恐怖に縛られた教会生活をしていないか

2013年5月20日月曜日

キリスト教問題

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 教会に属するクリスチャンにとって、その教会の牧師との関係は、大切なものだと思う。教会生活だけでなく、今後の人生にも大きく影響するのではないだろうか。

 牧師と信徒との関係は、基本的に両者の人格によるだろう。が、根本的な教会組織の在り方も、影響している。
 例えば牧師を「牧師先生様」と敬い、講壇をも神聖視してしまうような教会風土だと、牧師と信徒の関係は、王様と召使いみたいになり得る。が、逆に長老制の教会だと、牧師との関わりは非常に薄いものかもしれない。そういう教会組織が自ずと作り出す「牧師―信徒関係」というのはあるだろう。

 そのうえで、牧師と信徒との関係というのは、互いの人格の相互作用によって決まっていくと思う。その関係の種類は無数にあるだろうし、いろいろな形があっていいと思う。けれど、その関係が健全なものかどうかは、十分注意しなければならないと思う。

 ここで、牧師との関係をチェックする上で、信徒にできることを一つ書きたい。

 それは、自分の中に「おそれ」があるかどうかを確かめることである。

 元牧師のMは、人を恐怖で縛るタイプだった。これはなかなか伝わりにくい事態かもしれないが、Mと親しくなればなるほど、信徒は彼を恐怖するようになる。
 そういう信徒が何かしようとする時は、Mがどう言うか、どう評価するか、怒るか怒らないか、といったことが基準になってしまう。Mに気に入られれば良し、そうでなければ、何がなんでも改善しなければならない。

 そういう光景を何度も見てきた。信徒どうしリラックスして話している時、Mが部屋に入ってくると、突然緊張が走る。Mが何か言うと、そこにいる全員が注意してそちらを見る。Mの前で何か失敗すると、異常に慌てふためく。
 
 協力牧師Gの話をまた出すが、彼が礼拝中にあるアナウンスをしていた。途中まで言いかけたところ、Mにキッと睨まれて、見事なまでに前言撤回したことがある。彼はMの顔色をずっと伺いながらしゃべっていたのだ。
 例を挙げたらキリがない。
 
 
 そういう恐怖によって縛られた関係というものが、冗談抜きに存在する。それが牧師と信徒である場合、信徒は絶対服従の奴隷と同じである。
 が、「これは神の御心だ」とか「神の命令だ」とか言われて真に受けてしまうから、自分が感じているのが「恐怖」だということもわからない。

 ぜひ教会員の皆さんに確認していただきたいのは、自分の中に牧師やリーダーに対する「恐怖」がないかどうかである。自分を奉仕に突き動かす動機がそういう恐怖であるなら、全てをストップしてでも、自分の立ち位置を見直すべきだと私は思う。

追記)
「おそれ」には二種類あると思うが、今回テーマにしたのは「恐怖」の方である。
 もう一つ、神を正しくおそれる意味での「畏怖」というものがあると思うが、今回の話はこれとは関係ない。

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