牧師批判はいけない、という平和ボケ

2013年5月21日火曜日

キリスト教信仰

t f B! P L
 ネットには牧師批判、教会批判が少なからずある。
 根拠を挙げた真摯な批判もあれば、品性ゼロの罵詈雑言もある(それは誹謗中傷であって批判ではないだろうが)。
 それだけおかしな牧師が多いのか、あるいはおかしな信徒が多いのか、ということだろうか。

※ここで私が言う「批判」が、全否定や攻撃や中傷を意図したものではないことは最初に断っておく。

 一方で、牧師や教会を批判してはいけない、という声もある。最近読んだあるクリスチャンのブログには、「リーダーたちを何があっても批判し、裁くことはやめましょう」というコメントがあった。

 そういう牧師批判を否定する根拠として、ヘブル13章17節が引用されることがある。要約すると、「指導者に従いなよ。彼らはあなたのために一生懸命やってるんだよ。だから喜んでできるようにしてあげなよ」ということである。

 が、これが牧師批判とどう繋がるのか、私にはよくわからない。

 くわえて、聖書を一節だけ取り上げて何かを主張するのは、曲解につながるので危険だ。
 上記の箇所は確かに「指導者に従え」と言っているが、マタイ7章では「ニセ預言者たちに気をつけなさい」とも言っている。彼らを見分けることの重要性も書かれている。
 そうやって聖書の関連箇所を読んでいくと、「従え」というのが「何でもかんでも従え」という意味でないことがわかる。

 そして何でもかんでも従うのでないということは、時には指導者に対してNOと言うこともある、ということだ。

 ある牧師がいて、「私は牧師であり神の代理人であるのだから、私に絶対従いなさい」と言うとする。
 それで理不尽なことを命じられた信徒が、「先生、それは理不尽では」と答える。
 すると牧師が「私に逆らうことは神に逆らうことだ」と烈火のごとく怒る。

 冗談っぽい話だが、これと本質的に同じことはけっこういろいろな教会で起こっている。

 この場合、信徒にできる最大で最善の行動は、(単なる非難でなく)批判ではないかと私は思う。
本人に直接言ってもダメなら(その可能性が高い)、本人に影響を与えられる方法を考えて、やるしかない。
 もちろん、黙って去る方がいい場合もあるかもしれない。

「批判してはいけない」という意見は意見として尊重するが、あまりにも了見が狭いと言わざるを得ない。それに聖書知識も社会経験も、人間理解も不足していると思う(私自身もそれらを十分に満たしているとは思っていない)。

 批判するなと言う前に、日本のみならず多くの国が政党政治を導入している、その理由を考えてみるべきだ。
 また、絶対に批判されない権力がどれだけ危険なのかも考えてみるべきだ。
 そして、人間がどれだけ弱く、罪深いかも併せて考えてみるべきだと私は思う。

 そうすれば、一生懸命やっている人たちを批判しちゃいけないよ、なんて平和ボケなことは言えなくなるのではないだろうか。

追記)
 その某クリスチャンは同じコメントの中で、牧師を批判し裁くのは神様が決めること、と言っている。
 つまり牧師の問題行動でどれだけの人が傷つき、教会を離れることになったとしても、ただ傍観しているべきだということだろう。

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