教会員であるかないか、でなく、どんな教会員であるか

2013年5月22日水曜日

雑記

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 母教会の解散以降、私はまだどこの教会員にもなっていない。
 知り合いの教会の日曜礼拝に出席させてもらうだけで、教会活動からも離れている。
 心配して声をかけて下さるクリスチャンの方々もいて、大変感謝である。

 彼らは口々に、「しばらく休んだら、まだどこかの教会に属したらいい」と言って下さる。
 私もそうだとは思うのだが、それにはまだ時間がかかるような気がしている。

 クリスチャンは教会員であるべきなのか、どうか。
 私個人は、特段の事情がなければ教会員であるべきだと思っている。が、無教会主義の方とケンカする気もないので視点を変えたい。

 教会員であるべきかどうかもさることながら、教会員としてどうあるべきかも大切だという視点だ。

 多くのクリスチャンは、教会で奉仕する羽目になるものだ。が、やっているうちに奉仕で忙しくなってしまうことが少なくない。これは極端な例かもしれないが、奉仕が忙しすぎて礼拝どころでなくなるとか、個人的な祈りの時間や聖書を読む時間を取れなくなるとか、そういう本末転倒なことは起こり得る。

 私も奉仕に忙殺されていたからよくわかる。
 例えば「主との交わり」について子どもたちに教えるため、いろいろ準備する。が他にも奉仕があるから、結局自分の「主との交わり」の時間を削って準備する羽目になる。すると、子どもたちには「主との交わりを第一にすべきだ」と教えながら、それを実践できていない自分自身を発見することになる。
 それは偽善というものだろう。

 そんなふうに、教会員として良かれと思って始めたはずが、いつの間にか神様から離れる結果になる、ということがある。
 そうであるなら、教会員であることがその人にとって益なのかどうか、疑問ではないだろうか。

 あるいは、それは単に奉仕のバランスが悪いからか、そのクリスチャン個人の問題であって、教会員であるかどうかは関係ない、と言うかもしれない。
 が、奉仕のバランスにしても信徒の教育にしても、やはり教会員とは何かという、その教会の根本について話し合わなければ解決できないような気がする。

 熱心に、忠実に教会に仕えておられる教会員の方々を、私は本当に尊敬している。
 と同時に、教会員であることに安心するのでなく、日々その在り方を問うことのできる方々を心から尊敬している。
 そういうバランスの取れたクリスチャンが、これからの教会には絶対的に必要なのではないかと私は思う。

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