誰のための奉仕なのかを考えるススメ

2013年5月6日月曜日

キリスト教問題

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 神様のために何かしようとする時、結局のところ、礼拝に勝るものはないと私は思っている。

 が、皆で礼拝するには準備が必要だし、そのためには教会が運営されていなければならない。そして教会が運営されているのなら、当然宣教活動も出てくる。
 というわけで、クリスチャンは幸せに礼拝だけしている訳にもいかない。もちろん全員ではないが、多かれ少なかれ、教会で何かの仕事をすることになる。

 その仕事は「奉仕」と呼ばれるが、これがなかなか厄介な問題を含んでいると思う。

 奉仕は基本、「自分にできること」をすべきだろう。ピアノができる人はピアノ奏楽をした方がいいし、パソコンの心得がある人は週報をつくった方がいい。苦手なことをさせるのは効率が悪いし、本人も喜んでできないからだ。
 そしてこの「自分にできること」というのは、その人の好きなことだったり趣味だったりする。

 では、奉仕とは自分の好きなことをすることかというと、少し違う。
 なぜなら好きなことだけで、教会活動の全てが賄われるとは限らないからだ。例えば礼拝には司会者が必要だが、好んで人前に立つ人は、そうはいない。では無理矢理させる訳にはいかないから、司会者なしで礼拝するかというと、それもできない。たとえ「今日は司会者なしでいきましょう」ということになったとしても、「じゃあ次は説教です」と誰かが言わなければならないし、それを言った人が自ずと司会者的役割になってしまう。

 つまり、奉仕には、自分が好まないことをするという側面がある。

 それを支持する聖書箇所に、例えばキリストの十字架がある。キリストは十字架に架かりたくて架かった訳でなく、全人類救済のため、自ら犠牲となって架かった。

「弟子訓練」主義の牧師や教会は、このあたりの理屈を使う。「イエス様が自ら犠牲になったのだから、私たちも犠牲を捧げるべきだ」
 それは間違っていない。
 だから余計に厄介だ。
 上記の司会者の例のような「好まないことでもしなければならない」状況というのは、一般常識として多くの人が理解する。それをあえて「したくない」と言うのは、子供っぽくて普通ならできない。
 それに牧師などが「これは神様のためだ」とか「神様があなたを召している」とか言ったら、真面目な人は断れないだろう。神様を否定することと思ってしまうからだ。

 その結果、極端にいくと、「したくないことこそ奉仕だ。好きなことだけやってる奴は甘っちょろいヒヨッコだ」という雰囲気になってしまう。
 そうすると教会は一気に、「ガマン大会」の会場になる。しかもそのガマンには、終わりがない。
 それでも、その奉仕が神の役に立っているならまだ救いがあるだろう。が、そういう教会の奉仕は大概、神の願いでなく牧師の願いだったり自分自身の願いだったりする。その場合は御愁傷様と言う他ない。

 何事にもバランスが必要だ。
 好きなことだけでは生きられないが、嫌いなことをし続けることもできない。
 教会で奉仕をしている人には是非、そのバランスについて考えてみてほしい。その奉仕は誰の栄光を現すためだろうかと。

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