何を「断ち切る」べきか。「断ち切りの祈り」について思うこと。

2013年10月22日火曜日

キリスト教信仰

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「家系ののろい」を訴える牧師がいる。いろいろな種類の罪ののろいが親から子へ、孫へと代々受け継がれていくという。早死にののろいとか、一生懸命勉強しても成功できないのろいとか、いろいろあるようだ。
 そういうのろいは「断ち切り」が必要だと、その手の牧師は主張する。

 私の知っている牧師もその説を真面目に信じていた。日曜の度に「主の御名によって〇〇を断ち切る! 断ち切る!」と、怖い顔で何度も怒鳴っているのを見たことがある。

 けれどそういう「のろいの断ち切り」の問題点は、第一に効果を確認できないところにあると思う。
「断ち切った。もう大丈夫」と言われて安心することで、プラセボ的な効果が多少あるかもしれない。けれど同じような問題を何度も起こしてし、その都度「断ち切りの祈り」を受ける人というのが、決して少なくない。「何度も祈らなければ断ち切れないしつこい罪がある」とか言うかもしれないけれど、では「主の御名」はそんなに弱くて頼りないものなのだろうか。
 また「のろいのせいで成功できない」人がいるらしいが、それが本当にのろいなのか、あるいは別の原因なのか、誰にも検証できない。努力しても成功できない人というのはたくさんいる(そもそも何を成功とするかも微妙な話だ)。それに祈ることで成功できるなら、誰も苦労しない。

 第二の問題点は、「すべてをきよめる」はずのイエス・キリストの血潮を無効にしている点だ。「のろい」と思われるような、人間にとって不都合な何かをいちいち断ち切らなければならないとしたら、例えば早死にを断ち切り、不妊を断ち切り、癌を断ち切り、交通事故を断ち切り、糖尿病を断ち切り、いじめを断ち切り・・・というのが無限に続くだろう。それに、どれが家計ののろいなのかなんて、いったい誰にわかるのだろうか。「生活習慣病を断ち切る」なんていうのも、冗談にしかならない。それを断ち切るのは生活習慣の改善以外にないからだ。

 第三に、勝手にのろいと決めつけている点だ。例えば「早死に」とか「不妊」とかがのろいだなんて認識は私にはない。クリスチャンにとっては早死にするほうが祝福なのではと、私などは思う。他にも「成功できない」のがのろいだとしたら、世界はクリスチャンもノンクリスチャンも関係なく、のろわれた人で満ちている。それに成功している人というのは、皆が皆ではないだろうが、それ相当の苦労を重ね、犠牲を払い、研鑽してきた人が多いだろう。そういう苦労を、単純に祈ってスルーさせようとするのはご都合主義ではないだろうか。

 マルチ商法とか新興宗教とかで「ご利益のある壺」を破格の高値で売り付ける話が昔からあるけれど、それとあまり変わらない仕組みをこの「断ち切り」に感じるのは、私だけだろうか。
 それを真面目に信じる牧師も、その牧師や教師たちから教えられたことを鵜呑みにしているだけかもしれない。だとしたらその教えの連鎖こそ、断ち切られなければならないだろう。

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