見えない努力は、文字通り見えない

2013年10月19日土曜日

生き方について思うこと

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 いつも責任を追求されはしても、その成果はなかなか認めてもらえない、という職種と状況がある。

 先日、三鷹で女子高生が刺殺され、連日のように大きく報道された。大変いたましく、悲惨な事件だったけれど、併せて報道されたのは警察がどう対応したか、という点だった。事前に(そして事件当日も)本人と家族が警察にストーカー被害の相談をしていたのに、何故あのような事件が起きたのか、何故防げなかったのか、いったいどういう経緯があったのか、というようなことが追求されていた。

 他にも、例えば児童が虐待死してしまった場合、児童相談所は何をしていたんだ、ちゃんと対応したのか、問題を認識していたのか、とかいう話になる。生徒が自殺してしまうと、その学校が追及される。企業が不祥事を起こした場合もしかり。

 もちろん、これは当然といえば当然と言える。何か問題が起これば、その責任者なり担当者なりに対応や責任が求められる。そしてその対応が適正だったかどうかが評価され、問題があると、容赦なく糾弾される。

 けれど冒頭に書いたように、その対応が的確で何も問題が起こらなかった場合、その正しい行いが正しく評価されるというのは、少ないのではないだろうか。
 例えば児童虐待のケースで、児童相談所がその親から子どもを強制的に隔離し、結果的に死に至るはずだった子どもを守れたとしても、それが世間に認知されて評価されるということはまずない。むしろ逆に、親から無理矢理子どもを引き離して本当に良かったのか、本当にその必要があったのかと、外部から無責任な疑問を投げかけられないとも限らない。

 このように、正常に機能しているからこそ何も起こらない、ということがある。関係者が見えないところで必死に努力し、その結果として安全なり何なりが維持されているとして、それが外部に認識されることはあまりない(それで当然だ、という意見もあるだろう)。

 かつて私の知っているキリスト教団体が、財政破綻のため解散に至ったというケースがある。実は財政難はその何年も前から続いていて、関係者らの必死の資金繰りで、何とか回していたと後から聞いた。その団体の活動自体は華々しく、大きなイベントを次々と開催していて、とてもお金に困っているようには見えなかった。それだけに、その突然の破綻は各方面に衝撃をもたらした。

 もちろん、財政難を根本的に解決すべく団体全体で努力すべきだったろう。その点で責任者らの危機意識が問われるのは当然だ。けれど、その中で必死で資金繰りし、何とか団体を維持しようとしていた人々がいたはずで、その努力がまったく無駄だったとは私には思えない(それでも根本的な方向性が間違っていたのは否めない)。その努力のおかげで何年かは活動を続けることができ、その結果、社会に一定の貢献をすることができたのもまた事実だからだ。

 見えない努力というのは、文字通り見えない。けれど見えないから存在しないとか、無意味だとかいうことにはならない。その意味と価値が他の誰にもわからなくても、少なくとも自分自身は知っている。それに満足して見えない努力を続けるのが、大人らしいというか、成熟というか、そういうことなのかもしれない。

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