
 けれど究極的には、それはAさんでもBさんでも構わない訳だ。中にはAさんの方がいいと言う人もいるかもしれない。

・替えがきかないという勘違い
 しかし時々、この「Bさんの方がいい」を、「Bさんでなければならない」と勘違いすることがある。特に自分自身に対してそうで、「この仕事は自分がいなければダメだ」とか「この奉仕は他の人には任せられない」とか思い込んでしまうことがあると思う。

 定年退職した人が、再雇用契約で仕事を続けるということがある。それ自体は何ら問題ない。けれど、その人が「この仕事は自分がいなければダメだ」と信じ込んでいつまでも最前線にいるとしたら、それは後進の育成を阻害することにもなり得る。

 だからどんな仕事にも奉仕にも、責任を持つのはもちろんだが、替わりがいるという認識を持つのも大切だと思う。

・「替えがきかない」に潜む心理
 私は長い間、賛美の奏楽奉仕をさせてもらってきた。だから多少わかるつもりだけれど、この「替わりがいる」という認識はなかなか持ちづらい。むしろ簡単に、「自分でなければ」とか「まだ任せられない」とかいう間違った責任感を持ってしまいやすい。特に賛美奉仕はそうだと思う。そしてそこには、プライドとか傲慢とかが多分に含まれているような気がする。

 いわゆる悪魔の頭であるサタンも、以前はルシファーという天使で、賛美の長を務めていたという。その彼が堕ちてしまったのは、ひとえに傲慢の故だ。その原因が賛美奉仕とまったく関係ないとは思えない。

 教会によっては、いつも同じ人が賛美奉仕をしている、ということがある。もちろん他にできる人がいないとか、いろいろ事情があると思う。教会のやり方に口を出す気はまったくない。けれど、その奉仕者のことを思うと気の毒にならなくもない。誰か替わりがいればいいのにとか、同じスタイルでやらなくてもいいのにとか、思ってしまう。

・替わりがいることのメリット
 替わりがいることのメリットは、まずは奉仕者が休めるということだ。そして、他の奉仕者がもたらす新鮮さや自分との違いに気づかされることだ。もしかしたら、自分の中に嫉妬心や競争心があるのに気づくかもしれない。そしてそれは決して悪いことでなく、かえって向上心を生んでくれるだろうと思う。あるいはそれは謙遜をもたらすかもしれない。

 とにかく自分の奉仕を一歩引いた立場で見るのは、案外大切なことだと思う(例えば賛美奉仕をいつもしている人の場合、その奉仕をしなくても同じモチベーションで礼拝に臨めるかどうかは、一つの有益な判断材料となる)。

 そういうメリットを思うと、替わりがいないというデメリットは、非常に大きなものに思える。

 賛美以外の奉仕にもまったく同じことが言えるだろう。奉仕を任せる教会側なりリーダー側なりにそういう理解があるとないとでは、奉仕者の意識や成長に、大きな違いが出るのでがないかと私は思う。

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