「教会探し」は悪いことなのか

2013年10月28日月曜日

キリスト教信仰

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■「教会探し」について思っていたこと

私が所属していた教会だけかどうかわからないが、割と人の出入りが多かったように思う。もちろんレギュラーメンバーはいるけれど、新しく来る人も多く、出て行く(というか来なくなる)人も多かった。数週とか数ヶ月とか数年とかいうスパンで、そういうことが繰り返されていたように思う。

 私はもともと、「教会探し」を良く思っていなかった。一箇所に定着して落ち着いた信仰生活を送るのがベストだと思っていたし、いろいろな教会を巡ることで選り好みが強くなり、結局一箇所に決められなくなると思っていたからだ(現在はそれとは若干異なった視点を持っている)。

 実際、新来者の方と話してみると、「教会探し」を長年している人が多かった。方々の教会を巡った末に私の教会に辿り着き、そしてまた出て行った、という人は数え切れない。
 もちろん進学とか就職とか転勤とか家族の都合とかで引っ越さねばならないケースはあるし、諸事情あってそうなったケースもあるだろう。けれどその後も延々と「教会探し」が続くとしたら、その人の信仰生活(あるいは教会生活)がどのようになっていくのか、他人事ながら心配ではあった。

 しかしそういう私が通うべき教会を失い、どうすべきかと困惑した時になって、初めて「教会探し」の真の気持ちを体験できたように思う。しかも私のそれは決して積極的・肯定的なものでなく、喪失感と失望感に偏ったものだった。だから(教会というものに対する)基本的な信頼感から始めなければならなかった。そしてそれは今尚続いてる。

■信頼感の欠如がもたらすもの

 信頼感というのは、ある程度ルーチン化された日常生活の中では意識されないものだと思う。それは人の行動の土台だし、それなしには何もできないくらい、当たり前にあるべきものだからだ。
 例えば朝起きた時、世界が昨日とまったく同じ法則で今日も動いていると信じられなかったら、気軽に外出できない。財布に入っている千円札で本当にコンビニ弁当が買えるのかと疑っていたら、買い物もできない。

 それと同じような理屈で、「教会は○○なところだ。だから自分の人生を預ける価値があるのだ」という信頼感がないなら、どうして一つの教会に決められるだろうか。それは「ここの教会はこう」「あそこの教会はこう」というランク付けという意味ではない。教会の良し悪しとは全く関係ない、というかそれ以前の問題だと思う。そこにある心理は「教会につながるべきだと思う。でも怖くてできない」というようなものではないか。少なくとも私はそうだ。

 信頼感の反対側にあるのは、恐怖感であろう。

 そういう視点で冒頭の「教会探し」を見てみると、また違った意味が見えてくる。もちろんそこには単純な選り好みもあるかもしれないが、「何を信じたら良いのか」「本当にこの教会は信頼できるのか」という苦悩というか、葛藤みたいなものがあるように思う(教会からしてみれば失礼な話だろうが)。

■「教会探し」について今思っていること

 教会探しをどうしたらいいのか、そもそも教会とは探すものなのか等、今の私にはわからないことばかりだ。信頼感の回復には相当の時間がかかるような気がする。

 一つの教会しか知らず、そこでずっと過ごす、というのが良いのかもしれない。けれどその教会に致命的な問題が隠れていて、気づかぬうちに蝕まれていくとしたら悲劇ではないか。
 いろいろな教会を渡り歩くことで何らかの判断基準を模索しようとするのは、放浪者のようで安定を欠いているのかもしれない。また教会をランク付けするような傲慢に陥りやすいかもしれない。けれど「本当にこれでいいのか」と絶えず自問するその姿勢だけは、決して間違っていないと思う。

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