継続できないなら、始めるべできはない

2013年5月26日日曜日

キリスト教問題

t f B! P L
 何年か前に、韓国のソウルを訪問したことがある。
 観光でなく、教会研修としてだった。ソウル市内には無数の教会があるが、比較的大きな4つの教会を見させていただいた。どれも日本では考えられない規模であった。

 その期間中、ある教会の主任牧師に、タイミングよく会うことができた。
 なかなか会えない人らしく、「たいへん貴重なことですよ」と言われたのをよく覚えている。
 その主任牧師と話したのは15分くらいだったと思う。こんなことを言っていた。

「韓国人は何でも始めるのが得意だが、継続するのが苦手。
 日本人は始めるのが苦手だが、継続するのは得意。
 韓国人と日本人が一致協力すれば、とても良い働きができる」

 当時はそうかと納得していた。確かに、知り合いの韓国の方々は積極的で行動力がある。
 日本人はどちらかと言うと、引っ込み思案な人が多いかもしれない(もっとも、それは国民性の違いの話であって、すべての韓国人と日本人に適用できるものでは、もちろんない)。

 が、日本人の継続力というのも疑問である。
 私の今は亡き母教会を見てみても、何かを始めても長続きしないということが多かった。
 例えば先日書いた「地域を縛る悪霊を追い出す祈り」というのも、教会の使命だとか言いながら短期間しかしていない。また海外からゲストとかが来て、例えば「いやし」にフォーカスが当てられると「いやしのために祈ろう」と言い出し、「家族」にフォーカスが当てられると「家族の回復だ」と言い出す。
 そういうメンタル的な事柄ならまだいいかもしれないが、たとえばスポーツ教室とか、楽器教室とかいう、人とお金にかかわる事業が継続できないのは大問題だろう。何も知らないで利用する一般の方々からしたら、「教会ってずいぶんいい加減だな」という話になってしまう。

 どれも長続きしないというのは、ムーブメントに乗っかっているだけなんだと思う。

 継続することの重要性を、つくづく思う。
 知り合いの若者にも、就職したり進学したりしても何ヶ月かで辞めてしまう子がいる。理由を聞くと「何か違うと思った」とか「他の道に導かれた」とか言う。
 が、職場にしても学校にしても、何ヶ月かでわかることなんてタカが知れている。良い面もあれば悪い面もある。その時期によって違う面を見せることもある。順調な時もあれば、困難な時もある。「石の上にも三年」と言うが、長く続けているからこそ見える風景があり、言える言葉がある。
 それをほんの数か月で「見切った」と言うのは傲慢というものではないだろうか。

 教会あるいはクリスチャンであるなら、「継続」することに誠実であるべきだと思う。
 特に「神様に語られて」何かを始めるのだとしたら、簡単に止めてほしくない。困難な時も、自分が飽きた時も、誰もいなくなった時も、あくまで続けてほしいと思う。それを「神様に止められた」と言うのなら、始めるときに「神様に語られた」ことを再確認すべきだ。神様のせいにしてはいけない

追記)
 もちろん何にでも、始まりと終わりがある。一定の期間や成果を得て後、それを終えるにふさわしいタイミングというのはある。どんなことでも始めたら絶対にやめてはいけない、という極端な話をしているのではない。

QooQ