■反発する信徒は追放され、残るのはイエスマンだけ
私が知っている教会もそうだったけれど、リーダーのやり方に堂々と意見できる信徒というのがいる。大体が反対意見だ。反対されたらリーダーは面白くないだろうし、ミーティングであれば長引くから、周囲からはあまり好まれない。その信徒はただ率直な意見を言っているだけだし、皆がなかなか言えないことを言ってくれる大事な存在なのだが、ともすると「反抗的」とか「不従順」とか思われてしまう。
それでリーダーと決定的に対立するような事態が起こると、修羅場になってしまったりする。そうなると最終的には、その信徒は泣く泣く教会を出て行くことなる(そういうケースは実際にたくさんある)。
本来なら、反対意見は大事にしなければならない。議論を深め、短絡的な結論を避けることができるからだ。なんでもすんなり決まった方が楽だけれど、それは長期的には組織にとって良くない。
そうやってリーダーともめて出て行った信徒というのは、教会側からすれば「追放処分」だ。リーダーも自分を正当化するには、その信徒のことを悪く言うしかない。「彼は不従順の罪を犯し、再三忠告したのに悔い改めなかった」とか何とか。
そういうケースが続くと、信徒の側には「反対してはいけない」「リーダーの言う通りに進めなければならない」という暗黙の了解が形作られていく。これは独裁的教会運営を許す一因となると思う。何故なら率直な意見を言う信徒はどんどん出て行き、リーダーに従順すぎる(あるいは思考停止状態の)信徒だけが残っていくからだ。
この背後には、「従順=何でもリーダーに従うこと」という誤った認識がある。
■では複数リーダー制が良いのか
余談だが、独裁を避けるため、同等の権限を持った複数のリーダーを立てるべきだ、という意見がある。実際そういう形の教会政治の教派がある。それはそれで良いかもしれない。
しかし私自身がそういうリーダーの一人として関わったあるキリスト教団体は、複数リーダー制が奏功しなかったと言わざるを得ない。意見が多すぎて、「船頭多くして船山に登る」的な状態になってしまったからだ。
独裁的教会は意思決定の速さがメリットだろうが、複数リーダー制にはそれは期待できないだろう。もちろん単に時間がかかるだけで、より良い結論を出せるならベストだと思う。けれど何も決まらない、決まっても一貫性がない、というような状態になると、結局何がしたいのかわからない団体になってしまう。
月並みな解決策だけれど、これには組織としての成熟、関わる個人としての成熟が必要だと思う。
テレビや書籍を見ると、多くの民間企業や団体が、この成熟を目指して日々努力を重ねているのがわかる。そうであるなら、キリスト教会や関連団体こそ率先してそれを目指すべきではないかと私は思う。
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