家族のために「祈る」前に、すべきことがある

2013年5月30日木曜日

キリスト教信仰

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 クリスチャンにとって重要なテーマの一つは、「家族の救い(入信)」であろう。

 自分が信じる神様を家族にも信じてほしい思うのは、クリスチャンであれば当然のことだと思う。同じ神様を信じて幸せになってほしいし、信じれば死後に天国に行けるからだ。
 また実際的にも、結婚式や葬儀なんかで家族が同じ宗教だと都合が良い。それに聖書も使徒行伝16章31節で、「イエスを信じれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言っている。

 そういう訳で、クリスチャンは自分の家族もクリスチャンになることを願う。

 それは全然悪いことでない。
 が、そのために教会で行われる事柄に、私は疑問を感じている。

 家族の入信のため、まず教会が手っ取り早く採択する方法は「祈り」である。
「家族が救われるために祈りましょう」
 次に伝道である。これは聖書の話を家族にすることだ。が、身内がしても説得力がなかったりするので、牧師やリーダーが駆り出されることもある。

 この2つを延々と繰り返す訳だが、なかなか入信しないのが一般的であろう。30年、40年かかったという話もよく聞く。

 そんなにノンビリしていられないと痺れを切らした教会が、「霊の戦い」という方法を採択することがある。
「家族が救われないのは、悪霊が彼らを縛っているからだ。悪霊を追い出さなければならない」
 という訳でさらに激しく長時間祈ったり、よくわからない「預言的アクション」に走ったり、その家を「清め」に行ったりしだす。家族を悪魔扱いしているようにも見える。

 そこまで極端でないにしても、熱心なクリスチャンほど、そういう方向に走りがちだ。
 が、その方向性は根本的に間違っていると私は思う。

 奉仕に熱心なクリスチャンの方々を私は尊敬するけれど、その結果忙しくなってしまって、家族との時間を持てなくなる、ということがある。
 彼らは「家族との時間も神様に捧げます」と主張するかもしれない。聖書の「わたし(イエス・キリスト)のために家族を捨てるものは…」という箇所を強調するからだ。が、それは「あなたの父と母を敬え」を忘れてしまっているような気がする。

 例えば若いクリスチャンが普段から教会で忙しくしていて、「母の日」に母親に電話一本かけられないとする。母親はいろいろ愚痴るかもしれないが、もちろん子どもに対しては理解を示すだろう。が、教会とか神とかに対しては、「人を忙しくさせ、家族の関係を希薄にするもの」というような悪い印象を持つのではないだろうか。
 そうだとしたら、神様に対して良い感情なんて持てるはずがない。いくら周りが祈っても伝道しても、心を開かないだろう。それでも30年、40年かかって神様を信じるなら、不幸中の幸いというものだ

 もちろん祈りも伝道も重要だと思う。
 けれど、それと同じかそれ以上に重要なのは、家族を実際的に思いやり、大切にすることだと思う。それはキリストが最重要と言う隣人愛でもある。
 例えば電話一本、手紙一通、あるいはほんの一声だけなら、どんなに忙しくても、気持ちさえあればできる。それに、それだけでも十分に気持ちは伝わる。
 そういう家族を大切にするクリスチャンの姿を見せてこそ、「キリスト教も悪くないかも」と思ってもらえるのではないだろうか。

 そんなわずかなこともできないで、「今は牧会が大変だから」とか「大きな集会の準備があるから」とか「これこれの働きが今最優先だから」とか、本末転倒もいいところだ。まったく何も見えていないとしか思えない

 かく言う私もそういう人間だったので、反省しなければならない。

 今年の母の日は、ささやかながら贈り物と食事の招待をさせていただいた。クリスチャンになって20年近くなるが、やっと母を、少しだが安心させることができたような気がする。

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