独裁的教会運営の構造

2013年10月25日金曜日

キリスト教信仰

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 キリスト教会が、そのリーダーの極端な権威主義等により、信徒を心身ともに虐待する独裁的教会となることがある。そこにある構造について、私なりにまとめてみた。

■リーダー(牧師等)による独裁的教会運営の構造

「これは神が願っていることだから、不都合であっても従わねばならない。従わないのは神への不従順であり、不信仰の罪だ」
 そういうリーダーの主張によって、教会の活動方針が決まり、信徒に奉仕が割り当てられていく。信徒は多少不条理に感じても、「御心だから仕方ない」「自分が未熟だから不条理に感じるんだ」「みんな従っているから」とかいうような理由で、結果的に牧師に従う。それが多数を占める場合、従わない者、従えない者はそのコミュニティにいられなくなる。

 この背景には、リーダーが最も神に近い存在で、最も正しく御心をキャッチできる存在だ、と信徒に信じ込ませる心理的誘導がある。信徒は普段から「預言」とか「聖霊の臨在」とか「劇場型礼拝」とかを通して、「リーダーはすごい神の器だ」と思わせられている。これが恒常化すると、信徒はリーダーを疑うことなく信じるようになる。その時点で、リーダーは絶対的な「神の代弁者」である。

 この構造は、16世紀にローマ教会がしたり顔で「免罪符」を発行したのに似ている。聖書を持たない多くの信仰者がそれを信じて購入したのは無理もない。聖書が一般に普及していなかった以上、その真偽を確かめる術はなかったと思われるからだ。

 今日、少なくとも日本では、聖書は誰でも読める。けれど、それでもリーダーの非聖書的・虐待的指導を受け入れてしまう。
 その背後でリーダーが巧みに利用しているのは、例えば「真理の回復」である。「今まで明かされていなかった真理が、私たちの教会で回復している。だからこの○○は一見受け入れ難いかもしれないが、私たちに与えられた特別な真理なのだ。祝福なのだ」
 他にも「終末」が利用されたりする。「世の終わりが近づいた。だから身を引き締めて主に仕えなさい。でないと予備の油を準備しなかった愚かな娘たちのようになってしまう」
 そんなふうに聖書からあれこれが引用され、リーダーへの絶対服従と最大限の奉仕(労働)が補強される。信徒はそうすることで主に仕えていると信じている(そこには信徒の側の思考停止もあると思う)。

■その結果

 そういう独裁的運営は、対外的には成果を出すことがある。これはスピード感のある意思決定や、全員一丸の奉仕によるものだと思う。また良くも悪くも、リーダーのカリスマ性やビジネスセンスによるものだろう。大きな教会へと成長する可能性もある。そして新来者にとっては魅力的だったり、新進的だったり、感動的だったりする。その内部の実情がどうかはまったく別問題だが。

■長期化すると

 そういう教会の発展が長期化したり、動かす人やお金が増えたりすることで、綻びが生じやすくなる。というのは古い信徒ほど疲弊していたり疑問を抱いていたりして、何らかの行動を起こしやすくなるからだ。リーダー自身が決定的な問題を起こすこともある。

 もしリーダーが明確に罪を犯し、それが発覚し、もはや言い逃れできない状況になったとしても、そこで観念しないことがある。そういうリーダーは言う。「私にも悪い点はあった。けれどそれを許さないあなたがたは明らかに聖書に反している。あなたがたこそ悪霊の影響を受けている」
 逆ギレというか、逆裁きというか、そういう理屈で自身を正当化する。そこには悔い改めもなく、告白もなく、罪の償いもない。
 中にはリーダーを相手に訴訟を起こすケースもある。けれどそれで有罪判決を受けたとしても、引き下がらないリーダーはいる。そういうリーダーは言う。「これは悪魔の策略だ。正しい者が迫害される時代が来たのだ」そして信徒を少しでも自分の味方にしようとする。

■健全化するには

 現在の私にはこの項目を書くことはできない。けれど聞いた話によると、独裁的傾向の強かった教会が、何かのキッカケで悔い改めと構造改革に至ったという。もちろん他にも解散に至ったケースや、大分裂したケース、リーダーが替わっただけで体質が変わらなかったケース等あると聞いている。ケースバイケースという気もするが、私が一つだけ明確に言えるのは、解散に至るほどのインパクトが起こらなければ何も変わらない、ということだろう。

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