先日、久しぶりにペンテコステの礼拝に出席した。
昨年までの約20年間、ペンテコステの礼拝を続けていたが、しばらく遠ざかっていた。およそ半年ほどのブランクだろうか。
馴染みのスタイルのはずだが、非常に長く感じた。時間をみると2時間半程かかっていた。そういえば母教会では、3時間から4時間かかる時もあった。ペンテコステ系がどこもそうという訳ではないと思うが。
今現在、私は主にバプテスト系の礼拝に出席している。そこはだいたい1時間程で終わっている。それが自然に感じられるようになっているから、余計に長く感じたのかもしれない。
多少不謹慎ではあるが、長い原因を考えながらの礼拝だった。私の分析によると、ペンテコステの礼拝が長くなる原因は賛美礼拝と祈りにある。
賛美礼拝におよそ40~50分かけている。曲数は全部で5、6曲だから、1曲にかける時間が長いのがわかるだろう。恐ろしいくらいに繰り返している。サビなど何度歌うかわからない。それに、曲間も長い。「霊歌」とか「フリーワーシップ」とか言うが、次の歌が始まるまでのしばらくの間、人々は祈ったり、自由にメロディをつけて歌ったりしている。下手すると(?)それだけで5分以上かかる場合もある。
そして祈りである。これも非常に長い。何をそんなに祈っているかと言うと、同じようなことを回りくどく表現しているように思える(もちろん人によって違うが)。マタイ6章7節の「くどくどと祈るな」に反しているような気がしてならない。
メッセージが長くなるのはおそらく、教派の違いというより牧師の嗜好であろう。
基本的に、礼拝の時間は長くても短くても構わないと思う。神様に捧げるものなのだから、自分の好みにこだわるというのもおかしな話だ。
が、以前の記事に書いたように、長い賛美礼拝で「主の臨在」を感じようとするのは、脳波の変化や脳内麻薬の分泌の影響を考えると、手放しで肯定することができない。また長い祈りに関しては、上記の聖書の言葉について、よく考えてみる必要があると思う。
また、礼拝時間が2時間にも3時間にも及ぶのは、それだけ信仰的だとか神様を愛しているとか主張する輩がいるかもしれないが、それは単純すぎるだろう。短い礼拝は礼拝ではないという話にもなってしまう。
また長い礼拝は、高齢な方や乳幼児を持つ方に負担を強いる、配慮のない行為ではないだろうか。
それに1時間近く歌ったり踊ったりしているのが、私には何となく、クラブで音楽に合わせてユラユラしている若者たちの姿にダブって見えてしまう。気のせいだろうか。
もちろんペンテコステの礼拝を否定する気はない。神様は心からの捧げ物を喜ばれるから、長さも形式も関係ない。
礼拝の中でそういう疑問を持ってしまう私の方こそ、心からの礼拝を捧げられていないというものだろう。