牧会に限らずだが、失敗してもいいのでは

2013年10月7日月曜日

キリスト教信仰 生き方について思うこと

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 知っている牧師に、「牧会は絶対失敗できない。百戦百勝でなければならない」というようなことを言う人がいた。
 彼はいわゆる「社会経験」のないまま若くして牧師になり、いきなり教会開拓を始めたという。伝道も牧会も相手はほとんど年上で、大変苦労したそうだ。自分の社会常識や聖書知識の不足を痛感したけれど、そんな素振りを見せる訳にもいかない、という意味で「失敗できない」ということらしかった。

(余談)牧師に「社会経験」が必要かどうかという議論が時々あるが、それをするなら「社会経験って何だ」「それがどれくらい必要なんだ」というところから始めなければならないと思うので、今回はさておく。

 彼が言う「失敗できない」を、私は「信徒をつまずかせてはならない」という意味だと解釈していた。つまり、自分の不足の故に信徒をつまずかせるなんて絶対にあってはならない、ということだ。
 聖書は「つまずきが起こるのは避けられないが、つまずきをもたらす者はわざわいだ」(マタイ18章7節・新改訳)と言っているから、そういう気持ちを支持していると思う。特に牧師であれば、殊更注意しなければならないことかもしれない。そういう意味で、真面目な牧師だなと思った。

 けれど彼の行動を見ていると、どうも「失敗」というのは「つまずき」ではないらしかった。
 それよりも、信徒(や他の誰か)に言い負けないこと、論破することにおいて失敗できない、という意味のようだった。特に教理や教会運営については、自分の主張を通さなければ気が済まないように見えた。
 牧会の初めから年配者とか会社の社長とかを「導いて」きたようだから、そうならざるを得なかったのかもしれない。

 
 牧師の牧会スタイルに口をはさむつもりはないけれど、この「失敗できない」というのは窮屈に思えてならない。
 世に失敗できない類の事柄は多々あるだろうけれど、失敗しないということはない。例えば医療業界では、人為的ミスをいかに防ぐかでなく、いかに減らすか、いかに発見するかに重きが置かれている。それは、「人はミスを犯す」という前提があるからだ。
 心理学的にも、「失敗するな」と言われるほど、人は失敗を誘発するようになるようだ。

 また、「失敗とは何か」という話にもなる。「塞翁が馬」の話にもあるけれど、何が幸か不幸かはすぐにはわからない。失敗だと思ったことが、かえって良い結果を生むこともある。もちろんその逆もあるけれど。

 牧会の話に戻せば、本当に避けるべき失敗は「信徒をつまずかせること」だと思う。信徒自身がいろいろな事情でつまずくのは避けられないかもしれないけれど、それを牧師自らが起こさせるべきではないからだ。
 けれど信徒がつまずくのは、私の経験では、牧師の能力の不足によってではない。例えばメッセージが難解だとか、伝道がうまくできないとか、カリスマ性がないとか、車の運転が下手だとか、伝道集会の運営に失敗があったとか、そういうことで信徒がつまずくとしたら、それは牧師の側の問題ではないと思う。それより信徒をつまずかせる唯一の要因は、牧師の人格に尽きると私は考えている。そしてそれは、失敗かどうかという次元の話ではなくなる。

 失敗しないようにしようとか、失敗を減らそうとかいう自己努力は必要だと思う。けれど精一杯やってそれでも失敗したと思ったら、それを認めて素直に謝ればいいと私は思う。それが誠実ということだろう。うまくできないことがある方が、人間らしいのではないだろうか。

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