夜中に神社仏閣に集まるクリスチャンたちの悲しさ(?)

2013年5月23日木曜日

キリスト教信仰

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「地域を縛る悪霊」が存在する、という説がある。
 どれだけの教会がそれを信じているか知らないが、私の教会は信じていた。

 実例を挙げるとこうだ。
 教会での伝道集会や、様々な個人伝道を繰り返しても、人々がなかなか入信しない。それはその地域が悪霊に縛られているからだという。その悪霊を追い出さない限り、その地域の人々は解放されず、福音(聖書の話)に対して心が開かれない。だから伝道の前に、悪霊の追い出しが必要だ、ということになる。
 それで牧師らが一生懸命に祈った結果、その地域のどこが悪霊のスポットなのかがわかる(だいたい神社とか寺とかだ。そんなこと祈らなくても想像がつくだろうが)。それで祈りのチームが実際にそこに行き、悪霊追い出しを祈ったり、命じたりする。
 行った人たちの感想を聞くと、だいたい「はじめは重く感じたけれど、祈ったら軽くなった」とか「祈ったら打ち破りを感じた」とか「ブレイクスルーが起こった」とかいうようなことを言う。

 悪霊の存在は聖書に書かれているし、私もそれが存在すると信じている。
 聖書はまた、悪霊たちが大勢いて、ある程度の階層社会を構成していること(マタイ12章25~26節)、それぞれに住む地域があること(マルコ5章10節)を示している。またイエス・キリストやその弟子たちが、人々に憑りついた悪霊を追い出す場面も複数書かれている。

 という訳で、上記の実例がまったく荒唐無稽なこととは言い切れないと私は思っている。

 が、それでも私が問題に思うのは、それが「感覚頼み」だという点だ。

 悪霊のスポットが地域の神社仏閣だというのは、あまりに短絡的というものだろう。が、否定しきれない。確かに悪霊がいっぱいいそうな気がするし、夜などはオドロオドロシイ雰囲気だから「重たく」感じる気もする。
 私も実際にその祈りに行ったことがあるが、例えば「この寺の、この木のこの部分が特に重い。ここが祈りのポイントだ」みたいなことを、牧師が真顔で言う。言われた私は何にも感じていないのだが、そう言われればそんな気がしてくる。それで真剣に祈り、祈った後もやっぱり何にも感じないのだが、牧師が「これで天が開かれた。ハレルヤ」とか言うので、私も「アーメン」と答えてしまう。

 神社仏閣ならまだわかりやすいが、時には何の変哲もない川やら山やらが「祈りのポイント」に指定される。「ここは歴史的に重要な場所だ」とか「霊的に重要な場所だ」とかいうことで、皆で祈りに行く。
 恥ずかしい話だが、私はそういう場所に行っても本当に何も感じておらず、しかしそれを表明することもできず、「確かに何かあるようですね」などと言ってしまっていた。

 これは推測だが、私と同じように「感じているフリ」をしている信徒は他にもいたと思う。

 しかし今思うと、そうやって牧師が指定する「悪霊のスポット」や「祈りのポイント」が、事実であると検証する方法はない。牧師が「御霊に感じた」と言っているだけだ。が、「それは本当ですか」と言う勇気は信徒にはないし、仮に言えたとしても、「それはあなたの霊性が低いからだ」で終わってしまうだろう。下手すると不信仰呼ばわりされたり、礼拝やミーティングの場で公開処刑されたりするかもしれない。

 私は「場所」に関する悪霊の存在や祈りの必要を全て否定する気はないけれど、そういう「感覚頼み」の事柄が蔓延して否定できない雰囲気になっていくのは、明らかに問題だと思っている。
「皆が感じているみたいだから私も感じないと」みたいな強迫観念は、信仰とは何の関係もない。ただの信仰ゴッコだ。

 いい大人が夜中に神社仏閣に集まって、何やら祈っている。
 それが感覚頼みの茶番だとしたら、これほど悲しいものはないと私は思う。

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