曖昧な「預言」、恐怖の「預言」、真実の預言。

2013年10月30日水曜日

キリスト教信仰

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「預言」というのがある。簡単に定義すると「神様の言葉を預かって語る」ことだと思う。
 よく「未来に起こることを語る」という意味の「予言」と勘違いされる。字面も似ている。
 確かに「預言」は未来に関することも含むので、完全に間違いではないと思う。けれど「預言」の趣旨は未来の暗示というより、「神様からの励まし」みたいなものだと私は認識している。

 私の所属していた教会はこの預言を重要視していて、礼拝などでもよく語られていた。私の教会だけでなく、いわゆる聖霊派の教会の多くはそうだろう。以前高田馬場の「預言カフェ」が話題になったけれど、あれも同じような流れだと思う(私自身は行ったことがない)。

 預言の是非は教派によって別れるところだろうが、私自身は今もあり得る考えている(絶対に全くない、と断言するのは危険ではないだろうか)。けれどよくよく注意しなければならないとも思っている。

■預言の成就は曖昧でいいのか

 預言は基本的に「成就してナンボ」だと思う。
 例えば使徒の働き21章にアガボという預言者が出てくるが、彼はパウロが「エルサレムでユダヤ人に縛られて異邦人に渡される」と預言して、その通りになった。しかし一方、エレミヤ書27章には多くの偽預言者たちが出てきて、神様の勧めとは正反対のことを預言として語った。結果、彼らは滅びることとなった。

 このように、預言が正しいかどうかの判断基準は「その通りになったかどうか」にあると思う。

 私が実際に見聞きしてきた「預言」の中には、例えば「〇年〇月に〇〇で地震が起こる」とか「〇年〇月に〇〇に裁きの火が注がれる」とかいうのがあった。けれど結局何も起こらなかった。その弁明として、「霊の次元で起こった」とか「〇〇の人々が悔い改めたから回避された」とか言っていて、当時はそんなもんかと聞いていたものだ。
 しかし「霊の次元で起こった」というのは確認のしようがないし、何とでも言えるという点で、曖昧すぎて信憑性の問題がある。「疑うのは不信仰だ」とか言われても、実際に起こるとされたものが起こらず、霊が云々で曖昧にされるのは、やはり本物ではなかったのではないか。

 他にも、「あなたは今まで苦しみを通ってきたけれど、これから新しい季節がやってくる」などの励まし系の預言もあった。これは前述のタイプの預言に比べたら、成就云々はあまり重要ではないだろう。そういう意味で無害な(?)預言ではないかと思う。しかし、「苦しんできた」というのも「新しい季節がくる」というのも、ほぼ万人に当てはまる曖昧なキーワードだ。誰もが何となく当てはまるだろうし、何となく思い当たるだろう。真剣に信じる人は喜ぶかもしれない。そういう意味で、朝のニュースでやっている「占いコーナー」と大差ないような気がする。
 
■人を恐怖させる「預言」は本物なのか
 
 こんな預言もあった。「(会衆に向けて)この中に、今後、左眼に重大な問題が生じる人がいます。とても重大な問題です」
 私はその会衆の中にいたのだが、とても怖かったのを覚えている。「まさか自分ではないだろう」と思ったが、もちろんそんな確証はなかった。時限式の爆弾を他人に押し付けるような気持ちで、「他の誰かに違いない」と必死で思うようにしていた(我ながら愛のない態度だ)。けれど今に至るまで、私にそういう問題は起こっておらず、そこにいた人々に起こったという話も聞いていない。
 
 また、「あなたが〇〇大学で学んでいる姿が見えました」と言われた学生もいた。ちょうど大学進学について考えていたから、タイムリーと言えばタイムリーだったろう。けれど本人としては、「何としてもそこに入らなければならない空気になった」ことが不本意であったのと、「そこに入らなければ良くないことが起こるのではないか」という恐怖があったという。その気持ちはよくわかる(結局その学生は諸事情あって別の大学に入った)。
 
 それらの「預言」が人を励ましたのかどうか、大いに疑問ではないだろうか。
 
■偽預言に注意
 
 聖書は「偽預言者が多く出る」と言っているけれど、まさにその通りだと思う。私たちはよくよく注意しなければならない。前述のエレミヤ書を見ても、預言者と呼ばれた人々の大部分はニセモノだった。それは今も昔も変わらないのではないか。
 
 しかし同時に注意したいのは、ニセモノが多いからと、真実の声にまで耳を閉ざしてしまうことだと私は思う。

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