「聖霊派」系統の聖書解釈だと思うが、聖書の言葉は「ロゴス」と「レーマ」に分けられるという主張がある。
どちらも「言葉」という意味だが、ロゴスは「書いてある言葉」、レーマは「今語られた言葉」だという。
聖書はすべてロゴスだが、その中のどれかを神が個人に特別に語るとき、ロゴスはレーマとなり、言葉通りに実現する、とのことだ。
私もかつて、母教会でそのように教えられた。
しかしパスカル・ズィヴィ氏(マインドコントロール研究所)によると、聖書に両者の明確は区別はないとのことだ。最近親交のあるいくつかのプロテスタント教会も、そのような区別を否定している。
ということは、どちらかが誤っていることになる。
ここでロゴスとレーマの論争をする気はないが、レーマを信じてきた者として少し書きたい。
このロゴスがレーマに変わる時というのは、例えば「胸に響く」とか、「とても感動した」とか、「強烈な印象を受けた」とか、そういう「感覚」に頼ったものであると思う。私の経験的にもそうだ。
昔はそれを単純に「レーマに違いない」と信じていたが、よくよく考えてみると、日常の中でも同じような感覚を持つことが多々ある。映画を観たり本を読んだり、あるいは自然に触れたりといろいろだが、猛烈に感動することがある。そしてその感動した内容というのは、べつに聖書の話でもないし、神に直接関係あることでもない。それらを神に語られたというのは、少々乱暴であろう。
(もちろん広義には、世界の万象は神から発すると考えられるから、その感動も神から来ていることになる。が、今はそういう話ではない。)
聖書を読んでいて、ある言葉に目が留まる。あるいは聖書がない時に、ある個所を思い出す。
それはお腹が空いた時に吉野家の牛丼を思い出すのと、どう違うのだろうか。
今の自分にとって必要だなと思うことが心に浮かぶのは、人間として当然の機能であろう。それを何でもかんでも「神に語られた」「これはレーマだ」と言うのは、私には信仰者でなく狂信者に見えてしまう。
もちろん、以前の私もその狂信者の一人だったが。
ロゴスとレーマの論争をする気はない。私は原典を読めないから、それを訳して細かく調べたいとは思うが、今すぐできそうにない。だから現時点ではイエスともノーとも言えない。
ただ一つ言えるのは、それは本当にレーマなのか、神が直接、特別な意思をもってあなたに語られた言葉なのか、よく吟味しなければならないということだ。
なぜならそれはあなたの「感覚」頼みだし、人の感覚というのはアテにならないものだからだ。
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