繁栄の神学、って神学じゃないでしょ

2013年5月19日日曜日

キリスト教信仰

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「繁栄の神学」なるものがある。
 簡単に言うと、いわゆる拝金主義信仰だと私は思っている。
 要約すると、

・私たちが繁栄することは神の御心である(だから繁栄しないはずがない)。
・私たちがまず捧げるならば、何倍にもなって返ってくる(だから捧げなさい)。
・繁栄しないのは、捧げ足りないから、不信仰だからである(だからもっと捧げなさい)。

 となる。
 物質的繁栄は、確かに神の祝福である。が、それは一側面だ。ヨブ記を読むと、その繁栄が取り去られるのもまた、神の祝福であることがわかる。
 新約聖書のパウロも、豊かな時もあったが貧しい時もあったと言っている。繁栄神学信奉者からすると、パウロは不信仰ということになるのか。

 その神学(?)が行き着くところは、何がなんでも繁栄しなければならないという強迫的心理だと思う。彼らには、繁栄していない状態があってはならない。が、それが結果的に、献金強要・奉仕強要に繋がっていくのではないだろうか。

 ある大きな教会に、何度か行ったことがある。行くたびに牧師らが繁栄繁栄と言っているのが気になった。
 そこは実際に繁栄しているようで、年間で億単位の収入があるようだ(詳しい会計報告を見たかったが、会計報告の時にスクリーンに映し出されただけで、書面はなかった)。新しく土地を買ったり、牧師館を建てたりもしている。
 が、特別に献金を強要している様子はなかった。「健康」をテーマにしている教会だからかもしれない。あるいは私はそこの教会員ではないから、内部の雰囲気を感じ取れなかったのかもしれない(その教会が繁栄の神学に浸かっていると言うつもりはない)。

 教団教派によって強調点が違うのは仕方ないことだが、あまりに極端なのは私は歓迎できない。上記の教会だと、裕福でない人は居づらいのではないだろうか。もしかしたら裕福になれない自分を不信仰だと思ってしまうかもしれない。
 キリスト教でいう「繁栄」の反対は、おそらく「清貧」であろう。が、繁栄がダメだから清貧を貫けという話でもない。
 どちらか極端にいくのは、共にバランスを欠いているというものだ。

 そんなバランスの悪い極端な信仰、繁栄信仰や清貧信仰は、「神学」と呼ぶべきではないような気がしている。

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