「踏み絵」をとりあえず踏んでおくか、絶対踏まないか

2013年10月20日日曜日

キリスト教信仰

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 前回の記事で「踏み絵」という言葉を使ったが、関連して思い出すことがあったので書きたい。
 以前ある牧師が、踏み絵についてこんな話をしていた。

 踏み絵を踏んで難を逃れ、後で悔い改めればいい、というクリスチャンが当時は大勢いた。信仰は心の奥にあればいいと思ったのだろう。しかしそれは主に召された者としては失格で、祝福を失ってしまう。踏み絵を踏まなかったクリスチャンこそ、本物のクリスチャンだ。

 その具体例として、こんな話もした。

 当時、東北のかの地にリバイバリストがいて、非常に用いられた器だったが、彼も踏み絵を踏んでしまった。そこで彼のリバイバリストとしての祝福は断たれた。彼は悔い改めはしたけれど、以前のような祝福も油注ぎも、もうなかった。

 どうやらその牧師は、クリスチャンは二種類いると考えていたようだった。普通のクリスチャンと、特別なクリスチャン。そして後者は神様に特別に選ばれていて、決して神様を裏切らず、例えば踏み絵であれば踏まない。けれどそういう存在が過ちを犯してしまうと、いわゆる普通のクリスチャンに堕ちてしまう、というような考え方だ。何となく「ナジル人」を想起させる。
 ちなみにこの「普通」には、「ダメ」というニュアンスが多分に含まれているように思えた。

 しかしこの考え方の背景にあるのは根拠のないエリート意識であり、エリートとして失敗する訳にはいかないというプレッシャーであると思う。それに「悔い改めはしたけれど、祝福を失った」というのは神の許しを無効にすることであり、併せて聖書的でない。
 こういうふうに教え込まれる信徒は、どんなクリスチャン生活を送ることになるだろうか。

 もう一つ、踏み絵の時代に禁教対象にされたのはカトリックであり、踏み絵という方法は「聖像」と大いに関係があっただろう。そのカトリック教徒のことをプロテスタントみたいに「リバイバリスト」と呼ぶのは、違和感がある。歴史認識がおかしいのではないだろうか。

 そういう牧師の変な話は置いておくとして、「踏み絵はとりあえず踏んでおき、後で悔い改めればいい」というのはどう考えればいいだろうか。
 前回も挙げたダニエルの3人の友人たちの例で言うと、「とりあえず金の像を拝んでおこう」ということだろうか。

 しかし「踏み絵」が「主を否定するかどうか」のテストであるのに対し、「金の像」が「偶像を拝むかどうか」のテストであることを考えると、この両者を同列に並べて考えるのは少々無理がある。
 それよりは、ペテロが主を3度否定してしまったことを挙げた方が自然だと思う。ペテロが主を否定した後、どのような回復を遂げたかは、聖書を読む方であればご存知であろう。決して祝福を失った訳でなく、主に見捨てられた訳でもない。

 主のために命を捨てるとか、不利益を被ることも辞さないとか、そういうのは情熱的で一途でカッコよく見えるかもしれない。けれどそういう極端な選択に走る前に、よく考えるべきことがあると思う。

追記)
 カトリックの信仰についてはよく知らないのだが、「リバイバル」という言葉は通常使わないと認識している。もし間違っていたらご容赦いただきたい。

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