人が聖書の神を信じてクリスチャンになる時は、様々だ。
幼い頃か、成人してからか、老年になってからか、あるいは臨終の間際かもしれない。
が、その方法でいうと、大きく2つに分かれると思う。
一つは、物心がついて以降、聖書の話を聞き、自ら信じてクリスチャンになるというもの。
もう一つは、両親ともクリスチャンで、生まれた時から教会に通わされ、いつの間にか(あるいは当然のこととして)信じているというもの。
前者は一般社会で様々な波にもまれた末の入信となる。
後者は波にもまれるという点は同じだが、そのもまれ方というか、対処の仕方というのは前者と異なる。
両者は同じクリスチャンだが、根本的な違いがある。それは前者はいつ入信したか明確に分かっているのに比べ、後者は往々にしていつ入信したかが曖昧であるということだ。
私自身は前者である。18の時まで聖書の「せ」の字も知らなかった。この場合の入信の仕方について、注意点を書きたい。
ある程度人生を経験した人が教会の門をたたく理由というのは、私の乏しい想像力では一つしか思いつかない。興味があるとか友人がいるとか招待されたとか、外面的な理由はいろいろあるだろう。が、本当のところはただ一つ、苦しんでいるからだ。
何か切実な、だがどうにもできない問題に苛まれていて、救いを期待して教会にやって来る。それを表明しているか隠しているかで見え方が違うが、基本的にそういう人が教会に来るし、人によっては入信する。
入信するのは、聖書の話(福音と呼ぶ)を信じるからだ。
ここで大事なのは、福音そのものの魅力が人を入信させるのであって、語る人間の何かではない、ということだ。つまり重要なのは福音という荷物であり、それを運ぶ人間ではない。
が、入信した人間からすると、そう割り切ることもできない。なぜなら苦しいところを助けられたのだし、自分に話してくれたその人がいなければ、福音を聞けなかったからだ。だからどうしてもその語り手、多くの場合牧師に、恩義を感じてしまう。そうすると教会生活をする上でも、頭が上がらなくなる(これには、日本人の性質も絡んでいそうだ)。
そこがバランスのとれた健全な教会であればいい(完璧という意味ではない)。が、そうでない場合、問題となる。
というのは、入信した人は教理をまだ知らないし、教会が何なのかも知らないからだ。だから多少疑問に感じても「そういうもんか」と納得してしまう。自分の中に比較対象がないから、疑うことがない。
それに、おそらく入信してすぐは、助けられた喜びの方が大きい。教会の在り方がどうかなんて普通なら少しも考えない。
教会の牧師やリーダーにもともと悪意がなくても、十分に監督されない状態にあると、十中八九、何かの問題を起こす。もともとの教会員たちがそれを止められなかったのだとしたら、新しい信徒に止められるはずがない。
というわけで入信した最初の教会で問題が起こった場合、その人が「教会(神様)って何だよ。インチキじゃん」と信仰を捨てることになる可能性が高い。下手するとアンチ・キリスト教みたいな立場にもなり得る。
とすると、その教会は人を救うどころか、滅ぼしてしまったことになるのではないだろうか。
いずれにせよ、私たちは自分の頭でよく考えなければならないと思う。聖書もよく吟味するようにと言っている。教会のリーダーが言ったから正しいと安易に放置せず、本当に正しいのかどうか、考え抜いて自分なりの結論を出すべきだ。そしてそれをリーダーにぶつけてみて、議論になるのは良いことだと思う。
そんなことリーダーに言えないとか、議論にならず一方的にはねつけられるとかいう状況であるなら、それは大きな問題だ。
追記)
キリスト教会に優劣を付けるとはケシカランとか言われそうだが、優劣の話ではない。そして残念ながら、教会には良し悪しがある。
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