間違いの連鎖

2013年5月10日金曜日

キリスト教問題

t f B! P L
「レーマ」についてもう少し書きたい。

 以前の記事で、レーマは感覚頼みであり、本当に神に語られたのかどうかは吟味すべきだと書いた。

 が、教会全体がレーマレーマと盛んに言っていたら、それも難しいかもしれない。私もそうだった。
 
 リーダーから「レーマを受け取れ」と言われ、主要な信徒たちの「レーマ体験」を聞かされていたら、真面目な人なら「私も受け取らなくちゃ」と思うだろう。
 すると「レーマとは何か」という疑問よりも、「受け取ったかどうか」の方が重要になってしまう。
 特に年数が経っているクリスチャンなら、それだけ豊富な体験がなければならないという強迫観念からか、何でもかんでも「レーマだ」「神に語られた」と決めつけてしまうかもしれない。それを見る新米クリスチャンたちも右にならえになる。

 が、それは「語られた自分」に安心しているだけではないだろうか。
 その心理状態は、集団催眠に似ている気がする。
 現時点ではレーマ自体を肯定も否定もしないが、そうやって人を体験主義に走らせる在り方には問題があると思う。

 レーマ信仰の教会のクリスチャンを大勢知っているが、みな純粋でやさしい人たちばかりだ。あえて間違いを犯そうなんて思っていないだろう。「レーマを受け取れ」と教えられるから、純粋にそれを実行しているだけだと思う。

 そう考えると、やはりリーダーたちの責任が大きいと言わざるを得ない。聖書もそれを支持している。
 が、リーダーたちのせいだで終わらせることもできない。なぜなら彼らにもリーダーがいたはずだし、そのリーダーにもリーダーがいたはずだからだ。
 レーマのみならず、教会の在り方とか信仰の在り方とかも、代々連鎖してきたのだと思う。そしてそこにある間違いも、延々と連鎖してきている。

 どこかでその間違いに気づき、正そうという動きがあったかもしれない。「もうこんなことをしてはいけない」と方向転換したはずが、いつの間にか、また同じ問題を起こしているということがある。親から虐待を受けて育った子どもが、大人になってから我が子を虐待してしまうのと同じだ。

 その連鎖をどうしたら断ち切れるのか、よくわからない。だがわからないで済ませるべきでもないと思う。たった一人が声を上げても大河に一滴注ぐだけだろうが、その一滴でありたいと願うばかりだ。

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