奪われないとその存在がわからないもの

2013年5月30日木曜日

教育

t f B! P L
 日本で「チャーチスクール」が登場しだしたのは、西暦で言うと2000年前後であろう。2001年の秋、私の教会でもチャーチスクールが始まった。
 当時、子どもがちょうど学齢期に達した私は、チャーチスクールか公立学校か、選択することとなった。そして私はチャーチスクールを選択した。

 当時に戻れるとしたら、私は公立学校を選択するよう当時の自分を説得するつもりだ。
 が、当時は当時で、最善の選択をしたつもりだったのもまた事実である。

 当時の自分を分析してみると、積極的にチャーチスクールを選んだというより、公立学校を避けたかったという気がする。チャーチスクールがどんなものなのか、牧師の話から想像するだけだったから、それも当然だろう。それに、自分自身も公立学校に良い思い出がなかった。

 私は小学校から高校まで公立で過ごしたが、何が一番嫌だったのか突き詰めて考えてみると、自由がなかったことではないかと思う。

 公立学校は基礎学習の他、規律とか集団行動とかを身につけることに重点を置いているのだから、自由がないのは当然と言えば当然である。しかし(自分も含めて)子どもというのは未熟なものだから、それを「束縛」とか「没個性」とか、殊更に悪く思ってしまうのかもしれない。もちろん公立学校そのものの問題とか、教師との関係あるいは同級生との関係の問題もある。

 私のチャーチスクールは、そういう公立に反発してかどうかわからないが、子どもの自由を尊重する雰囲気があったと思う。もちろん規律を守らせてはいたが、少人数だったこともあり、その「厳しさ」は公立からしたらかなりユルい。子どもたちはさぞ自由であったろう

 が、それが良いかどうかは別問題である。
 今、チャーチスクールで育ってきた子どもたちを見てみると、それがわかる。
 その現れは子どもによっていろいろで、例えば考えが甘いとか、軟弱だとか、非社交的だとか、若くして頑固だとか、諸々ある。
 しかし、それは結果的なことで、公立で育った子たちにも同じような問題はある。
 そういう枝葉末節はさておき、私がチャーチスクールで育った子たちを見て一番問題に思うのは、自由が何なのかわかっていないということだ。

 これは極論かもしれないが、公立学校で規律を守らされ、一定の自由を奪われた状態というのを通らなければ、自由のありがたさはわからないのではないだろうか。
 これは私たち日本人が、平和であることを殊更に認識することがないのに似ているかもしれない。

 もちろん、公立学校で重いダメージを受けて苦労する子もいるし、チャーチスクールで伸び伸び過ごせて自分自身を取り戻す子もいる。以前書いたように、どんな教育が子どもにとって良いかはなかなかわからない。

 ただ、公立学校を「個性が奪われる」とか「集団行動ばかりで意味がない」とか批判する前に、そこで受けられる恩恵について認識する必要があるのは確かだ。

 奪われてみないと、認識することはできないかもしれないが。

追記)
 教会のカルト化問題の掲示板を見ると、「チャーチスクールをやってる教会はカルトだから、そこで育ったのはみんなカルト。クリスチャンなんて呼べない」というような意見があるが、何を根拠にそう言うのか聞いてみたい。私はチャーチスクールもクリスチャンの若者たちも批判的に書いてきたが、その反面で、若くて立派なクリスチャンも大勢いると認めている。そんな偏狭なことを言う人間こそ、クリスチャンとは呼べないような気がする。

QooQ