最新の技術とか、ブームとかを積極的に取り入れようとする教会がある。
映像や音響や照明に多額の費用をかけ、週報やポスターは印刷業者に発注し、インテリアや装飾品もこだわって揃える。
そういう教会の講壇まわりは、舞台芸術のように華やかである。
こういった傾向は、オーストラリアのHillsong Churchや、シンガポールのCity Harvest Church、アメリカのSaddleback Churchなど海外の「メガチャーチ」の影響によるものではないかと思う。どこもあまり「教会」を感じさせない、斬新な雰囲気の教会である。
そのコンセプトは、教会を一般人にとって魅力的な場所にしたい、というものだと思う。従来のスタイルを廃し、あえて外観を変え、楽しいとか癒されるとか、人々が来たいと思う何かを提供することで、教会の敷居を低くしたいのではないか。
それで大勢の未信者が来て、信者になっていくのであれば、彼らの宣教は成功なのだろう。
そういう変化に、私は基本的に賛成である。
いつも書いているように、人とか組織とかにはいつも自己点検が必要で、その点検の結果、必要な改善はしていくべきだと思うからだ。それらの改善は、内面的なものだけでなく、外見にも起こり得る(教会設備にお金をかけるのを改善ととるかどうかで議論になりそうだが)。
それに教会をどうするかは、聖書の規定内であれば、その教会の人々の自由だろう。お金があって、どうしてもその必要があるなら、そうしたらいい。そしてそういう教会が好きな人は、自由に行ったらいいと思う。
が、私が一つに気になっているのは、そういう教会が作るPV(プロモーションビデオ)の存在だ。
いくつかの教会は、自教会の活動内容を映像でカッコよくまとめ、PVとしてYouTube等にアップしている(必ずしもPVという名前で扱っているわけではないが、映像内容は一般にPVと呼ばれるものだ)。誰でも簡単に見ることができる。
それを見て私が疑問に思ったのは、それらのPVをなぜ作ったのかということだ。
もちろん、作った教会側は「教会を紹介するためです」と言うだろう。「教会に来てもらうためです」とか言うかもしれない。
が、よく考えてみてほしい。
最新の映像技術や演出が導入されているかもしれないが、聖書のメッセージを伝える訳でもなく、神について伝える訳でもなく、ただ教会の活動を紹介するだけのビデオを、いったい誰が見るのだろうか?
これは、そういう進歩的な教会をひがんで言っているのではない。
一般人向けであるなら、彼らが見たいと思うような内容にしなければならないはずだ。
聖書のメッセージを伝えるにしても、よっぽど面白おかしくするとか、感動して泣けるようにするとか、それこそプロ並の工夫と努力をして、一般人の関心を引かなければならない。
が、いろいろな教会のPVを見てみたが、気取った断片映像の合間に入るキャプションは「愛」とか「家族」とか、それだけでは全く意味不明な言葉の羅列である。クリスチャンでなければ理解できない。とても一般人を意識して作られたとは言えないだろう。低い視聴数もそれを証明している。あれなら個人が撮影したハプニング動画や動物のおもしろ動画の方が、桁違いな視聴数を獲得できる。
では、誰のために作ったのだろうか?
私が思うに、あれはクリスチャン向けに作られたものだ。
が、教会の仲間内で盛り上がるためにではない。それならネットに公開する必要はない。
それよりも、他教会のクリスチャンのためではないかと思う。他教会に向けて、「私たちはこんな素晴らしい活動をしています。それをこんなカッコいいPVで表現してみました」というメッセージが、背後にあるような気がしてならない。要するに、教会自慢だ。
自分の教会を愛して大事にするのは良いことだが、それを他教会への当て付けのような形で自慢していいものだろうか。それこそ品性のなさを露見してしまっているような気がする。
もちろんPVを作るのは自由だけれど、それがいったい何になるのか、もう少し考えみてはどうだろうか。
少なくとも、それが神の栄光を現すことになるのか、それともただ教会の栄光を現すだけで終わるのか、その疑問にだけは答えてから作った方がいいのではないかと思う。
補足)
実は私も以前、元牧師Mの指示で、教会のPVを無数に作っていた。Mが求める映像を撮ったりネットでかき集めたりして、何十時間もかけて編集し、Mにいろいろ怒られながら仕上げる。そんなことを繰り返していた。
そんな私だから、今回PVが気になったのかもしれない。
さらに補足)
海外のメガチャーチもPVを作っているが、例えばアメリカはキリスト教文化が根底にあるため、PVの存在意義が日本と同じとは言えない。
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