2013年5月30日木曜日

奪われないとその存在がわからないもの

 日本で「チャーチスクール」が登場しだしたのは、西暦で言うと2000年前後であろう。2001年の秋、私の教会でもチャーチスクールが始まった。
 当時、子どもがちょうど学齢期に達した私は、チャーチスクールか公立学校か、選択することとなった。そして私はチャーチスクールを選択した。

 当時に戻れるとしたら、私は公立学校を選択するよう当時の自分を説得するつもりだ。
 が、当時は当時で、最善の選択をしたつもりだったのもまた事実である。

 当時の自分を分析してみると、積極的にチャーチスクールを選んだというより、公立学校を避けたかったという気がする。チャーチスクールがどんなものなのか、牧師の話から想像するだけだったから、それも当然だろう。それに、自分自身も公立学校に良い思い出がなかった。

 私は小学校から高校まで公立で過ごしたが、何が一番嫌だったのか突き詰めて考えてみると、自由がなかったことではないかと思う。

 公立学校は基礎学習の他、規律とか集団行動とかを身につけることに重点を置いているのだから、自由がないのは当然と言えば当然である。しかし(自分も含めて)子どもというのは未熟なものだから、それを「束縛」とか「没個性」とか、殊更に悪く思ってしまうのかもしれない。もちろん公立学校そのものの問題とか、教師との関係あるいは同級生との関係の問題もある。

 私のチャーチスクールは、そういう公立に反発してかどうかわからないが、子どもの自由を尊重する雰囲気があったと思う。もちろん規律を守らせてはいたが、少人数だったこともあり、その「厳しさ」は公立からしたらかなりユルい。子どもたちはさぞ自由であったろう

 が、それが良いかどうかは別問題である。
 今、チャーチスクールで育ってきた子どもたちを見てみると、それがわかる。
 その現れは子どもによっていろいろで、例えば考えが甘いとか、軟弱だとか、非社交的だとか、若くして頑固だとか、諸々ある。
 しかし、それは結果的なことで、公立で育った子たちにも同じような問題はある。
 そういう枝葉末節はさておき、私がチャーチスクールで育った子たちを見て一番問題に思うのは、自由が何なのかわかっていないということだ。

 これは極論かもしれないが、公立学校で規律を守らされ、一定の自由を奪われた状態というのを通らなければ、自由のありがたさはわからないのではないだろうか。
 これは私たち日本人が、平和であることを殊更に認識することがないのに似ているかもしれない。

 もちろん、公立学校で重いダメージを受けて苦労する子もいるし、チャーチスクールで伸び伸び過ごせて自分自身を取り戻す子もいる。以前書いたように、どんな教育が子どもにとって良いかはなかなかわからない。

 ただ、公立学校を「個性が奪われる」とか「集団行動ばかりで意味がない」とか批判する前に、そこで受けられる恩恵について認識する必要があるのは確かだ。

 奪われてみないと、認識することはできないかもしれないが。

追記)
 教会のカルト化問題の掲示板を見ると、「チャーチスクールをやってる教会はカルトだから、そこで育ったのはみんなカルト。クリスチャンなんて呼べない」というような意見があるが、何を根拠にそう言うのか聞いてみたい。私はチャーチスクールもクリスチャンの若者たちも批判的に書いてきたが、その反面で、若くて立派なクリスチャンも大勢いると認めている。そんな偏狭なことを言う人間こそ、クリスチャンとは呼べないような気がする。

家族のために「祈る」前に、すべきことがある

 クリスチャンにとって重要なテーマの一つは、「家族の救い(入信)」であろう。

 自分が信じる神様を家族にも信じてほしい思うのは、クリスチャンであれば当然のことだと思う。同じ神様を信じて幸せになってほしいし、信じれば死後に天国に行けるからだ。
 また実際的にも、結婚式や葬儀なんかで家族が同じ宗教だと都合が良い。それに聖書も使徒行伝16章31節で、「イエスを信じれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言っている。

 そういう訳で、クリスチャンは自分の家族もクリスチャンになることを願う。

 それは全然悪いことでない。
 が、そのために教会で行われる事柄に、私は疑問を感じている。

 家族の入信のため、まず教会が手っ取り早く採択する方法は「祈り」である。
「家族が救われるために祈りましょう」
 次に伝道である。これは聖書の話を家族にすることだ。が、身内がしても説得力がなかったりするので、牧師やリーダーが駆り出されることもある。

 この2つを延々と繰り返す訳だが、なかなか入信しないのが一般的であろう。30年、40年かかったという話もよく聞く。

 そんなにノンビリしていられないと痺れを切らした教会が、「霊の戦い」という方法を採択することがある。
「家族が救われないのは、悪霊が彼らを縛っているからだ。悪霊を追い出さなければならない」
 という訳でさらに激しく長時間祈ったり、よくわからない「預言的アクション」に走ったり、その家を「清め」に行ったりしだす。家族を悪魔扱いしているようにも見える。

 そこまで極端でないにしても、熱心なクリスチャンほど、そういう方向に走りがちだ。
 が、その方向性は根本的に間違っていると私は思う。

 奉仕に熱心なクリスチャンの方々を私は尊敬するけれど、その結果忙しくなってしまって、家族との時間を持てなくなる、ということがある。
 彼らは「家族との時間も神様に捧げます」と主張するかもしれない。聖書の「わたし(イエス・キリスト)のために家族を捨てるものは…」という箇所を強調するからだ。が、それは「あなたの父と母を敬え」を忘れてしまっているような気がする。

 例えば若いクリスチャンが普段から教会で忙しくしていて、「母の日」に母親に電話一本かけられないとする。母親はいろいろ愚痴るかもしれないが、もちろん子どもに対しては理解を示すだろう。が、教会とか神とかに対しては、「人を忙しくさせ、家族の関係を希薄にするもの」というような悪い印象を持つのではないだろうか。
 そうだとしたら、神様に対して良い感情なんて持てるはずがない。いくら周りが祈っても伝道しても、心を開かないだろう。それでも30年、40年かかって神様を信じるなら、不幸中の幸いというものだ

 もちろん祈りも伝道も重要だと思う。
 けれど、それと同じかそれ以上に重要なのは、家族を実際的に思いやり、大切にすることだと思う。それはキリストが最重要と言う隣人愛でもある。
 例えば電話一本、手紙一通、あるいはほんの一声だけなら、どんなに忙しくても、気持ちさえあればできる。それに、それだけでも十分に気持ちは伝わる。
 そういう家族を大切にするクリスチャンの姿を見せてこそ、「キリスト教も悪くないかも」と思ってもらえるのではないだろうか。

 そんなわずかなこともできないで、「今は牧会が大変だから」とか「大きな集会の準備があるから」とか「これこれの働きが今最優先だから」とか、本末転倒もいいところだ。まったく何も見えていないとしか思えない

 かく言う私もそういう人間だったので、反省しなければならない。

 今年の母の日は、ささやかながら贈り物と食事の招待をさせていただいた。クリスチャンになって20年近くなるが、やっと母を、少しだが安心させることができたような気がする。

2013年5月28日火曜日

底辺って何だろう…

 コンビニでバイトしている知人がいて、自らを「底辺」だと言っている。

 ただ自虐的にそう言っているだけだろうと思ったが、その知人いわく、コンビニで働くというのは、一般的に底辺なのだそうだ。

 私はそんなふうに考えたことがなかったので、驚いた。が、(少し調べてみただけだが)どうやら世間一般にそういう認識があるらしい。ショックだった。
 コンビニでのバイトを底辺とする理由は、どうやら次のようなものらしい。

・最低賃金からスタートする時給
・誰にでもできる仕事
・社会貢献度が低い

 他にもあるかもしれないが、とにかく上記のどれを見ても、何故「コンビニバイト=底辺」となるのかわからない。
 なぜなら、最低賃金のバイトなんて他にもいくらでもあるだろうし、おそらく9割以上の仕事は、能力的には誰にでもできる類のものだからだ。
 それにコンビニバイトが社会貢献できていないなら、ほとんどの社会人は貢献できていないのではないだろうか(そもそも、仕事で社会貢献する必要なんてないと思う)。

「たかがコンビニバイト」とバカにする人たちが一体どんな立派な仕事をしているのか、伺ってみたい
 期待を裏切らない答えであればいいのだが。

 近所のコンビニで、ほとんど毎日、夜勤をしている男性たちがいる。
 ある朝、帰り際の彼らの話が何となく聞こえてきた。それらを総合すると、どうやら彼らはフリーターで、趣味はネットゲームのようだ。年齢ははっきりわからないが、30代くらいかと思われる。
 彼らのことを「就職もしないで何してる」と批判する人がいるかもしれないが、私は立派だと思っている。なぜならもう何年も、そこで働いているからだ。

 働いた経験がある人ならわかるだろうが、年単位で同じ場所で働き続けるというのは、そんなに簡単なことではない。なぜなら仕事も人間関係も生活も、ある程度円滑にこなし続けなければならないからだ。そして、それができない人が多いからだ。

 コンビニバイトとかフリーターとかを何故「底辺」と言うのだろうか。年収だろうか。労働内容だろうか。どんな仕事かよりも、まっとうに働き続けられるかどうかの方がよっぽど重要ではないだろうか。コンビニバイトというだけで底辺とか言うのは、ナンセンスだと私は思う。

 近所のコンビニの彼らは、さほど不満を持って生きているようにも見えない。実際どんな暮らしなのかわからないが、日々の責任を果たしつつ趣味や生活を楽しんでいられるなら、何も責められることはないだろうと思う。
(もっとも、フリーターを続けるなら、社会保障や老後について真剣に考える必要があるとは思うが。)

「底辺」という言葉が使われる背景には、その反対の、「上辺」とでも言うべき立場に対する嫉妬や劣等感があるような気がする。
 もちろん現代社会は平等ではない。いろいろな差別や格差がある。多くの人が、より良い社会や生活を願っているだろう。
 が、ある人たちを指差して「底辺だ」とバカにする人たちこそが、その実現を邪魔する大きな原因だと私は思っている。

2013年5月27日月曜日

礼拝は長い方が良いのだろうか

 先日、久しぶりにペンテコステの礼拝に出席した。

 昨年までの約20年間、ペンテコステの礼拝を続けていたが、しばらく遠ざかっていた。およそ半年ほどのブランクだろうか。

 馴染みのスタイルのはずだが、非常に長く感じた。時間をみると2時間半程かかっていた。そういえば母教会では、3時間から4時間かかる時もあった。ペンテコステ系がどこもそうという訳ではないと思うが。

 今現在、私は主にバプテスト系の礼拝に出席している。そこはだいたい1時間程で終わっている。それが自然に感じられるようになっているから、余計に長く感じたのかもしれない。

 多少不謹慎ではあるが、長い原因を考えながらの礼拝だった。私の分析によると、ペンテコステの礼拝が長くなる原因は賛美礼拝と祈りにある

 賛美礼拝におよそ40~50分かけている。曲数は全部で5、6曲だから、1曲にかける時間が長いのがわかるだろう。恐ろしいくらいに繰り返している。サビなど何度歌うかわからない。それに、曲間も長い。「霊歌」とか「フリーワーシップ」とか言うが、次の歌が始まるまでのしばらくの間、人々は祈ったり、自由にメロディをつけて歌ったりしている。下手すると(?)それだけで5分以上かかる場合もある。

 そして祈りである。これも非常に長い。何をそんなに祈っているかと言うと、同じようなことを回りくどく表現しているように思える(もちろん人によって違うが)。マタイ6章7節の「くどくどと祈るな」に反しているような気がしてならない。

 メッセージが長くなるのはおそらく、教派の違いというより牧師の嗜好であろう。

 基本的に、礼拝の時間は長くても短くても構わないと思う。神様に捧げるものなのだから、自分の好みにこだわるというのもおかしな話だ。

 が、以前の記事に書いたように、長い賛美礼拝で「主の臨在」を感じようとするのは、脳波の変化や脳内麻薬の分泌の影響を考えると、手放しで肯定することができない。また長い祈りに関しては、上記の聖書の言葉について、よく考えてみる必要があると思う。

 また、礼拝時間が2時間にも3時間にも及ぶのは、それだけ信仰的だとか神様を愛しているとか主張する輩がいるかもしれないが、それは単純すぎるだろう。短い礼拝は礼拝ではないという話にもなってしまう。

 また長い礼拝は、高齢な方や乳幼児を持つ方に負担を強いる、配慮のない行為ではないだろうか。
 それに1時間近く歌ったり踊ったりしているのが、私には何となく、クラブで音楽に合わせてユラユラしている若者たちの姿にダブって見えてしまう。気のせいだろうか

 もちろんペンテコステの礼拝を否定する気はない。神様は心からの捧げ物を喜ばれるから、長さも形式も関係ない。

 礼拝の中でそういう疑問を持ってしまう私の方こそ、心からの礼拝を捧げられていないというものだろう。

2013年5月26日日曜日

継続できないなら、始めるべできはない

 何年か前に、韓国のソウルを訪問したことがある。
 観光でなく、教会研修としてだった。ソウル市内には無数の教会があるが、比較的大きな4つの教会を見させていただいた。どれも日本では考えられない規模であった。

 その期間中、ある教会の主任牧師に、タイミングよく会うことができた。
 なかなか会えない人らしく、「たいへん貴重なことですよ」と言われたのをよく覚えている。
 その主任牧師と話したのは15分くらいだったと思う。こんなことを言っていた。

「韓国人は何でも始めるのが得意だが、継続するのが苦手。
 日本人は始めるのが苦手だが、継続するのは得意。
 韓国人と日本人が一致協力すれば、とても良い働きができる」

 当時はそうかと納得していた。確かに、知り合いの韓国の方々は積極的で行動力がある。
 日本人はどちらかと言うと、引っ込み思案な人が多いかもしれない(もっとも、それは国民性の違いの話であって、すべての韓国人と日本人に適用できるものでは、もちろんない)。

 が、日本人の継続力というのも疑問である。
 私の今は亡き母教会を見てみても、何かを始めても長続きしないということが多かった。
 例えば先日書いた「地域を縛る悪霊を追い出す祈り」というのも、教会の使命だとか言いながら短期間しかしていない。また海外からゲストとかが来て、例えば「いやし」にフォーカスが当てられると「いやしのために祈ろう」と言い出し、「家族」にフォーカスが当てられると「家族の回復だ」と言い出す。
 そういうメンタル的な事柄ならまだいいかもしれないが、たとえばスポーツ教室とか、楽器教室とかいう、人とお金にかかわる事業が継続できないのは大問題だろう。何も知らないで利用する一般の方々からしたら、「教会ってずいぶんいい加減だな」という話になってしまう。

 どれも長続きしないというのは、ムーブメントに乗っかっているだけなんだと思う。

 継続することの重要性を、つくづく思う。
 知り合いの若者にも、就職したり進学したりしても何ヶ月かで辞めてしまう子がいる。理由を聞くと「何か違うと思った」とか「他の道に導かれた」とか言う。
 が、職場にしても学校にしても、何ヶ月かでわかることなんてタカが知れている。良い面もあれば悪い面もある。その時期によって違う面を見せることもある。順調な時もあれば、困難な時もある。「石の上にも三年」と言うが、長く続けているからこそ見える風景があり、言える言葉がある。
 それをほんの数か月で「見切った」と言うのは傲慢というものではないだろうか。

 教会あるいはクリスチャンであるなら、「継続」することに誠実であるべきだと思う。
 特に「神様に語られて」何かを始めるのだとしたら、簡単に止めてほしくない。困難な時も、自分が飽きた時も、誰もいなくなった時も、あくまで続けてほしいと思う。それを「神様に止められた」と言うのなら、始めるときに「神様に語られた」ことを再確認すべきだ。神様のせいにしてはいけない

追記)
 もちろん何にでも、始まりと終わりがある。一定の期間や成果を得て後、それを終えるにふさわしいタイミングというのはある。どんなことでも始めたら絶対にやめてはいけない、という極端な話をしているのではない。

2013年5月24日金曜日

歯止めのきかない拡大志向の恐怖

「僕は上昇志向が強い」とMはよく言っていた。
 そのせいか、私は「上昇志向」という言葉が嫌いだ。

 もちろん、上昇志向そのものは悪くない。
 より高い次元を目指すことは、決して悪いことではない。
 教育の手法としても、容易な目標でなく少し背伸びしないと達成できない目標を与えた方が、成長率が高いと聞く。
 が、その状態が長く続くとしたら、話は別だ。

 Mの事業の歴史を見てみよう。
 2001年、チャーチスクール開校。
 2007年、神学部開校。
 2009年、「祈りの家」開始。
 2010年、NPO法人取得。
 2011年、東日本大震災の被災地支援開始。
 2012年、テレビ局開局に乗り出す(が、4月に不正がバレて失踪)。
 

 Mのそれは、上昇志向というより、拡大志向と言った方がいいような気がする。

 2010年から、彼の異常さが如実に現れはじめた。
 この年に「祈りの家」が本格始動したが、同時にスポーツ教室、楽器教室、カフェ、デイサービス、就労支援事業を次々と興した。
 が、スタッフの数はほとんど増えていない。ではどうやって回したかというと、スタッフに兼任させたのだ。チャーチスクールで奉仕し、スポーツ教室でも教え、楽器教室でも教え、カフェ店員もやり、「祈りの家」でも奉仕する。そしてそういう状態のまま、2011年3月からの被災地支援活動に狩り出された。

 他のスタッフがどう感じていたかわからないが、私は非常にストレスだった。働きたくなかったからではない。何一つ、じっくり取り組めなかったからだ
 Mの「これもやろう、それもやろう、あれもやりたい」に延々と振り回され、どんどん増えていく異業種の事業に、自分自身を分散させていくしかなかった。
 結果、どれも中途半端だった。

 が、Mは「どの分野もプロを目指せ」とよく言っていた。しかしそんな分散された時間でプロになろうなんて、プロの方に失礼だ。一つのことに多くの時間を費やし、何年もかかって修練するのが筋道というものだろう。
 それでもMは、「祈りと聖霊の満たしによって、私たちは不可能を可能にしていく」とか、もはや精神論な主張を繰り返すばかりだった。

 やり方は悪かったかもしれないが、結果が良ければいいじゃないか、と言う人もいるかもしれない。
 しかし残念ながら、何一つ結果を残せていない。スポーツ教室も楽器教室もカフェも、結局回せなくなって消滅した。デイサービスなどは指定を取っただけで、まったく手つかずのままだ。テレビ局は名刺とホームページがあるだけで、実態のない幽霊会社。もはや詐欺のレベルだろう。

 Mという人間は、次々とオモチャを変えたがる子どもみたいなものだったような気がする。

 それは見た目は拡大志向かもしれないが、一つ増やす度に既存の一つを壊してしまう、まったく意味のない拡大モドキだ。

 そういう歯止めのきかない拡大志向は、もはや人格障害のレベルだろう。
 そしてそういう人間がリーダーであることが、そもそもの間違いだったと私は思っている。
 リーダーの責任は重い。非常に。

2013年5月23日木曜日

夜中に神社仏閣に集まるクリスチャンたちの悲しさ(?)

 
「地域を縛る悪霊」が存在する、という説がある。
 どれだけの教会がそれを信じているか知らないが、私の教会は信じていた。

 実例を挙げるとこうだ。
 教会での伝道集会や、様々な個人伝道を繰り返しても、人々がなかなか入信しない。それはその地域が悪霊に縛られているからだという。その悪霊を追い出さない限り、その地域の人々は解放されず、福音(聖書の話)に対して心が開かれない。だから伝道の前に、悪霊の追い出しが必要だ、ということになる。
 それで牧師らが一生懸命に祈った結果、その地域のどこが悪霊のスポットなのかがわかる(だいたい神社とか寺とかだ。そんなこと祈らなくても想像がつくだろうが)。それで祈りのチームが実際にそこに行き、悪霊追い出しを祈ったり、命じたりする。
 行った人たちの感想を聞くと、だいたい「はじめは重く感じたけれど、祈ったら軽くなった」とか「祈ったら打ち破りを感じた」とか「ブレイクスルーが起こった」とかいうようなことを言う。

 悪霊の存在は聖書に書かれているし、私もそれが存在すると信じている。
 聖書はまた、悪霊たちが大勢いて、ある程度の階層社会を構成していること(マタイ12章25~26節)、それぞれに住む地域があること(マルコ5章10節)を示している。またイエス・キリストやその弟子たちが、人々に憑りついた悪霊を追い出す場面も複数書かれている。

 という訳で、上記の実例がまったく荒唐無稽なこととは言い切れないと私は思っている。

 が、それでも私が問題に思うのは、それが「感覚頼み」だという点だ。

 悪霊のスポットが地域の神社仏閣だというのは、あまりに短絡的というものだろう。が、否定しきれない。確かに悪霊がいっぱいいそうな気がするし、夜などはオドロオドロシイ雰囲気だから「重たく」感じる気もする。
 私も実際にその祈りに行ったことがあるが、例えば「この寺の、この木のこの部分が特に重い。ここが祈りのポイントだ」みたいなことを、牧師が真顔で言う。言われた私は何にも感じていないのだが、そう言われればそんな気がしてくる。それで真剣に祈り、祈った後もやっぱり何にも感じないのだが、牧師が「これで天が開かれた。ハレルヤ」とか言うので、私も「アーメン」と答えてしまう。

 神社仏閣ならまだわかりやすいが、時には何の変哲もない川やら山やらが「祈りのポイント」に指定される。「ここは歴史的に重要な場所だ」とか「霊的に重要な場所だ」とかいうことで、皆で祈りに行く。
 恥ずかしい話だが、私はそういう場所に行っても本当に何も感じておらず、しかしそれを表明することもできず、「確かに何かあるようですね」などと言ってしまっていた。

 これは推測だが、私と同じように「感じているフリ」をしている信徒は他にもいたと思う。

 しかし今思うと、そうやって牧師が指定する「悪霊のスポット」や「祈りのポイント」が、事実であると検証する方法はない。牧師が「御霊に感じた」と言っているだけだ。が、「それは本当ですか」と言う勇気は信徒にはないし、仮に言えたとしても、「それはあなたの霊性が低いからだ」で終わってしまうだろう。下手すると不信仰呼ばわりされたり、礼拝やミーティングの場で公開処刑されたりするかもしれない。

 私は「場所」に関する悪霊の存在や祈りの必要を全て否定する気はないけれど、そういう「感覚頼み」の事柄が蔓延して否定できない雰囲気になっていくのは、明らかに問題だと思っている。
「皆が感じているみたいだから私も感じないと」みたいな強迫観念は、信仰とは何の関係もない。ただの信仰ゴッコだ。

 いい大人が夜中に神社仏閣に集まって、何やら祈っている。
 それが感覚頼みの茶番だとしたら、これほど悲しいものはないと私は思う。

2013年5月22日水曜日

教会員であるかないか、でなく、どんな教会員であるか

 母教会の解散以降、私はまだどこの教会員にもなっていない。
 知り合いの教会の日曜礼拝に出席させてもらうだけで、教会活動からも離れている。
 心配して声をかけて下さるクリスチャンの方々もいて、大変感謝である。

 彼らは口々に、「しばらく休んだら、まだどこかの教会に属したらいい」と言って下さる。
 私もそうだとは思うのだが、それにはまだ時間がかかるような気がしている。

 クリスチャンは教会員であるべきなのか、どうか。
 私個人は、特段の事情がなければ教会員であるべきだと思っている。が、無教会主義の方とケンカする気もないので視点を変えたい。

 教会員であるべきかどうかもさることながら、教会員としてどうあるべきかも大切だという視点だ。

 多くのクリスチャンは、教会で奉仕する羽目になるものだ。が、やっているうちに奉仕で忙しくなってしまうことが少なくない。これは極端な例かもしれないが、奉仕が忙しすぎて礼拝どころでなくなるとか、個人的な祈りの時間や聖書を読む時間を取れなくなるとか、そういう本末転倒なことは起こり得る。

 私も奉仕に忙殺されていたからよくわかる。
 例えば「主との交わり」について子どもたちに教えるため、いろいろ準備する。が他にも奉仕があるから、結局自分の「主との交わり」の時間を削って準備する羽目になる。すると、子どもたちには「主との交わりを第一にすべきだ」と教えながら、それを実践できていない自分自身を発見することになる。
 それは偽善というものだろう。

 そんなふうに、教会員として良かれと思って始めたはずが、いつの間にか神様から離れる結果になる、ということがある。
 そうであるなら、教会員であることがその人にとって益なのかどうか、疑問ではないだろうか。

 あるいは、それは単に奉仕のバランスが悪いからか、そのクリスチャン個人の問題であって、教会員であるかどうかは関係ない、と言うかもしれない。
 が、奉仕のバランスにしても信徒の教育にしても、やはり教会員とは何かという、その教会の根本について話し合わなければ解決できないような気がする。

 熱心に、忠実に教会に仕えておられる教会員の方々を、私は本当に尊敬している。
 と同時に、教会員であることに安心するのでなく、日々その在り方を問うことのできる方々を心から尊敬している。
 そういうバランスの取れたクリスチャンが、これからの教会には絶対的に必要なのではないかと私は思う。

2013年5月21日火曜日

牧師批判はいけない、という平和ボケ

 ネットには牧師批判、教会批判が少なからずある。
 根拠を挙げた真摯な批判もあれば、品性ゼロの罵詈雑言もある(それは誹謗中傷であって批判ではないだろうが)。
 それだけおかしな牧師が多いのか、あるいはおかしな信徒が多いのか、ということだろうか。

※ここで私が言う「批判」が、全否定や攻撃や中傷を意図したものではないことは最初に断っておく。

 一方で、牧師や教会を批判してはいけない、という声もある。最近読んだあるクリスチャンのブログには、「リーダーたちを何があっても批判し、裁くことはやめましょう」というコメントがあった。

 そういう牧師批判を否定する根拠として、ヘブル13章17節が引用されることがある。要約すると、「指導者に従いなよ。彼らはあなたのために一生懸命やってるんだよ。だから喜んでできるようにしてあげなよ」ということである。

 が、これが牧師批判とどう繋がるのか、私にはよくわからない。

 くわえて、聖書を一節だけ取り上げて何かを主張するのは、曲解につながるので危険だ。
 上記の箇所は確かに「指導者に従え」と言っているが、マタイ7章では「ニセ預言者たちに気をつけなさい」とも言っている。彼らを見分けることの重要性も書かれている。
 そうやって聖書の関連箇所を読んでいくと、「従え」というのが「何でもかんでも従え」という意味でないことがわかる。

 そして何でもかんでも従うのでないということは、時には指導者に対してNOと言うこともある、ということだ。

 ある牧師がいて、「私は牧師であり神の代理人であるのだから、私に絶対従いなさい」と言うとする。
 それで理不尽なことを命じられた信徒が、「先生、それは理不尽では」と答える。
 すると牧師が「私に逆らうことは神に逆らうことだ」と烈火のごとく怒る。

 冗談っぽい話だが、これと本質的に同じことはけっこういろいろな教会で起こっている。

 この場合、信徒にできる最大で最善の行動は、(単なる非難でなく)批判ではないかと私は思う。
本人に直接言ってもダメなら(その可能性が高い)、本人に影響を与えられる方法を考えて、やるしかない。
 もちろん、黙って去る方がいい場合もあるかもしれない。

「批判してはいけない」という意見は意見として尊重するが、あまりにも了見が狭いと言わざるを得ない。それに聖書知識も社会経験も、人間理解も不足していると思う(私自身もそれらを十分に満たしているとは思っていない)。

 批判するなと言う前に、日本のみならず多くの国が政党政治を導入している、その理由を考えてみるべきだ。
 また、絶対に批判されない権力がどれだけ危険なのかも考えてみるべきだ。
 そして、人間がどれだけ弱く、罪深いかも併せて考えてみるべきだと私は思う。

 そうすれば、一生懸命やっている人たちを批判しちゃいけないよ、なんて平和ボケなことは言えなくなるのではないだろうか。

追記)
 その某クリスチャンは同じコメントの中で、牧師を批判し裁くのは神様が決めること、と言っている。
 つまり牧師の問題行動でどれだけの人が傷つき、教会を離れることになったとしても、ただ傍観しているべきだということだろう。

2013年5月20日月曜日

恐怖に縛られた教会生活をしていないか

 教会に属するクリスチャンにとって、その教会の牧師との関係は、大切なものだと思う。教会生活だけでなく、今後の人生にも大きく影響するのではないだろうか。

 牧師と信徒との関係は、基本的に両者の人格によるだろう。が、根本的な教会組織の在り方も、影響している。
 例えば牧師を「牧師先生様」と敬い、講壇をも神聖視してしまうような教会風土だと、牧師と信徒の関係は、王様と召使いみたいになり得る。が、逆に長老制の教会だと、牧師との関わりは非常に薄いものかもしれない。そういう教会組織が自ずと作り出す「牧師―信徒関係」というのはあるだろう。

 そのうえで、牧師と信徒との関係というのは、互いの人格の相互作用によって決まっていくと思う。その関係の種類は無数にあるだろうし、いろいろな形があっていいと思う。けれど、その関係が健全なものかどうかは、十分注意しなければならないと思う。

 ここで、牧師との関係をチェックする上で、信徒にできることを一つ書きたい。

 それは、自分の中に「おそれ」があるかどうかを確かめることである。

 元牧師のMは、人を恐怖で縛るタイプだった。これはなかなか伝わりにくい事態かもしれないが、Mと親しくなればなるほど、信徒は彼を恐怖するようになる。
 そういう信徒が何かしようとする時は、Mがどう言うか、どう評価するか、怒るか怒らないか、といったことが基準になってしまう。Mに気に入られれば良し、そうでなければ、何がなんでも改善しなければならない。

 そういう光景を何度も見てきた。信徒どうしリラックスして話している時、Mが部屋に入ってくると、突然緊張が走る。Mが何か言うと、そこにいる全員が注意してそちらを見る。Mの前で何か失敗すると、異常に慌てふためく。
 
 協力牧師Gの話をまた出すが、彼が礼拝中にあるアナウンスをしていた。途中まで言いかけたところ、Mにキッと睨まれて、見事なまでに前言撤回したことがある。彼はMの顔色をずっと伺いながらしゃべっていたのだ。
 例を挙げたらキリがない。
 
 
 そういう恐怖によって縛られた関係というものが、冗談抜きに存在する。それが牧師と信徒である場合、信徒は絶対服従の奴隷と同じである。
 が、「これは神の御心だ」とか「神の命令だ」とか言われて真に受けてしまうから、自分が感じているのが「恐怖」だということもわからない。

 ぜひ教会員の皆さんに確認していただきたいのは、自分の中に牧師やリーダーに対する「恐怖」がないかどうかである。自分を奉仕に突き動かす動機がそういう恐怖であるなら、全てをストップしてでも、自分の立ち位置を見直すべきだと私は思う。

追記)
「おそれ」には二種類あると思うが、今回テーマにしたのは「恐怖」の方である。
 もう一つ、神を正しくおそれる意味での「畏怖」というものがあると思うが、今回の話はこれとは関係ない。

2013年5月19日日曜日

繁栄の神学、って神学じゃないでしょ

「繁栄の神学」なるものがある。
 簡単に言うと、いわゆる拝金主義信仰だと私は思っている。
 要約すると、

・私たちが繁栄することは神の御心である(だから繁栄しないはずがない)。
・私たちがまず捧げるならば、何倍にもなって返ってくる(だから捧げなさい)。
・繁栄しないのは、捧げ足りないから、不信仰だからである(だからもっと捧げなさい)。

 となる。
 物質的繁栄は、確かに神の祝福である。が、それは一側面だ。ヨブ記を読むと、その繁栄が取り去られるのもまた、神の祝福であることがわかる。
 新約聖書のパウロも、豊かな時もあったが貧しい時もあったと言っている。繁栄神学信奉者からすると、パウロは不信仰ということになるのか。

 その神学(?)が行き着くところは、何がなんでも繁栄しなければならないという強迫的心理だと思う。彼らには、繁栄していない状態があってはならない。が、それが結果的に、献金強要・奉仕強要に繋がっていくのではないだろうか。

 ある大きな教会に、何度か行ったことがある。行くたびに牧師らが繁栄繁栄と言っているのが気になった。
 そこは実際に繁栄しているようで、年間で億単位の収入があるようだ(詳しい会計報告を見たかったが、会計報告の時にスクリーンに映し出されただけで、書面はなかった)。新しく土地を買ったり、牧師館を建てたりもしている。
 が、特別に献金を強要している様子はなかった。「健康」をテーマにしている教会だからかもしれない。あるいは私はそこの教会員ではないから、内部の雰囲気を感じ取れなかったのかもしれない(その教会が繁栄の神学に浸かっていると言うつもりはない)。

 教団教派によって強調点が違うのは仕方ないことだが、あまりに極端なのは私は歓迎できない。上記の教会だと、裕福でない人は居づらいのではないだろうか。もしかしたら裕福になれない自分を不信仰だと思ってしまうかもしれない。
 キリスト教でいう「繁栄」の反対は、おそらく「清貧」であろう。が、繁栄がダメだから清貧を貫けという話でもない。
 どちらか極端にいくのは、共にバランスを欠いているというものだ。

 そんなバランスの悪い極端な信仰、繁栄信仰や清貧信仰は、「神学」と呼ぶべきではないような気がしている。

2013年5月17日金曜日

死者をよみがえらせた…それで?

 前回「いやし」について書いたが、その関連で「死者のよみがえり」について書きたい。

 昨年8月の川口リリアの集会に、タンザニアの牧師がゲストとして迎えられた。彼の得意分野(?)は「死人のよみがえり」だそうで、すでに400人以上を生き返らせているという。それと関係あるかどうかわからないが、ナイジェリアではすでに1000人以上の人間が生き返っていて、アフリカではそんなことぜんぜん珍しくないよ、朝飯前だよ、的な表現で宣伝されていた。

 その集会の一部に、私の母教会も奉仕で参加する予定だった。
 が、同年4月に元牧師のMが失踪したので、それもなくなった。だからその集会には私は行っていない。
 その後、集会中に死人が生き返ったという話は聞いていない。

 その集会の実行委員の一人は、新宿のある教会の牧師である。その教会では「24時間の祈りの家」が始まっているが、この「死人のよみがえり」にも積極的なようだ。これは関係者から聞いた話なので確証はないけれど、そこに死体を安置して、生き返るように祈ったこともあるという。

 死者が生き返るという信仰の、聖書解釈上の問題はさておき、私が気になるのは、その紹介の仕方である。

 
 上記のタンザニア牧師のように「400人以上を生き返らせた牧師」と紹介されたなら、人々の注目は神様でなく、その牧師に向くだろう。「神様はすごい」でなく、「この牧師先生様はすごい」ということになる。そしてそれは神様に栄光を帰さないことで、反聖書的であろう。

 それにそれが集客目的の釣りネタだとしたら、なお悪い。
 上記の集会の抄録を見たが、その生き返らせた実例と新聞記事らしい画像を挙げるだけで、何の証拠も提示していない。「400人以上を生き返らせた」ことはすでに前提条件となっており、それを疑うのは不信仰だと言いたいようだ。

 さらに抄録を見ると、「日本の霊的武器庫が開かれた」というのがメッセージの主眼となっているのがわかる。「だからあなたの問題が解決していく」という。

 
 そういうメッセージを受ける人々の関心は、どこに向くだろうか。
 まずは「死者のよみがえり」に、次は「霊的武器庫」に、そして最後は「自分の問題が解決される」に向く。
 どこにも神様がいない。
 結局、「繁栄の神学」に人々を向かわせるだけなのだ。

「いやし」や「よみがえり」で、人々を釣っているだけのような気がしてならない。

 私は「いやし」も「よみがえり」も否定しないが、それを肯定するには、慎重でなければならないと思っている。

 そのタンザニア牧師が生き返らせたという400人以上の人々が、今どんなふうにして神様の栄光を現しているのか、ぜひ聞いてみたい。
 なぜなら神様が働かれるのは、いつも「神ご自身の栄光をあらわすため」だからだ。

追記)
 ちなみに「霊的武器庫」が何なのかよくわからないけれど、非常に都合のいい表現だと思う。
 なぜなら「霊的武器庫が開かれた」と言った後、誰かに何か良いことが起これば、「ほら、だから言ったでしょう」と言えるし、何も起こらなくても、「もう武器庫は開かれている。もっと祈りなさい」で済ませられる。
 こう書くとまるで詐欺の手口みたいに聞こえるが。

2013年5月16日木曜日

残念な「いやし」の集会

 プロテスタントの超教派的な活動の一つに、「いやし」をテーマにした集会がある。
 海外の有名無名の講師を呼んで、「いやし」について講義してもらい、実践してもらう。よく川口リリアや板橋区文化会館などで、定期的にやっている。小規模なものも各地にあるかもしれない。

 ここで言う「いやし」とは、薬をのんで安静にしていたら風邪が治ったという類のものでなく、神様によって、病気や怪我が瞬時に治ったり、瞬時でなくても医療の常識を凌駕するような回復をしたりするという意味である。上記の集会のポスターなどにも、歩けなかった人が歩けるようになった等の実例が紹介されている。
 病にある方には、願ってもないことであろう。

 私は基本的に、神様が人をいやす方であると信じている。聖書には確かに、奇跡としか表現できない「いやし」の数々が記されている。そういう「いやし」が聖書の時代の話だけであって、現在は絶対にない、とは言えないと思っている。

 私個人のことを言うと、それらの集会に積極的に出席したいと思ったことはない。が、いつも母教会が奉仕で参加していたので、必然的に私も参加することになっていた。

 そういう訳で、奉仕のついでに集会での「いやしの実践」を見てきた。
 だが、今まで一度も、そういう集会の中でいわゆる「劇的ないやし」が起こるのを見たことがない。「いやされました」という個人の報告は聞いたことがあるが、実際にこの目で、その「いやし」の現場を見たことは一度もない。
 だから報告していた皆さんには大変失礼だが、それを事実として確証する術は私にはない。

 では集会中の「いやしの実践」では、どんなことが行われるのか。私の知る限りではこうだ。
 何らかの健康上の問題を抱えられた方々が、壇上に呼ばる。そこで講師に祈られたり、何か指示された動作をしたりする。そして、その問題に何らかの改善があったかどうかを確認する。

 結果、私が見てきた中では、「良くなった気がします」というような人しかいなかった。

 が、主催者側はいつも「主を賛美しましょう」と満足げである。事前に宣伝していたようなことは一切起こっていないはずだが。
 そういう集会を、何年も見てきた。

 主催者の方々のご苦労は相当だと思う。入場者数を見ると、会場使用料などの諸経費を賄えるのか心配になる。決して十分な収益があるとは思えない。
 それでも毎年集会を開催している。そこには少なからず善意があるのではないかと思う。
 その善意が報われるような「いやし」が起こってくれればいいと、個人的には願っている。

2013年5月14日火曜日

すごい賛美礼拝?

 私の母教会の日曜礼拝には、新しく来る人が多かった。毎週ではないけれど、けっこうな頻度で新来者がいた。
 が、それはだいたいがノンクリスチャン(未信者)でなく、クリスチャンだった。別の教会の信徒だったり、いろいろな教会を転々としている人だったりだ。
 彼らが来た理由で多かったのが、「この教会の賛美礼拝がすごいと聞いたから」だった。

 賛美礼拝とは、まあ礼拝で歌を歌うことである。讃美歌とか聖歌とか、コンテンポラリーな歌とかを歌って神様を礼拝する。

 その賛美礼拝が「すごい」と言うのは、どういうことだろうか。
 思うに、神様の臨在(存在感)を感じるということであろう。賛美をしていて神様に「触れられる」とか表現するような現象だ。
 その「触れられた」証拠として、感動するとか涙が出るとか、それまでなかった安心感がくるとか、喜ぶとか、実際的に何かに触れられた感覚があるとかというのがある(が、それらが本当に主の隣在なのかどうかはわからない、という記事は以前書いた)。

 そういう「すごい賛美礼拝」を求めて、クリスチャンたちがやって来る。
 その心理は何なのか。

 一つには、心に深い悩みがあって、神様に頼りたいという切実な思いがあるのではないかと思う。
 もう一つには、何かに秀でている教会(?)とか、海外から大物(?)が来るとか、そういう情報を聞きつけて、臨在ほしさにやってくるのではないかと思う。いわゆる「臨在中毒」みたいな人たちだ。

 前者の悩める人たちは、真剣に神様を求めているように思える。もちろん真剣だろう。が、彼らの目的は神様を礼拝することでなく、その神様を礼拝することで得られるかもしれない助けとか、何らかのメッセージとかをもらうことにある。孫が正月に田舎に行く目的が、祖父母に会うことよりも、実はお年玉をもらうことであるのに似ている。
「困った時の神頼み」的な行動で、単なる御利益主義、体験主義だと私は思う。

 その証拠は、彼らが私の教会に来た理由そのものにある。
「賛美礼拝がすごいと聞いたから」
 それが自分の教会にないから、あるいは今まで行った教会になかったから、ということではないだろうか。

「ウェストミンスター小教理問答」という本がある。1643~49年、ロンドンで開かれたウェストミンスター神学者会議において確認されたプロテスタント教理を、問答形式でまとめた本だ。
 これの第一問は、人間の第一の目的は「神に栄光を帰し、神を喜びとすること」となっている。つまり、人間から神への、一方的な礼拝である。これによると、見返りを求めるという動機が含まれた礼拝は、礼拝ではない。

 これは御利益主義、体験主義のクリスチャンが第一に考えるべき事柄ではないかと私は思う。

追記)
 正月に祖父母に会いに行く孫たちを悪者扱いしてしまったが、もちろんそういう孫ばかりではないだろう。
 ちなみに私はお年玉目当てだったが。

2013年5月13日月曜日

牧師でなくビジネスマンだったら・・・

 2012年4月の問題発生の数か月前から、私の教会の礼拝はおかしくなっていたと思う。
 当時の礼拝説教のメモを見返してみると、F県I市のこととか、終末のこととか、非常に偏った内容だったのがわかる。しかも聖書が開かれていない。

 F県I市の施設取得は、一向に実現されなかった。「主によって取得する」と宣言した2011年9月から、半年が経っていた。礼拝説教ではその言い訳をするかのように、「主の御心の実現を止めるものがある。祈りによって打ち破らねばならない」と元牧師のMが真顔で言っていた。

 そのMは4月の段階で、すでに罪の中にいた。暴力と不正会計と姦淫の罪である。私を含めたほとんどの信徒は、そんなこととは知らず、朝から晩まで真面目に祈っていた。
 今にして思うと、御心を止めていたのはM自身だったかもしれない。

 その頃の礼拝で印象的だった場面がある。協力牧師のGが礼拝説教した時のことだ。Gは牧師歴10年程で、説教の経験も豊富だった。そのGが説教中、たっぷり5分程、講壇上でおし黙ってしまった。何を語るべきか、わからなくなってしまったようだった。私たちはじっとその沈黙の時間が終わるのを待っていた。Mも助け船を出さなかった。

 今思うと異様な光景だった。説教は牧師にとって、最も重要な職務の一つであろう。多くの時間をかけて準備しているはずだ。
 が、おそらくGは、その準備すらできなかった。思うに忙しすぎたのだ。

 教会の主要なメンバーは全員、労働過多の状態にあった。早朝から深夜まで様々な奉仕があるし、Mが招集する時間帯無視のミーティングも多かった。家族の時間どころか、家に帰る時間さえない。それでいて「神に仕えている」という意識があり、「まだ足りない。もっと働かないと」と思ってしまう。しかも給料未払いが続いていて、明日の生活もわからない。
 まさに末期状態である。さらに悪いことに、だれも末期状態だと気づいていなかった。

 Mを弁護する気はさらさらないが、おそらく、その状態はM自身も望んではいなかったと思う。彼は普段から「僕は上昇志向が強い」と言っていた。その上昇志向を自分でもコントロールできなかったのだろう。皆を巻き込み、どんどん自分の首を絞め、身動きできない状態になっていることに気づいていても止められない。2012年4月の教会は、そういう状態だったと思う。

 Mの残したわずかな書類や領収書の類を確認した時、居酒屋のレシートが出てきた。
 飲酒して罪を犯したなと断罪するのは簡単だが、私はそれを見て何ともいえない気持ちになった。
 おそらく、八方ふさがりの状況から逃げ出したかったのではないか。破れかぶれになって、飲酒や姦淫に走ったのではないか。彼はいつも仲間内では高圧的で強権的な態度をしていたが、非常に弱く、臆病な一面もあったのだと思う。

 先日、久しぶりに会った牧師から、Mのことを聞いた。彼は2012年2月にMに会っていた。彼とMは長年の友人関係にあり、親しく話す間柄だった。二人で温泉に入った時、Mが「僕はビジネスマンになれば良かった」と言ったという。

 それを聞いて、合点のいく部分があった。確かに、Mはビジネスマンとしては優秀だったかもしれない。Mは教会を利用してビジネスをしようとしていた、と仮定すると、彼のいろいろな行動や言動の説明がつくような気がする。

 今、Mがどこで何をしているのか私は知らない。問題の責任を何も果たさないまま失踪している。
 彼はこれで、どこかでビジネスマンとして活動できるかもしれない。「ビジネスマンになれば良かった」という言葉の通り、ビジネスマンとして優秀な彼なら成功できるかもしれない。

 が、それも最終的に失敗してしまうと私は思っている。恨みとか妬みとかで言うのではない。彼のその強すぎる上昇志向が解決されない限り、教会だろうと一般社会だろうと、結局は同じ過ちを犯してしまうからだ。
 人間とはそういうものだろう。

2013年5月11日土曜日

「のぼう」のリーダー像は型破りなのか

 日本映画「のぼうの城」をDVDで観た。非常に感銘を受けたので書きたいが、映画評とは少し違う。

 映画としてたいへん面白かったし、スケールのでかい作品をよく作ってくれたと思う。制作に関わられた皆さんの努力に賛辞を送りたい。


 私が感銘をうけたのは、野村萬斎演ずる主人公の成田長親、愛称「のぼう様」のキャラについてだ。

 この映画のキモは、豊臣の軍勢二万に対し、北条方はたったの五百、しかも総大将は「何にもできない」のぼう様という、圧倒的不利な戦況をどうひっくり返していくか、にある。
 こののぼう、侍でありながら、馬の乗り降りすら満足にできない。剣術にも戦術にも長けているようには見えない(そういう活躍の場はない)。普段から、田畑で農民たちと戯れているだけだ。
 そんな奴に何ができるかと、内外の誰もが思う。が、その予想に反して奇策が成功、豊臣勢を退ける。

 その逆転劇がこの映画の面白さであり、判官贔屓の日本人には受けるのだと思う。

 そういう訳で、のぼうは無能なダメ侍だと思われている。
 が、実は全然無能なんかではない。むしろ秀でたリーダーシップを持っていると私は思った。
 そしてそれは、劇中で奇策が成功したからではない。あれが失敗したとしても、のぼうが優れたリーダーであることに何ら変わりはないと思う。

 どこが優れていたかというと、一口で言えば人格である。
 具体的には謙遜さと正直さである。農民の少女に呼びつけにされても平気だし、戦になってしまった時には皆にゴメンと謝る。
 また、分別である。自分に何ができて何ができないか、よくわきまえている。リーダーとしてどうあれば良いか、何をしたら良いか、よくわかっている。普段農民たちと一緒にいるのは、何も考えないからでなく、逆によく考えているからだろう。

 周囲はそんな彼を見て、「助けてあげたい」とか「自分にできることをしてあげたい」とか思い、集まってくる。

 詰まる所、リーダーに必要なのはそういうことだと思う。
 つまり人をまとめる力であって、それは一にも二にも、人格だと思う。この人格は、品性と言ってもいいかもしれない。

 のぼうのリーダーシップは、周囲には型破りに見えるのかもしれない。配下たちはその予想外の行動に度々驚き、困惑する。

 しかし、のぼうのリーダーシップこそが、本当に必要とされるリーダーシップの在り方だと私は思う。
 それが現代においても型破りなままであるなら、私たちは生きづらい世界に生きているのではないだろうか。

2013年5月10日金曜日

間違いの連鎖

「レーマ」についてもう少し書きたい。

 以前の記事で、レーマは感覚頼みであり、本当に神に語られたのかどうかは吟味すべきだと書いた。

 が、教会全体がレーマレーマと盛んに言っていたら、それも難しいかもしれない。私もそうだった。
 
 リーダーから「レーマを受け取れ」と言われ、主要な信徒たちの「レーマ体験」を聞かされていたら、真面目な人なら「私も受け取らなくちゃ」と思うだろう。
 すると「レーマとは何か」という疑問よりも、「受け取ったかどうか」の方が重要になってしまう。
 特に年数が経っているクリスチャンなら、それだけ豊富な体験がなければならないという強迫観念からか、何でもかんでも「レーマだ」「神に語られた」と決めつけてしまうかもしれない。それを見る新米クリスチャンたちも右にならえになる。

 が、それは「語られた自分」に安心しているだけではないだろうか。
 その心理状態は、集団催眠に似ている気がする。
 現時点ではレーマ自体を肯定も否定もしないが、そうやって人を体験主義に走らせる在り方には問題があると思う。

 レーマ信仰の教会のクリスチャンを大勢知っているが、みな純粋でやさしい人たちばかりだ。あえて間違いを犯そうなんて思っていないだろう。「レーマを受け取れ」と教えられるから、純粋にそれを実行しているだけだと思う。

 そう考えると、やはりリーダーたちの責任が大きいと言わざるを得ない。聖書もそれを支持している。
 が、リーダーたちのせいだで終わらせることもできない。なぜなら彼らにもリーダーがいたはずだし、そのリーダーにもリーダーがいたはずだからだ。
 レーマのみならず、教会の在り方とか信仰の在り方とかも、代々連鎖してきたのだと思う。そしてそこにある間違いも、延々と連鎖してきている。

 どこかでその間違いに気づき、正そうという動きがあったかもしれない。「もうこんなことをしてはいけない」と方向転換したはずが、いつの間にか、また同じ問題を起こしているということがある。親から虐待を受けて育った子どもが、大人になってから我が子を虐待してしまうのと同じだ。

 その連鎖をどうしたら断ち切れるのか、よくわからない。だがわからないで済ませるべきでもないと思う。たった一人が声を上げても大河に一滴注ぐだけだろうが、その一滴でありたいと願うばかりだ。

2013年5月9日木曜日

子どもを社会に出すのは危険なことなのか

 熱心なクリスチャンの方々の悩みの一つは、教会の中高生たちをどう育てるかだと思う。

 幼い頃から教会で育った子たちが、中高生になる。すると学校行事や部活を理由に、教会に来なくなる(来られなくなる)ことがある。同時に関心が外界に向くようになって、いわゆる「この世の楽しみ」に魅了されてしまい、下手すると教会から離れる…と、いうような話をよく聞く。

 そういう「この世の誘惑」から子どもたちを守らねば、という発想が、ホームスクール・チャーチスクール運動を後押ししたようにも思う。

 私はその発想に無条件に同意していた。が、それも思考停止状態だったと思う。
 人は盲目的であってはいけない。

 中高生の教会離れ現象は、たしかに現実に起こっているであろう。が、それは本当に学校だけのせいなのだろうか。
 文化系の部活だと週末に活動する方が珍しいし、全ての運動部が週末に活動する訳でもない。部活に入らない子もいる。

 それに、子どもたちにも判断力はある。どうしても野球をやりたい子は放っておいても野球部に入るだろうし、茶道が好きなら茶道部に入る。彼らなりに、3年間続けられるかどうか、その価値があるかどうか、よく考えて選んでいる。

 人は幼なくても高齢でも、自分にとって価値あるものを選ぶし、価値を見出さないものは選ばない。そして価値あるもののためなら、ある程度の犠牲も払う。

 もしどうしても日曜に礼拝したいと思ったら、そうできるようにするだろう
 トイレをどうにもガマンできなくなったら、何を置いても行くのと同じだ。

 中高生になって教会に来なくなるのは、本当は、学校や部活があって来れなくなったからではないと思う。そういう状況にしているのは自分だったり親だったりするからだ。「どうしても行けないんです」というのは、そもそも誰かが強制的に禁じているからではない(そうだとしたら犯罪だ)。

 もちろん中には、教会に行きたいけれどどうしても行けない、という状況はあるかもしれない。
 そういう子こそ、教会が助けるべきだと思う。何がなんでも日曜に礼拝しなければならない訳ではないのだから、平日にそういう時間を持ってあげればいいのではないだろうか。
 
 
 教会から離れるかどうかは別にして、子どもたちが教会外の広い世界に触れていくのは、良いことだと思う。みんなこの世界で生きていくのだから、その汚さも美しさも、醜さも素晴らしさも、知っていったらいいと思う。それで傷ついたとしても、それを知らず狭い世界で生き続けるよりは、ずっとマシだと私は思う。

 そうしてその子が、やっぱり神様はいる、だから礼拝すべきだ、という結論に自ら達したなら、それが本当の信仰というものではないだろうか。

2013年5月8日水曜日

ロゴスとレーマ?

「聖霊派」系統の聖書解釈だと思うが、聖書の言葉は「ロゴス」と「レーマ」に分けられるという主張がある。
 どちらも「言葉」という意味だが、ロゴスは「書いてある言葉」、レーマは「今語られた言葉」だという。

 聖書はすべてロゴスだが、その中のどれかを神が個人に特別に語るとき、ロゴスはレーマとなり、言葉通りに実現する、とのことだ。

 私もかつて、母教会でそのように教えられた。

 しかしパスカル・ズィヴィ氏(マインドコントロール研究所)によると、聖書に両者の明確は区別はないとのことだ。最近親交のあるいくつかのプロテスタント教会も、そのような区別を否定している。

 ということは、どちらかが誤っていることになる。

 ここでロゴスとレーマの論争をする気はないが、レーマを信じてきた者として少し書きたい。

 このロゴスがレーマに変わる時というのは、例えば「胸に響く」とか、「とても感動した」とか、「強烈な印象を受けた」とか、そういう「感覚」に頼ったものであると思う。私の経験的にもそうだ。

 昔はそれを単純に「レーマに違いない」と信じていたが、よくよく考えてみると、日常の中でも同じような感覚を持つことが多々ある。映画を観たり本を読んだり、あるいは自然に触れたりといろいろだが、猛烈に感動することがある。そしてその感動した内容というのは、べつに聖書の話でもないし、神に直接関係あることでもない。それらを神に語られたというのは、少々乱暴であろう。

(もちろん広義には、世界の万象は神から発すると考えられるから、その感動も神から来ていることになる。が、今はそういう話ではない。)

 聖書を読んでいて、ある言葉に目が留まる。あるいは聖書がない時に、ある個所を思い出す。
 それはお腹が空いた時に吉野家の牛丼を思い出すのと、どう違うのだろうか。
 今の自分にとって必要だなと思うことが心に浮かぶのは、人間として当然の機能であろう。それを何でもかんでも「神に語られた」「これはレーマだ」と言うのは、私には信仰者でなく狂信者に見えてしまう。

 もちろん、以前の私もその狂信者の一人だったが。

 ロゴスとレーマの論争をする気はない。私は原典を読めないから、それを訳して細かく調べたいとは思うが、今すぐできそうにない。だから現時点ではイエスともノーとも言えない。

 ただ一つ言えるのは、それは本当にレーマなのか、神が直接、特別な意思をもってあなたに語られた言葉なのか、よく吟味しなければならないということだ。
 なぜならそれはあなたの「感覚」頼みだし、人の感覚というのはアテにならないものだからだ。

2013年5月7日火曜日

教会を「見抜く」ススメ

 以前、教会の良し悪しの判断について書いた。

 その結論は、信じたばかりの人にはまったく判断できない、そして最初がハズレだと信仰を捨てることになりかねない、ということだった。
 が、それだと解決にならない。
 目に見えてわかる判断基準があったら、いいのかもしれない。

・「行ってはいけない教会」というスレッド
「行ってはいけない教会」で検索すると、まず同名のスレッドがいろいろ出てくる。単なる誹謗中傷や理由をあげない全否定もあるけれど、中には丁寧に項目を挙げて書いている人もいて、参考になるかもしれない。例えば「若い人が多い」とか「やたら横文字を使う」とか、「リバイバル」とか「弟子訓練」とか、確かに注意すべき項目だと思う。全部が全部という訳ではないが。
 が、それらを満たすから危険な教会だ、と一概には言えない気がする。

 その教会の現在の在り方というのは、結果的なことであろう。
 もちろん教派の影響もあるだろうが、例えば若者が多いとか、いろいろ活動があって活発だとか、あるいは人がどんどん減っていくとかいうのは、その教会の歩みの現れであって、教会の良し悪しを議論する上では、枝葉末節だと思う。

 それよりも、教会をそうさせているものに注目すべきではないだろうか。

・教会を形作るもの
 教会を形作る最大の要因は、私の経験ではリーダーシップにあると思う。
 教会によってリーダーシップの形はいろいろだろう。長老や牧師が何人かいて、役員会や執事会を構成しているかもしれない。あるいは牧師一人かもしれない。いずれにせよそのリーダーシップが、教会の最終的な意思決定機関である。だからどんなに民主的にやろうとしても、その教会の方向性は事実上、リーダーシップが左右している。
 それにまともな教会なら、総会等でリーダーシップを信任するという手続きを踏んでいる。だからそのリーダーシップが決めることに、基本的に文句が出ることはない。

・教会の何を見るべきか
 私が教会でまず注目したいのは、リーダーシップがどのような人たちかという点だ。その行動や言動、家族関係などから、人格や品性を知る手掛かりが得られる。
 次に、リーダーシップと信徒の関係に注目したい。例えば信徒が元気で明るいと、リーダーシップによる権威の乱用や虐待はなさそうだと判断できる。

 この方が、的確な判断ができるような気がする。若者が多いとか、リバイバルとよく言うとか、そういう「形」に必要以上にこだわらなくてもいいのではないだろうか。

(…が、リーダーシップに問題がありそうな教会に限って、若者が多いとかリバイバルがどうとかいう形になっているのも事実かもしれない…)

・時間をかけて判断すべきか
 何らかの評価項目を作り、それに従って判断していくなら、時間はかからない。
 が、上記のようにリーダーシップの品性とか信徒との関係とかをしっかり見定めようとしたら、やはりある程度の時間は必要になる。

 そこまで教会を批判的に見なくてもいいのでは、という意見があるかもしれない。
 が、私は教会を批判したい訳ではない。警告したいだけだ。正しい聖書理解と自浄力のない教会は、最終的に人を傷つけ、破壊してしまうからだ。
 黙示録2章2節には、エペソの教会の信徒たちがニセ使徒を見抜いたと書いてある。これは本当に注意すべきことだと思う。
 ニセモノたちの嘘は、安易にわかるものでない。そして注意して見抜こうとしなければ、簡単に騙されてしまう。

 私たちはそういう時代に生きている。


2013年5月6日月曜日

誰のための奉仕なのかを考えるススメ

 神様のために何かしようとする時、結局のところ、礼拝に勝るものはないと私は思っている。

 が、皆で礼拝するには準備が必要だし、そのためには教会が運営されていなければならない。そして教会が運営されているのなら、当然宣教活動も出てくる。
 というわけで、クリスチャンは幸せに礼拝だけしている訳にもいかない。もちろん全員ではないが、多かれ少なかれ、教会で何かの仕事をすることになる。

 その仕事は「奉仕」と呼ばれるが、これがなかなか厄介な問題を含んでいると思う。

 奉仕は基本、「自分にできること」をすべきだろう。ピアノができる人はピアノ奏楽をした方がいいし、パソコンの心得がある人は週報をつくった方がいい。苦手なことをさせるのは効率が悪いし、本人も喜んでできないからだ。
 そしてこの「自分にできること」というのは、その人の好きなことだったり趣味だったりする。

 では、奉仕とは自分の好きなことをすることかというと、少し違う。
 なぜなら好きなことだけで、教会活動の全てが賄われるとは限らないからだ。例えば礼拝には司会者が必要だが、好んで人前に立つ人は、そうはいない。では無理矢理させる訳にはいかないから、司会者なしで礼拝するかというと、それもできない。たとえ「今日は司会者なしでいきましょう」ということになったとしても、「じゃあ次は説教です」と誰かが言わなければならないし、それを言った人が自ずと司会者的役割になってしまう。

 つまり、奉仕には、自分が好まないことをするという側面がある。

 それを支持する聖書箇所に、例えばキリストの十字架がある。キリストは十字架に架かりたくて架かった訳でなく、全人類救済のため、自ら犠牲となって架かった。

「弟子訓練」主義の牧師や教会は、このあたりの理屈を使う。「イエス様が自ら犠牲になったのだから、私たちも犠牲を捧げるべきだ」
 それは間違っていない。
 だから余計に厄介だ。
 上記の司会者の例のような「好まないことでもしなければならない」状況というのは、一般常識として多くの人が理解する。それをあえて「したくない」と言うのは、子供っぽくて普通ならできない。
 それに牧師などが「これは神様のためだ」とか「神様があなたを召している」とか言ったら、真面目な人は断れないだろう。神様を否定することと思ってしまうからだ。

 その結果、極端にいくと、「したくないことこそ奉仕だ。好きなことだけやってる奴は甘っちょろいヒヨッコだ」という雰囲気になってしまう。
 そうすると教会は一気に、「ガマン大会」の会場になる。しかもそのガマンには、終わりがない。
 それでも、その奉仕が神の役に立っているならまだ救いがあるだろう。が、そういう教会の奉仕は大概、神の願いでなく牧師の願いだったり自分自身の願いだったりする。その場合は御愁傷様と言う他ない。

 何事にもバランスが必要だ。
 好きなことだけでは生きられないが、嫌いなことをし続けることもできない。
 教会で奉仕をしている人には是非、そのバランスについて考えてみてほしい。その奉仕は誰の栄光を現すためだろうかと。

2013年5月5日日曜日

初めてのキリスト教会、良し悪しはどう判断したらいいのだろう

 人が聖書の神を信じてクリスチャンになる時は、様々だ。
 幼い頃か、成人してからか、老年になってからか、あるいは臨終の間際かもしれない。
 が、その方法でいうと、大きく2つに分かれると思う。

 一つは、物心がついて以降、聖書の話を聞き、自ら信じてクリスチャンになるというもの。
 もう一つは、両親ともクリスチャンで、生まれた時から教会に通わされ、いつの間にか(あるいは当然のこととして)信じているというもの。

 前者は一般社会で様々な波にもまれた末の入信となる。
 後者は波にもまれるという点は同じだが、そのもまれ方というか、対処の仕方というのは前者と異なる。
 両者は同じクリスチャンだが、根本的な違いがある。それは前者はいつ入信したか明確に分かっているのに比べ、後者は往々にしていつ入信したかが曖昧であるということだ。

 私自身は前者である。18の時まで聖書の「せ」の字も知らなかった。この場合の入信の仕方について、注意点を書きたい。

 ある程度人生を経験した人が教会の門をたたく理由というのは、私の乏しい想像力では一つしか思いつかない。興味があるとか友人がいるとか招待されたとか、外面的な理由はいろいろあるだろう。が、本当のところはただ一つ、苦しんでいるからだ
 何か切実な、だがどうにもできない問題に苛まれていて、救いを期待して教会にやって来る。それを表明しているか隠しているかで見え方が違うが、基本的にそういう人が教会に来るし、人によっては入信する。

 入信するのは、聖書の話(福音と呼ぶ)を信じるからだ。
ここで大事なのは、福音そのものの魅力が人を入信させるのであって、語る人間の何かではない、ということだ。つまり重要なのは福音という荷物であり、それを運ぶ人間ではない。

 が、入信した人間からすると、そう割り切ることもできない。なぜなら苦しいところを助けられたのだし、自分に話してくれたその人がいなければ、福音を聞けなかったからだ。だからどうしてもその語り手、多くの場合牧師に、恩義を感じてしまう。そうすると教会生活をする上でも、頭が上がらなくなる(これには、日本人の性質も絡んでいそうだ)。

 そこがバランスのとれた健全な教会であればいい(完璧という意味ではない)。が、そうでない場合、問題となる。

 というのは、入信した人は教理をまだ知らないし、教会が何なのかも知らないからだ。だから多少疑問に感じても「そういうもんか」と納得してしまう。自分の中に比較対象がないから、疑うことがない。
 それに、おそらく入信してすぐは、助けられた喜びの方が大きい。教会の在り方がどうかなんて普通なら少しも考えない。

 教会の牧師やリーダーにもともと悪意がなくても、十分に監督されない状態にあると、十中八九、何かの問題を起こす。もともとの教会員たちがそれを止められなかったのだとしたら、新しい信徒に止められるはずがない。

 というわけで入信した最初の教会で問題が起こった場合、その人が「教会(神様)って何だよ。インチキじゃん」と信仰を捨てることになる可能性が高い。下手するとアンチ・キリスト教みたいな立場にもなり得る。
 とすると、その教会は人を救うどころか、滅ぼしてしまったことになるのではないだろうか。

 いずれにせよ、私たちは自分の頭でよく考えなければならないと思う。聖書もよく吟味するようにと言っている。教会のリーダーが言ったから正しいと安易に放置せず、本当に正しいのかどうか、考え抜いて自分なりの結論を出すべきだ。そしてそれをリーダーにぶつけてみて、議論になるのは良いことだと思う。

 そんなことリーダーに言えないとか、議論にならず一方的にはねつけられるとかいう状況であるなら、それは大きな問題だ。

追記)
 キリスト教会に優劣を付けるとはケシカランとか言われそうだが、優劣の話ではない。そして残念ながら、教会には良し悪しがある

2013年5月3日金曜日

Taken 2 (96時間 リベンジ)


 さらわれた娘を奪還するため、パリの町で大暴れしたスゴ腕お父さんのその後を描く快作続編。
 今度は元妻と自分自身が囚われ、娘がその救出に乗り出すという、前作の裏返し構造で事件が始まるのが興味深い。

・父親対決
 今回の黒幕は、前作の誘拐犯「トロポヤのマルコ」のお父さん。つまり子を想う親どうしの対決、ということになる。

 マルコの父は、息子が誘拐犯だろうが何だろうが関係なく、愛する息子のカタキ打ちに執念を燃やす。その愛情って異常だろうと突っ込まれそうだが、いやいや、我らが主人公ブライアンの異常さも負けてない。娘の教習所通いを徹底管理し、彼氏の居所も即座に突き止めて乗り込む。このお父さん、緊急事態にこそ生きるだろうが、日常ではウザ過ぎて家族はやってられないのではないだろうか。

・ブライアンと家族の関係
 今回の新展開として、元妻レノーアとの復縁の兆しが見られる。レノーアは富豪の再婚相手スチュアートと別居中で、関係回復を図った家族旅行もキャンセルされてしまう。憔悴しているところにブライアンに助けの手を差し伸べられ、今回のイスタンブール旅行と相成った。二人が復縁するのでは、と期待させておいての事件勃発である。
 もう一つの展開は、娘キムに彼氏ができたことであろう。これは彼女の自立を示唆する伏線だと思われる。事件発生後、両親を救うべく立ち上がる彼女の勇気につながっていく。
 娘役のマギー・グレイスは「ロックアウト」でも勇敢に戦う大統領令嬢を演じていたが、もともとタフなタイプなのだろうと思った。

・元同僚たち
 前作に引き続き、ブライアンのCIA時代の同僚のサムたちも出演する。が、出番は少ない。冒頭のバーベキュー(またかよ)と、中盤にほんの少しである。
個人的にはもう少し活躍してほしかった。

・構成
 90分ちょっとと短い。
 拉致からの脱出、そして娘を大使館に避難させるまでが前半。そして元妻を救出する追跡劇が後半と言えるだろう。

 正直、圧巻のお父さんパワーは前作の方が良かった。たぶん今回の敵が弱いせいだと思う。
 前作は敵勢力が複数あった。アルバニアの誘拐犯グループに、フランス情報局、人身売買グループに変態金持ち一行。それらを全部蹴散らして突き進む姿に「お父さんカッケー」と感嘆したのだ。特に元仕事仲間のジャン=ピエールの奥さんを平気で撃つシーンは驚きだったが、今回そういう衝撃はなかった。敵勢力もマルコのお父さん一味だけだし、不意打ちでなかったら、そもそもブライアンの相手にならなかったような気がする。

 とはいえ、元妻と娘の両方を救出しなければならない緊迫感はなかなかのもの。前作からの感情移入がある分、ハラハラさせられた。

・スパイのスキル
 残念ながら目新しいものはなかった気がする。手榴弾の爆発音だけで自分たちの監禁場所を割り出すのと、乗っている車の振動と周囲の音だけでどこをどう走ったか再現するのは確かにすごいが…、前作ほどではないような。

・続編として
 前作が好きだった人は、若干物足りないながらも楽しめると思う。ブライアンたち家族のその後が見られるのは嬉しいし、やっぱり家族を想うお父さんの姿は何度見てもカッコいい。
 是非三部作にしてほしいと思う。マルコの家族は他にもいるみたいだから、リベンジ要員には困らないだろうし。

 ちなみに「96時間」は邦題で、前作の「誘拐されて96時間以内に発見できなければアウト」から来ている。当然ながら本作にそういう時間制限はない。

2013年5月2日木曜日

睡眠薬が必要な仕事

 ある教会の牧師に、数年ぶりに会った。
 最初に出会ったのが15年くらい前で、以降数年に1回くらい、何かの機会に顔を合わせている。毎回じっくり話せる訳ではないが、彼はいつも変わらない。親切で、思慮深い。
 その教会運営を一度見てみたいと思っているが、今のところそういう機会はない。

 その彼が話の中で、牧師の苦労みたいなものに触れていた。それが私の印象に残っている。
 彼は教会の信徒の問題が大変で、心が騒いで夜眠れないことがあるという。どんな問題なのかわからないが、そういう時は睡眠薬をのんで眠るようにしているそうだ。
 大変だなと思った。

「牧師」業が一般的に睡眠薬を必要とする業種なのか、あるいは彼がそういうタイプなのか、わからない。が、そういう牧師の話はよく聞く。知り合いの牧師にも、ノイローゼになった人や、体を壊して休業した人も少なくない。

 睡眠薬なしにできない仕事というのを、どう捉えたらいいのだろうか。
 もしかしたら要職についた政治家とか、重要な取引を控えたビジネスマンとか、学級崩壊したクラスの担任とかは、睡眠薬が必要かもしれない。が、それが恒常的に続くとしたら、何かが根本的に間違っているような気がする。あるいはこの社会機構そのものが、そういう犠牲を必要としているのかもしれない。

 私は牧師をしたことはないが、20年ほど牧師のそばで仕え、その働きを見てきた。人の人生を背負う大変な仕事だなと感心していた。が、睡眠薬をのまなければ続けられないほど、他人の人生を背負い込むべきなのだろうかと今は疑問に思うところもある。

 人の人生に介入して援助することは、時として必要になるだろう。が、それが恒常化して牧師への依存なしに生きられない人間を作るとしたら、本末転倒ではないか。そのために牧師が健康を害すのも良くない。

 人を導く立場にある牧師であるからこそ、自身の健康には人一倍注意してほしいと、その牧師の話を聞いて思った。

補足)
 牧師の職責範囲は教団教派によっていろいろだろうから、上記の話などまったく関係ないという牧師もいると思う。

2013年5月1日水曜日

教会にPVって必要なの?

 最新の技術とか、ブームとかを積極的に取り入れようとする教会がある。
 映像や音響や照明に多額の費用をかけ、週報やポスターは印刷業者に発注し、インテリアや装飾品もこだわって揃える。
 そういう教会の講壇まわりは、舞台芸術のように華やかである。

こういった傾向は、オーストラリアのHillsong Churchや、シンガポールのCity Harvest Church、アメリカのSaddleback Churchなど海外の「メガチャーチ」の影響によるものではないかと思う。どこもあまり「教会」を感じさせない、斬新な雰囲気の教会である。

 そのコンセプトは、教会を一般人にとって魅力的な場所にしたい、というものだと思う。従来のスタイルを廃し、あえて外観を変え、楽しいとか癒されるとか、人々が来たいと思う何かを提供することで、教会の敷居を低くしたいのではないか。
 それで大勢の未信者が来て、信者になっていくのであれば、彼らの宣教は成功なのだろう。

 そういう変化に、私は基本的に賛成である。
 いつも書いているように、人とか組織とかにはいつも自己点検が必要で、その点検の結果、必要な改善はしていくべきだと思うからだ。それらの改善は、内面的なものだけでなく、外見にも起こり得る(教会設備にお金をかけるのを改善ととるかどうかで議論になりそうだが)。

 それに教会をどうするかは、聖書の規定内であれば、その教会の人々の自由だろう。お金があって、どうしてもその必要があるなら、そうしたらいい。そしてそういう教会が好きな人は、自由に行ったらいいと思う。

 が、私が一つに気になっているのは、そういう教会が作るPV(プロモーションビデオ)の存在だ。
 いくつかの教会は、自教会の活動内容を映像でカッコよくまとめ、PVとしてYouTube等にアップしている(必ずしもPVという名前で扱っているわけではないが、映像内容は一般にPVと呼ばれるものだ)。誰でも簡単に見ることができる。

 それを見て私が疑問に思ったのは、それらのPVをなぜ作ったのかということだ。

 もちろん、作った教会側は「教会を紹介するためです」と言うだろう。「教会に来てもらうためです」とか言うかもしれない。
 が、よく考えてみてほしい。
 最新の映像技術や演出が導入されているかもしれないが、聖書のメッセージを伝える訳でもなく、神について伝える訳でもなく、ただ教会の活動を紹介するだけのビデオを、いったい誰が見るのだろうか?

 これは、そういう進歩的な教会をひがんで言っているのではない。

 一般人向けであるなら、彼らが見たいと思うような内容にしなければならないはずだ。
 聖書のメッセージを伝えるにしても、よっぽど面白おかしくするとか、感動して泣けるようにするとか、それこそプロ並の工夫と努力をして、一般人の関心を引かなければならない。
 が、いろいろな教会のPVを見てみたが、気取った断片映像の合間に入るキャプションは「愛」とか「家族」とか、それだけでは全く意味不明な言葉の羅列である。クリスチャンでなければ理解できない。とても一般人を意識して作られたとは言えないだろう。低い視聴数もそれを証明している。あれなら個人が撮影したハプニング動画や動物のおもしろ動画の方が、桁違いな視聴数を獲得できる。

 では、誰のために作ったのだろうか?

 私が思うに、あれはクリスチャン向けに作られたものだ。
 が、教会の仲間内で盛り上がるためにではない。それならネットに公開する必要はない。
 それよりも、他教会のクリスチャンのためではないかと思う。他教会に向けて、「私たちはこんな素晴らしい活動をしています。それをこんなカッコいいPVで表現してみました」というメッセージが、背後にあるような気がしてならない。要するに、教会自慢だ

 自分の教会を愛して大事にするのは良いことだが、それを他教会への当て付けのような形で自慢していいものだろうか。それこそ品性のなさを露見してしまっているような気がする。

 もちろんPVを作るのは自由だけれど、それがいったい何になるのか、もう少し考えみてはどうだろうか。
 少なくとも、それが神の栄光を現すことになるのか、それともただ教会の栄光を現すだけで終わるのか、その疑問にだけは答えてから作った方がいいのではないかと思う。

補足)
 実は私も以前、元牧師Mの指示で、教会のPVを無数に作っていた。Mが求める映像を撮ったりネットでかき集めたりして、何十時間もかけて編集し、Mにいろいろ怒られながら仕上げる。そんなことを繰り返していた。
 そんな私だから、今回PVが気になったのかもしれない。

さらに補足)
 海外のメガチャーチもPVを作っているが、例えばアメリカはキリスト教文化が根底にあるため、PVの存在意義が日本と同じとは言えない。