以前の記事で、レーマは感覚頼みであり、本当に神に語られたのかどうかは吟味すべきだと書いた。
が、教会全体がレーマレーマと盛んに言っていたら、それも難しいかもしれない。私もそうだった。
リーダーから「レーマを受け取れ」と言われ、主要な信徒たちの「レーマ体験」を聞かされていたら、真面目な人なら「私も受け取らなくちゃ」と思うだろう。
すると「レーマとは何か」という疑問よりも、「受け取ったかどうか」の方が重要になってしまう。
特に年数が経っているクリスチャンなら、それだけ豊富な体験がなければならないという強迫観念からか、何でもかんでも「レーマだ」「神に語られた」と決めつけてしまうかもしれない。それを見る新米クリスチャンたちも右にならえになる。
が、それは「語られた自分」に安心しているだけではないだろうか。
その心理状態は、集団催眠に似ている気がする。
現時点ではレーマ自体を肯定も否定もしないが、そうやって人を体験主義に走らせる在り方には問題があると思う。
レーマ信仰の教会のクリスチャンを大勢知っているが、みな純粋でやさしい人たちばかりだ。あえて間違いを犯そうなんて思っていないだろう。「レーマを受け取れ」と教えられるから、純粋にそれを実行しているだけだと思う。
そう考えると、やはりリーダーたちの責任が大きいと言わざるを得ない。聖書もそれを支持している。
が、リーダーたちのせいだで終わらせることもできない。なぜなら彼らにもリーダーがいたはずだし、そのリーダーにもリーダーがいたはずだからだ。
レーマのみならず、教会の在り方とか信仰の在り方とかも、代々連鎖してきたのだと思う。そしてそこにある間違いも、延々と連鎖してきている。
どこかでその間違いに気づき、正そうという動きがあったかもしれない。「もうこんなことをしてはいけない」と方向転換したはずが、いつの間にか、また同じ問題を起こしているということがある。親から虐待を受けて育った子どもが、大人になってから我が子を虐待してしまうのと同じだ。
その連鎖をどうしたら断ち切れるのか、よくわからない。だがわからないで済ませるべきでもないと思う。たった一人が声を上げても大河に一滴注ぐだけだろうが、その一滴でありたいと願うばかりだ。
現時点ではレーマ自体を肯定も否定もしないが、そうやって人を体験主義に走らせる在り方には問題があると思う。
レーマ信仰の教会のクリスチャンを大勢知っているが、みな純粋でやさしい人たちばかりだ。あえて間違いを犯そうなんて思っていないだろう。「レーマを受け取れ」と教えられるから、純粋にそれを実行しているだけだと思う。
そう考えると、やはりリーダーたちの責任が大きいと言わざるを得ない。聖書もそれを支持している。
が、リーダーたちのせいだで終わらせることもできない。なぜなら彼らにもリーダーがいたはずだし、そのリーダーにもリーダーがいたはずだからだ。
レーマのみならず、教会の在り方とか信仰の在り方とかも、代々連鎖してきたのだと思う。そしてそこにある間違いも、延々と連鎖してきている。
どこかでその間違いに気づき、正そうという動きがあったかもしれない。「もうこんなことをしてはいけない」と方向転換したはずが、いつの間にか、また同じ問題を起こしているということがある。親から虐待を受けて育った子どもが、大人になってから我が子を虐待してしまうのと同じだ。
その連鎖をどうしたら断ち切れるのか、よくわからない。だがわからないで済ませるべきでもないと思う。たった一人が声を上げても大河に一滴注ぐだけだろうが、その一滴でありたいと願うばかりだ。
レーマって聖霊様の御心と同じですか?特に結婚の祈りは女性信徒を狂わせると思います・・・。一年以内に結婚するという聖霊様の御心を聞いて、ある女性信徒はある男性が好きだと言ってきたからといってその人を好きでもないのにどうしてもどうしても御心の人か自分の高い信仰にかけて裁いてさばきぬいて、どうしても御心の人だったら結婚の土俵で戦うと言い出して、教会に来始めた男性を何ヶ月も無視してましたし、(どうしてももらってくれる人がいない時の為に保険にしたかったのでしょう)またある人は『私はアメリカ人と結婚するのが神様の御心』と言って、生活保護をもらいながら年に何度もアメリカに旅行に行っていました。傍から見ていると支離滅裂だし、精神的にも破綻しているようにしか見えないんですが。主の御声は本当に吟味しないと単なる自分の欲望の声を主の御声と呼ぶことになりかねないので非常に危険だと思います。・・・それにしても女性は何故結婚が絡むと、狂気にさえ陥っていくのでしょう・・・
返信削除そうですね。レーマって言いますよね。
返信削除普通に聖書にある言葉で、「胸に来た」とか「良かった」とか「感動した」などの言葉を、
どちらかと言えば「主が語られた」ってこじつける事がありますよね。
今の自分の状況に照らし合わせて、こうだからこうですって。
でも、ほとんどの場合は「対人関係」で説明が必要な場合(課題提出?のような場合)に、こう言う風に悩むんですよね。
入念に一生懸命祈り倒して、やっと一条の光が見えて差し込んできて、「やったー。これこそ主が答えてくださったんだー」って喜んでも、ほとんど自分の努力の賜物か、或いは一寸した思い入れか、心の奥深くに潜んでいる思いか・・・。
要するに、自分ひとりだと何の問題も無いんですけど、教会の人間関係が絡むと、本当に複雑ですね。
要は「適当」に当たり障りが無いように、「演技」も必要でしょうね。
教会は「クリスチャンらしく振舞う」事が、無言の常識になっていますからね。