すごい賛美礼拝?

2013年5月14日火曜日

キリスト教信仰

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 私の母教会の日曜礼拝には、新しく来る人が多かった。毎週ではないけれど、けっこうな頻度で新来者がいた。
 が、それはだいたいがノンクリスチャン(未信者)でなく、クリスチャンだった。別の教会の信徒だったり、いろいろな教会を転々としている人だったりだ。
 彼らが来た理由で多かったのが、「この教会の賛美礼拝がすごいと聞いたから」だった。

 賛美礼拝とは、まあ礼拝で歌を歌うことである。讃美歌とか聖歌とか、コンテンポラリーな歌とかを歌って神様を礼拝する。

 その賛美礼拝が「すごい」と言うのは、どういうことだろうか。
 思うに、神様の臨在(存在感)を感じるということであろう。賛美をしていて神様に「触れられる」とか表現するような現象だ。
 その「触れられた」証拠として、感動するとか涙が出るとか、それまでなかった安心感がくるとか、喜ぶとか、実際的に何かに触れられた感覚があるとかというのがある(が、それらが本当に主の隣在なのかどうかはわからない、という記事は以前書いた)。

 そういう「すごい賛美礼拝」を求めて、クリスチャンたちがやって来る。
 その心理は何なのか。

 一つには、心に深い悩みがあって、神様に頼りたいという切実な思いがあるのではないかと思う。
 もう一つには、何かに秀でている教会(?)とか、海外から大物(?)が来るとか、そういう情報を聞きつけて、臨在ほしさにやってくるのではないかと思う。いわゆる「臨在中毒」みたいな人たちだ。

 前者の悩める人たちは、真剣に神様を求めているように思える。もちろん真剣だろう。が、彼らの目的は神様を礼拝することでなく、その神様を礼拝することで得られるかもしれない助けとか、何らかのメッセージとかをもらうことにある。孫が正月に田舎に行く目的が、祖父母に会うことよりも、実はお年玉をもらうことであるのに似ている。
「困った時の神頼み」的な行動で、単なる御利益主義、体験主義だと私は思う。

 その証拠は、彼らが私の教会に来た理由そのものにある。
「賛美礼拝がすごいと聞いたから」
 それが自分の教会にないから、あるいは今まで行った教会になかったから、ということではないだろうか。

「ウェストミンスター小教理問答」という本がある。1643~49年、ロンドンで開かれたウェストミンスター神学者会議において確認されたプロテスタント教理を、問答形式でまとめた本だ。
 これの第一問は、人間の第一の目的は「神に栄光を帰し、神を喜びとすること」となっている。つまり、人間から神への、一方的な礼拝である。これによると、見返りを求めるという動機が含まれた礼拝は、礼拝ではない。

 これは御利益主義、体験主義のクリスチャンが第一に考えるべき事柄ではないかと私は思う。

追記)
 正月に祖父母に会いに行く孫たちを悪者扱いしてしまったが、もちろんそういう孫ばかりではないだろう。
 ちなみに私はお年玉目当てだったが。

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