死者をよみがえらせた…それで?

2013年5月17日金曜日

キリスト教信仰

t f B! P L
 前回「いやし」について書いたが、その関連で「死者のよみがえり」について書きたい。

 昨年8月の川口リリアの集会に、タンザニアの牧師がゲストとして迎えられた。彼の得意分野(?)は「死人のよみがえり」だそうで、すでに400人以上を生き返らせているという。それと関係あるかどうかわからないが、ナイジェリアではすでに1000人以上の人間が生き返っていて、アフリカではそんなことぜんぜん珍しくないよ、朝飯前だよ、的な表現で宣伝されていた。

 その集会の一部に、私の母教会も奉仕で参加する予定だった。
 が、同年4月に元牧師のMが失踪したので、それもなくなった。だからその集会には私は行っていない。
 その後、集会中に死人が生き返ったという話は聞いていない。

 その集会の実行委員の一人は、新宿のある教会の牧師である。その教会では「24時間の祈りの家」が始まっているが、この「死人のよみがえり」にも積極的なようだ。これは関係者から聞いた話なので確証はないけれど、そこに死体を安置して、生き返るように祈ったこともあるという。

 死者が生き返るという信仰の、聖書解釈上の問題はさておき、私が気になるのは、その紹介の仕方である。

 
 上記のタンザニア牧師のように「400人以上を生き返らせた牧師」と紹介されたなら、人々の注目は神様でなく、その牧師に向くだろう。「神様はすごい」でなく、「この牧師先生様はすごい」ということになる。そしてそれは神様に栄光を帰さないことで、反聖書的であろう。

 それにそれが集客目的の釣りネタだとしたら、なお悪い。
 上記の集会の抄録を見たが、その生き返らせた実例と新聞記事らしい画像を挙げるだけで、何の証拠も提示していない。「400人以上を生き返らせた」ことはすでに前提条件となっており、それを疑うのは不信仰だと言いたいようだ。

 さらに抄録を見ると、「日本の霊的武器庫が開かれた」というのがメッセージの主眼となっているのがわかる。「だからあなたの問題が解決していく」という。

 
 そういうメッセージを受ける人々の関心は、どこに向くだろうか。
 まずは「死者のよみがえり」に、次は「霊的武器庫」に、そして最後は「自分の問題が解決される」に向く。
 どこにも神様がいない。
 結局、「繁栄の神学」に人々を向かわせるだけなのだ。

「いやし」や「よみがえり」で、人々を釣っているだけのような気がしてならない。

 私は「いやし」も「よみがえり」も否定しないが、それを肯定するには、慎重でなければならないと思っている。

 そのタンザニア牧師が生き返らせたという400人以上の人々が、今どんなふうにして神様の栄光を現しているのか、ぜひ聞いてみたい。
 なぜなら神様が働かれるのは、いつも「神ご自身の栄光をあらわすため」だからだ。

追記)
 ちなみに「霊的武器庫」が何なのかよくわからないけれど、非常に都合のいい表現だと思う。
 なぜなら「霊的武器庫が開かれた」と言った後、誰かに何か良いことが起これば、「ほら、だから言ったでしょう」と言えるし、何も起こらなくても、「もう武器庫は開かれている。もっと祈りなさい」で済ませられる。
 こう書くとまるで詐欺の手口みたいに聞こえるが。

QooQ