牧師でなくビジネスマンだったら・・・

2013年5月13日月曜日

キリスト教問題 雑記

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 2012年4月の問題発生の数か月前から、私の教会の礼拝はおかしくなっていたと思う。
 当時の礼拝説教のメモを見返してみると、F県I市のこととか、終末のこととか、非常に偏った内容だったのがわかる。しかも聖書が開かれていない。

 F県I市の施設取得は、一向に実現されなかった。「主によって取得する」と宣言した2011年9月から、半年が経っていた。礼拝説教ではその言い訳をするかのように、「主の御心の実現を止めるものがある。祈りによって打ち破らねばならない」と元牧師のMが真顔で言っていた。

 そのMは4月の段階で、すでに罪の中にいた。暴力と不正会計と姦淫の罪である。私を含めたほとんどの信徒は、そんなこととは知らず、朝から晩まで真面目に祈っていた。
 今にして思うと、御心を止めていたのはM自身だったかもしれない。

 その頃の礼拝で印象的だった場面がある。協力牧師のGが礼拝説教した時のことだ。Gは牧師歴10年程で、説教の経験も豊富だった。そのGが説教中、たっぷり5分程、講壇上でおし黙ってしまった。何を語るべきか、わからなくなってしまったようだった。私たちはじっとその沈黙の時間が終わるのを待っていた。Mも助け船を出さなかった。

 今思うと異様な光景だった。説教は牧師にとって、最も重要な職務の一つであろう。多くの時間をかけて準備しているはずだ。
 が、おそらくGは、その準備すらできなかった。思うに忙しすぎたのだ。

 教会の主要なメンバーは全員、労働過多の状態にあった。早朝から深夜まで様々な奉仕があるし、Mが招集する時間帯無視のミーティングも多かった。家族の時間どころか、家に帰る時間さえない。それでいて「神に仕えている」という意識があり、「まだ足りない。もっと働かないと」と思ってしまう。しかも給料未払いが続いていて、明日の生活もわからない。
 まさに末期状態である。さらに悪いことに、だれも末期状態だと気づいていなかった。

 Mを弁護する気はさらさらないが、おそらく、その状態はM自身も望んではいなかったと思う。彼は普段から「僕は上昇志向が強い」と言っていた。その上昇志向を自分でもコントロールできなかったのだろう。皆を巻き込み、どんどん自分の首を絞め、身動きできない状態になっていることに気づいていても止められない。2012年4月の教会は、そういう状態だったと思う。

 Mの残したわずかな書類や領収書の類を確認した時、居酒屋のレシートが出てきた。
 飲酒して罪を犯したなと断罪するのは簡単だが、私はそれを見て何ともいえない気持ちになった。
 おそらく、八方ふさがりの状況から逃げ出したかったのではないか。破れかぶれになって、飲酒や姦淫に走ったのではないか。彼はいつも仲間内では高圧的で強権的な態度をしていたが、非常に弱く、臆病な一面もあったのだと思う。

 先日、久しぶりに会った牧師から、Mのことを聞いた。彼は2012年2月にMに会っていた。彼とMは長年の友人関係にあり、親しく話す間柄だった。二人で温泉に入った時、Mが「僕はビジネスマンになれば良かった」と言ったという。

 それを聞いて、合点のいく部分があった。確かに、Mはビジネスマンとしては優秀だったかもしれない。Mは教会を利用してビジネスをしようとしていた、と仮定すると、彼のいろいろな行動や言動の説明がつくような気がする。

 今、Mがどこで何をしているのか私は知らない。問題の責任を何も果たさないまま失踪している。
 彼はこれで、どこかでビジネスマンとして活動できるかもしれない。「ビジネスマンになれば良かった」という言葉の通り、ビジネスマンとして優秀な彼なら成功できるかもしれない。

 が、それも最終的に失敗してしまうと私は思っている。恨みとか妬みとかで言うのではない。彼のその強すぎる上昇志向が解決されない限り、教会だろうと一般社会だろうと、結局は同じ過ちを犯してしまうからだ。
 人間とはそういうものだろう。

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