2014年12月30日火曜日

【雑記】自分にとって大事なこと・指定された献金額・態度急変の理由

 ちょっと気になっている、けれど一つ一つは記事にするほどでもない雑感の詰め合わせ。

・自分にとって大事なこと

 先日シリーズで書いた映画『神は死んだのか』の中で、主人公とガールフレンドが言い争う場面がある。
 主人公は信仰を守る為に無神論者の教授と対決しようとしていて、二人の将来を潰されたくない彼女はそれに猛反対する。それで激しい言い争いになって、主人公もついに声を荒くしてこう言う。「これは僕にとって大事なことなんだ」

 奇しくも劇中で、まったく同じ台詞が再び出てくる。
 中国からの留学生が、主人公と教授の対決を見ているうちに、神の存在を信じるようになる。そして中国にいる父親に電話でそれを伝えるのだけれど、取り合ってもらえない。逆に「バカなこと言ってないで勉強しろ」とか怒られてしまう。そこでこの台詞を言うのだ。
「これは僕にとって大事なことなんだ」

 聞いてもらえないから一生懸命伝えようとする、という意思は理解できる。クリスチャンとして信仰を伝えたいという気持ちも理解できる。けれど対立関係にある相手、つまり自分の信仰に理解を示さない相手に対して「これは自分には大事なことなんだ」と主張するのは、いささか自分勝手な気がした。つまり自分にとって大事なことはこれだと相手にぶつけるだけで、相手が言わんとすること、相手が大事に思っている価値観を無視することになるからだ。クリスチャンの立場で考えれば当然の台詞に思えるかもしれないけれど、これはよく考えるとフェアでないように思う。

 キリストの弟子たちが伝道旅行に出た際、受け入れられなかったら「足のチリを払いなさい」と命じられた。つまり福音を受け入れない者は祝福されない、という意味だ。そのメッセージの印象が強いせいか、「伝道はするけれど結果は知らん」「とにかく伝えるだけ、あとは祈るだけ」という傾向のクリスチャンが多いような気がする。
 もちろんその主張は正しくて、私たちは未信者に無理矢理信じさせることはできない。伝道の結果の責任を負わされたら大変なことになってしまう。けれどそれに傾きすぎると、「聖なる真理を伝える私たちは正しい。受け入れない連中は愚かだ。私たちの信仰が唯一絶対正しいのに」みたいな原理主義にもなってしまう。そこには相手の立場に立ってみるとか、思いやってみるとか、そういう歩み寄りの姿勢がない。

「これは自分にとって大事なことなんだ」と言って相手の気持ちを理解しようとしないのは、そういう原理主義と同じではないかと私は思う。

・指定された献金額

 ある教会の年配のクリスチャンが、牧師に献金を申し出た。まとまったお金が入ったから、教会の必要の為に捧げたい、だから今現在教会にどんな必要があるのか教えてほしい、というような申し出だった。彼は非常に敬虔で、紳士的で、教会のために喜んで捧げようとしていた。
 それで牧師が感謝しつつ答えた。今○○をするために××を購入する必要がある、だから△△万円捧げて下さい、と。
 彼は確かに教会の必要について知りたくて、可能な範囲でそれに捧げようとしていた。けれどまさか金額まで指定されるとは思っていなかった。献金する上でもっとも大切なのは犠牲を犠牲と思わない献身の心であって、金額は関係ない、とその牧師に教えられていたからだ。

・態度急変の理由

 ある教会が、礼拝をリアルタイムでネット配信しはじめた。しばらく経ったある日、ネット配信の担当者が間違えて、礼拝前のリハーサル時から配信を始めてしまっていた。リハーサルでは牧師が奉仕者たちをガミガミ怒り、怒鳴り散らしていた。
 途中で担当者が気づいた。「すみません、もうネット配信しちゃってました」
 牧師の表情が変わった。「え、今のネットに流れてた?」
 この「今の」が何を指すのかよくわからないけれど、牧師は急に笑顔で「なんだよぉ、これじゃ俺がすごい悪者みたいじゃん、なあ?」と猫なで声を出した。
 その後のリハーサルが和気あいあいと進んだのは言うまでもない。もっとも担当者は気づいた時点で配信停止していたので、そこで態度を変えても意味がなかったのだけれど。

2014年12月29日月曜日

「神様を賛美したいから献金して下さい」という(?)な話

 教会の若い信徒とか神学校の生徒とかが、「神様を賛美するビジョンが与えられました」と言ってバンドを結成することがある。それでバンド活動を始めるのかと思うと、まず「楽器がないから献品を募ります」とか「活動資金を募ります」とかいう呼びかけから始める。納得してしまいそうだけれど、いやいやちょっと待てよと偏屈な私は思ってしまう。
 
 教会に集う若者とか神学生とかは(大抵は)金銭的余裕がないから、やりたいことがあっても思うようにできない、という状況はあると思う。だから何かしたかったらまず先立つもの用意しなければならない、というのはよく理解できる。
 
 けれど、たとえばこの「神様を賛美したい」というケースの場合、まず自分たちにできる「賛美」から始めることはできないのだろうか。楽器がないならちょっとバイトして安いのを買えばいい。初めから良い楽器が全部揃っているとか、スタジオがあるとか、活動の場があるとか、そういうお膳立てがなければ始められないという道理はない。それこそアカペラとか、安いギター一本とか、教会堂にずっとあるピアノ一台とかでも、練習すれば賛美はできる。フルオーケストラの賛美もアカペラだけの賛美も、神様の前ではきっと同じだろうに。
 
 だから上記のような「呼びかけ」になってしまうのは、「こういうバンド構成でこんな場所でこんな演奏がしたい」というような自分たちの願望が初めから混じっているのではないだろうか。彼らの頭の中にある「神様を賛美したい」は、何もない、およそ賛美できるような状況でない時でもとにかく賛美したいみたいな、ハングリーなものではない気がする。
 
 まあそれぞれに事情や思いがあるだろうから、一概には言えないけれど。
 
 ところで「神様を賛美したい」と聞くと、私は数年前に知り合ったアジアの若いクリスチャンたちを思い出す。
 東日本大震災の後、外国人クリスチャンがたくさん被災地支援に駆けつけてくれたけれど、彼らもそういう善意の人々だった。私はたまたま彼らと数日間一緒に過ごすことになった。彼らは出会った時から「賛美が好きです」と言っていたけれど、東京―仙台間の車中も、支援活動の合間も、自由時間中も、とにかく暇さえあれば歌い出す程であった。彼らにとって歌うことは息をすることのようであった。もちろん誰かに強いられてでなく、虚栄を張ってでもなく、ただそうしたいからしている、という感じだった。
 
 彼らに冒頭の「賛美したいから〇〇下さい」を聞かせたら、「え、賛美したいならすればいいじゃん」とあっけらかんと言いそうだ。うん、確かにそうだと私も思う。

2014年12月28日日曜日

神の存在の証明・あるいは反証について。映画『神は死んだのか』から。

 前回に続いて、映画『神は死んだのか』から。

 この映画に私がもっとも期待したのは、無神論者がどんな主張で神の存在を否定し、クリスチャンがそれにどう反論するか、という議論の部分である。この映画が双方の主張を全て出し尽くしているのかどうかわからないけれど、まとめるとこんな感じだ(ネタバレになるので未見の方は注意)。
 また、一回観ただけなのでたぶん全部は網羅できていないと思う。そこはご容赦いただきたい。

■無神論の主張

・ニーチェ、カミュ、フロイト、チョムスキーなどの著名な学者はみな無神論者だった。
・そもそも神の存在を科学的に証明できないではないか。
・理論物理学者ホーキングは、宇宙が自発的創造によって自らを作ることができたと言っている。つまり宇宙の創造に神は必要なかったと。
・全能の神が存在するなら、なぜこの世に悪や不幸があるのか。

■クリスチャンの主張

・神が存在しないと証明することもできない。
・ダーウィンの進化論によると、生物は非常に緩やかに進化してきた。けれど宇宙誕生から現代までを24時間とすると、人間の出現は最後の数秒間(確か)の出来事であり、その変化はあまりに急激すぎる。
・ホーキングが偉大な物理学者だから間違えないとは限らない。
・宇宙が自発的創造をしたとして、その理由は? 宇宙に意思があるのか? 神が意思を持って作ったのでないと創造のストーリーが説明できない。
・この世に悪や不幸があるのは人間に自由意思が与えられているから。
・神がいないなら、聖書の基準に従う必要もなく、道徳も必要ない。ドフトエフスキーは「神がいなければ全てが許される」と言っている。
・(ラディソン教授の「私は神を憎んでいる」という発言について)存在しない相手をなぜ憎むことができるのか?

 だいたい以上だと思う。
 見ての通り、無神論者の主張の方が論理的に明らかに弱い。
 哲学を長く教えてきたラディソン教授にしては根拠が薄いのと、新入生のジョシュにしては論理武装が充分すぎるのとで、結果的に勝負にならなくて違和感がある。まあそこは映画だから仕方ないとは思う。けれど前回書いた通り、これはクリスチャン映画であり、結論ありきのストーリー展開でもあるから、無神論者にとっては出発点がそもそも不利だったかもしれない。

 また、そこまで論理的でなくても、自分自身の存在が単なる偶然なのか、あるいは自分より偉大な存在(それが神でも何でもいいけれど)の意思によるものなのか、という点で考えると、後者の方がよっぽど救いがあるように私は思う。単なる偶然だとしたら、生きる意味も価値も見出しづらくなるからだ。

 それに仮に創造者が存在しないとしても、自分は何らかの意図をもって創られた、誰かが自分を創ってくれた、と信じて生きる方が、それなしに生きるよりも、より良い人生を送れるのではないだろうか。

 ただしその結果クリスチャンになって信仰生活を送るとして、じゃあどんな教会でどんな信仰生活を送るかというのは、また別の難しさを持つ問題である。そこで全部が台無しになる、ということもあり得るからだ。

 この映画について反芻しながら、そんなことを考えた。
 繰り返すけれどこれはクリスチャン映画であり、(言葉は悪いけれど)クリスチャンにとって都合のいいように作られている。また前回書いたような危険性も感じさせる。
 けれど同時に、クリスチャンだからこその良さも私は思い出させられた。神を否定しろと言われて、イロイロ考えたけれどやっぱり否定できない、そんな主人公の姿に、クリスチャンなら誰もが共感するのではないかと思う。

 単館系だから上映期間も短いかもしれないので、興味のある方は早めに劇場へどうぞ。

2014年12月27日土曜日

神は死んでないけれど、問題はそういうことではない。映画『神は死んだのか』から。

 先日も取り上げた映画『神は死んだのか』を観てきた。
 
 あまり前情報を入れずに観たのだけれど、コッテリしたクリスチャン映画であった。系統としては Facing the Giants とか Fire proof とかに似ている。試練に遭遇した主人公が、神に信頼しつつそれに挑み、苦境の中に光明を見出して、最後はハッピーエンドという定番の流れである。映画として卒なく作られていて、感動ポイントも用意されている。ご都合主義なところもあるけれど、クリスチャン映画として私は素直に楽しめた。
 
 それと同時にイロイロ考えさせられた映画でもあった。映画は映画で良いとして、この話を現実の教会事情と照らし合わせてみると、ハッピーエンドだから良かったでは済まされないところもある。そういう危うさを感じた点を、いくつか取り上げてみたい。

※ネタバレ含むので未見の方はご注意を。
 
・信仰を貫くためなら全てを捨てる
 
 大学の哲学クラスのラディソン教授が、最初の授業で生徒全員に無神論者だと告白するよう強要する。生徒らは、単位を落としたくないから「神は死んだ」(God is dead)と書いて提出する。しかし主人公のジョシュは真面目なクリスチャンなので書けない。そして教授に目を付けられて、講義の中で神の存在を証明する羽目になる。
 
 信仰のゆえ、苦境に立たされた訳だ。証明できなければ単位を落とすことになるから、親もガールフレンドも反対する。けれどデイブ牧師からマタイ10章32節(わたしを人の前で認める者は・・・)を教えられて、挑戦することにする。彼女は離れて行った。
 
 これは「踏み絵」と同じだ。信仰を捨てるか、単位や彼女や安定を捨てるか、極端の二者択一である。
 その前にこのパワハラ教授を訴えるという手がある気がするけれど、ジョシュは信仰を選ぶ。それ自体は素晴らしことだと思う。けれどクリスチャンにとって正論である「全て捨てても信仰を選ぶべき」は、昨今の教会においては危険な香りを放っている。「主がこう言われる」という牧師の一方的な主張によって信徒が振り回される、その根拠となるからだ。
 
 たとえば仕事を辞めて収入がなくなっても主に献身すべきだ、命を懸けるのが献身だ、という踏み絵を突き付けられることがある。真面目な信徒らは「すべては主のために」と思って「牧師が言う信仰」を選んでしまう。
 そういう理不尽な決断を後押しする根拠として、この映画が使われないことを願うばかりだ。
 
・主はクリスチャンをこと細かく導いている
 
 ジョシュが通う教会のデイブ牧師は、来米した友人のジュード牧師を連れて観光に行こうとするが、なぜか車の故障が重なって行けない。そうやって足止めを食っている間に信徒らの危機に遭遇し、彼らを助けることになる。
 そして最後、ついに車で出発というところで、目の前でラディソン教授が事故に遭う。死にゆく教授に牧師は福音を語り、信仰に導く。教授は息を引き取る。
 そこまで観て、デイブ牧師の車が何度も故障したのはこの為だったとわかる。つまり、神が導いていた、という訳だ。
 
 これ自体も素晴らしいことだと思うけれど、やはり危険臭がする。
 昨今の教会では、何でもかんでも「神の導きだ」と決めつけられる傾向がある。たとえば車のナビが故障して、目的地でない場所に着いた。「これは神がここで霊の戦いをしろと言っているのだ」ということことで、「異言」の祈りが始まってしまう。
「神の導き」はあると思うけれど、それが単に自分軸の話、自分から見た景色に終始してしまうとしたら、それは思い込みでしかない。
 
・知り合いみんなにメールを送ろう、「神は生きている」と
 
 オーストラリアのバンド、ニュースボーイズが本人役で出ていて、最後のライブシーンに登場する。そこでGod's not deadを歌うのだけれど、こんなMCが入る。「この曲の最中、知り合いみんなにメールしてくれ。『神は生きている』と。ここにいる皆が送ってくれれば、同時に何百万人にも伝わることになる」
 それで会衆は嬉々としてメールを送る。そこで映画は終わるのだけれど、最後に「あなたもこのムーブメントに参加して、メールを送りましょう」みたいなテロップが流れる。盛り上がって終わるし、感動もしているから、良いことのように思える。「熱心な」クリスチャンならその場で送ったかもしれない。
 
 けれどこの場面だけがどうも残念である。正直な話、このテロップで私はそれまでの感動が一気に覚めてしまった。
 アメリカのクリスチャン事情は知らないけれど、これが日本だったらどうなるか。
 クリスチャンの知り合いから突然メールが来て、「神は生きている」とだけ書かれている。たぶん大抵の人は「何言ってやがる」となるだろう。狂信的だと思うかもしれない。そうでなくても好印象は持たれないだろう。
 
 この行為は、クリスチャンなら正当性があると思うかもしれない。けれど送られる側の気持ちを考えていないというか、独善的というか、どこか手前勝手な行為に思える。「これはいいものだ。だから提供してあげよう」という上目線の、余計なお世話な気がする。
 
 と、最後の場面には苦言を呈してしまったけれど、映画として良かったと私は思う。
 無神論者がどんな主張をして、クリスチャンがどんな反論をするのか見たかったし、そのへんも勉強になった。次回はそれについて書きたいと思う。

2014年12月26日金曜日

「イエス様のマジな弟子」って何なのだろう・その2

 一部の教会が推進している「弟子訓練」について。2回目。
 
「イエス様のマジな弟子」を作りたいと言って徹底的に訓練した結果、牧師の言いなりの弟子、牧師の言うことしか聞かない弟子に仕上がっている。としたらそれはキリストの弟子でなく、「イエス様のため」でもない。牧師の弟子であり、牧師のためだ(かつそれは偶然の結果ではない)。
 というのが前回のまとめ。
 
 弟子訓練をやる教会は、基本的に信徒は全員弟子である。弟子訓練がその教会の「DNA」だからだそうだ(そういえば若手牧師は「教会のDNA」という言葉を好んで使う)。
 と言っても全員同列の弟子でなく、何となく序列みたいなものがある。新しい信徒は一番下位の弟子で、それを教える先輩弟子がいて、さらにその先輩を教える大先輩もいて、またその上もいて・・・みたいな一種のヒエラルキーになっている。
 
 その教会に長くいれば、自然と後輩弟子を指導するようになり、必然的に自分が先輩弟子になる(よっぽど問題アリなことをしなければ)。さらに長くいると、あるグループのリーダーとか、ある奉仕の責任者とかになる。ヒエラルキーを徐々に上っていく感じだ。
 
 その弟子訓練のゴールが何なのかよくわからないけれど、一つのコースとしては、
 
①働きながら弟子訓練を受ける

②パートタイムの教会スタッフになる(仕事を少し減らす)

③フルタイムの教会スタッフになる(仕事を辞める)

④伝道師、インターン、牧師見習い、みたいな存在になる

⑤牧師になる(?)
 
 というのがある。
 ちなみに最後の「牧師」というのは、こういう教会の場合、神学校卒業とかでなく、いわゆる「教会認定」みたいな形で就任することが多い(こういう牧師が外部で牧師を名乗ったら身分詐称になる気がするけれど、どうなのだろうか)。
 
 この「献身コース」を歩むことは、教会内では価値あることとされている。憧れる若者も少なくない。神に特別に選ばれた者、召しのある者、霊的な者、と評されるからだ。そして最終的に枝教会の牧師なんかに任命されると、一番トップである主任牧師から物理的に離れるので、今度は自分がヒエラルキーのトップの座に着く。そして新たなヒエラルキーを構成していく。
 
 そんな風にして、ヒエラルキー化した「弟子組織」が教会内で形成されていく訳である。そこでは献身する者ほど、上位に上っていく。そして上位の者ほど特別扱いされ、発言力が増す。
 
 と、いうのが「弟子訓練」を実践する教会の実態である。多少の差はあれ、本質は同じはずだ。そして「イエス様のマジな弟子」というのは、これを上り詰めていく人のことを指している。
 
 その構造自体は問題ないかもしれないし、教会の政治形態の一つとしてアリかもしれない。
 けれど明確な上下関係ができることで、危険性が高まるのは否めない。たとえば下位の者は上位の者に逆らえない、どんなことにも従順しなければならない、上位の者の「啓示」の方が重視される、上位の者はいつも(どんなに間違えても)正しい、等の危険性だ。
 一歩間違えば、とんでもないことになりそうである。
 
 またヒエラルキー化することで上下関係や序列が発生するのは、結局のところ一般社会の多くの組織と同じではないか。頑張った者、認められた者、気に入られた者、影響力のある者が「出世」していく訳で、「上に立ちたい者は皆に仕えなさい」という聖書の言葉を実現するものではない。
 だからそういう「弟子訓練教会」でどれだけ聖書を実践できるのか、私は大いに疑問である。

「イエス様のマジな弟子」って何なのだろう

「イエス様のマジな弟子を作る」のを目標にしている聖霊派教会がある。

 多くの若者を救いに導いて、イエス様の本当の弟子にして、日本や世界を福音化していくのだ、みたいなキレイな理想を掲げている。それが実現してくれれば良い。けれどいわゆる「弟子訓練」を掲げる教会はそういうことを言い出してもう何十年にもなる。当時の若者はもう中年以降で、その年代のクリスチャが爆発的に増えているかと言うと、逆だ。短い歴史でもちゃんと振り返っておかないと、先人の二の舞、三の舞になる気がするけれど、どうなのだろうか。

「イエス様のマジな弟子を作る」のが第一の目標なのか第二の目標なのか知らないけれど、第一でないことを願う。なぜなら教会は第一に神様を礼拝するところであってほしいからだ。彼らはもちろん、「自分たちは礼拝を優先している」と言うだろう。けれどその実態は言葉だけではわからない。イロイロきれいなことを言っても、結局のところ弟子訓練とか事業とかがメインになっているかもしれない。

 以前にも書いたけれど、毎週の礼拝が事業を建て直すための会議みたいになっている教会はその典型だろう。自由に礼拝するために始めたはずの事業が行き詰まり、それを建て直すのに忙しくて、礼拝どころでなくなる。本末転倒という言葉の文例として、まさに持ってこいのシチュエーションではないか。とても礼拝優先とは言えない。

 また礼拝優先にしても、「礼拝はどこででもできる。一人でもできる。究極的には何もいらない」とか熱心に言う牧師が、同時に「新会堂を建設すべきだ。最高の神様なのだから最高の施設で礼拝しなければならない」とか言って、思いっきり矛盾していることがある。だから「礼拝を優先している」という言葉は言葉、実情は実情で区別して見極めないと、おかしなことになってしまう。

「イエス様のマジな弟子を作る」という目標そのものにケチを付ける気はない。けれど教会にとって都合のいい弟子を作ることが実質的な目的になっているとしたら、それは「イエス様のため」ではない。その弟子というのは牧師の言うことを聞く弟子であって、本当に聖書に従うかどうか、かなり怪しいからだ。

 弟子訓練が盛んな教会があって、十代の若者たちを弟子にしていた。ほとんどが18歳未満である。まだ親の保護下にある子たちだけれど、訓練訓練、奉仕奉仕の毎日で、家に帰るのはほとんど寝るためだけ、という状況であった(チャーチスクールだからそれも可能だった)。それだけ濃密に過ごせば当然だけれど、彼らと牧師との信頼関係は非常に強かった。けれど肝心の親は蚊帳の外だった。子供がどこで何をしているのか、親はほとんど知らない。疲れて帰ってくるから聞くに聞けない。これも神様のため、と思って見守るしかない状況だった。

 まあ子供は子供なりに失敗したり苦労したりしながら成長するもので、いつまでも親の過干渉の下にいるべきではない。特に十代後半ともなれば、言葉は悪いが放っておくくらいが丁度いい。時々話を聞くとか、それとなく方向性を示すとか、せいぜいそんなところだろう(と私は個人的に考えている)。

 けれど上記の教会の問題点は、ほとんど牧師が若者たちの親代わりとなり、過度に干渉し、親には触れさせない、という状況にあった。現に進路を決める時など、子供は牧師と相談するだけで決めてしまい、親には事後報告するだけであった。
 もちろん進路は自分で決めるものだけれど、それにしたって親を無視していいはずはない。実際にお金を出したり細かいサポートをしたり、何かあった時に責任を取ったりするのは親なのだから。

 他にも、たとえば連日奉仕をしている子供の疲労を心配した親が、「今日は休みなさい」と言う。すると子供からは「親はわかってくれない」と言われ、牧師からは「不信仰だ」とか「子供の気持ちがわかってない」とか言われる。ただ子を想う親の気持ちが、ここでは完全否定され、悪とまでされてしまう。

 その子供たちを弟子と呼ぶなら、それは牧師の弟子である。キリストの弟子ではない。なぜなら後者は親を敬うはずで、無視するはずがないからだ(ここで「どんな親でも敬えとは聖書は言っていない」という反論があるかもしれないけれど、このケースで言えば、親は皆立派なクリスチャンなのである)。

 だから「イエス様のマジな弟子を作る」と言っても、その実質、その結果をよく見なければならない。「イエス様のために」と言っても牧師の言うことしか聞かない弟子になっているなら、それは「イエス様のため」ではない。ただ牧師の都合のためだけだ。
「イエスのマジな弟子」という言葉は響きが良く、格好良く思われるかもしれない。けれどそれは人一人の人生に関わる話であって、響きとか格好良さとかで決めるものではない。完全に反対するつもりはないけれど、よくよく注意しなければならない、と私は思う。

2014年12月25日木曜日

【雑記】クリスマス・イブに教会について思うこと

 今夜はクリスマス・イブということで。

 クリスマスはカップルで過ごすもの、というイメージは過去のものとなったようだ。最近の日本のクリスマスの過ごし方は、カップル1割、家族3割、ひとり5割、その他1割という構成とのこと。ひとりぼっちでクリスマスを過ごす「クリぼっち」が多く、そういう人たちをターゲットとした商業サービスが急増しているようだ。

 一方でキリスト教会を見てみると、プロテスタントの一部だけかもしれないけれど、クリスマスを伝道の機会として捉えているところが多い。「クリスマスの本当の意味は・・・」みたいなメッセージが定番となっている。
 このスタイルはもう20年、あるいは30年は続いているだろう。巷の「カップルで過ごす」→「ひとりで過ごす」という変化に比べて、こちらはほとんど変化していない。

 それが普遍的で効果的なやり方なら、変える必要はない。けれど効果的な方法を20年も続ければ教勢は劇的に変化しているはずで、現にそうなっていないのは、それが効果的でないからだ。あるいは何か問題があるからだ。そういうことを考えず同じことを延々繰り返すのは、掘り尽くした畑を飽きずに掘り続けるようなものだ。

 クリスマスの伝道集会は、普段の集会に比べて未信者が来やすい。教会についてよく知らない人が、クリスマスのイメージに釣られて教会に来るからだ。けれどそれを「自分たちのアピールの成果」と考えてしまうのが、おそらく問題の始まりだ。
 クリスマスの伝道集会に来た未信者の教会定着率はどうだろう。統計データはないけれど、経験的にはほぼゼロに近い(教会によって違うだろうけれど)。

 以前も書いたけれど、教会は「クリスマスの本当の意味」にこそ最高の価値があると信じて疑わず、それを「救われていない人々」に提供してあげようとしている。けれどどこか上目線で、ターゲットとする人々のニーズも考慮していないように思う。こういうことがいつまで続くのだろうか。「リバイバル」とか熱心に叫んでいる人が大勢いるけれど、たとえば10年後、20年後、日本のクリスチャン人口が1%のままだとしたら、それはいったい誰の責任だろうか。

 今日本には「クリぼっち」が多いらしいけれど、本当にひとりがいいとか、他人と過ごすのがイヤだとか、そういうことでもないらしい。実は誰もが誰かと繋がることを望んでいる。としたら、教会は彼らにコミュニティを提供できる気がする。伝道するためにガツガツ人を集め、「イエス様の弟子」を作ろうと躍起になるより、誰もが安心して集えるコミュニティを提供する方が、よっぽど役に立つのではないだろうか。

2014年12月23日火曜日

カルト化教会って・・・定義が必要ですか?

 定義にこだわる人がいる。

 たとえば信徒が虐待されている教会を「カルト化教会」と表現すると、それは違います、カルトはそもそもこんな意味です、種類は破壊的とかイロイロあります、あなたのはカルト化とは言いません、みたいなことを言う。

 定義がどうでもいいとは言わないけれど、数学の証明問題じゃないんだから、万人が共通理解・使用する定義が存在しないこともある。だいいち、そこまで定義にこだわって何になるのか。

 たとえば映画『スターウォーズ』を定義したらどうなるか。タイトル直訳で「星の戦争」となるか、内容的に「宇宙の戦争」となるか、いやいやスターウォーズはスターウォーズだ、となるか。結局そんな議論に答えは出ないし、出たところで何にもならない。

 ある牧師が問題を起こして失踪した教会で、今後どうするか、信徒たちが話し合った。話の流れで、誰かが「ウチはカルトだったのか」と切り出した。すると「そうだ」「いやカルトだなんて言うな」等の賛否両論別れる議論に発展し、だいぶ感情的な話にもなった。それまで感情表出が不自由だったという点では感情が出て良かったのだろうけれど、今後どうするかという切羽詰まった問題についてはずいぶん停滞した。むしろ感情的になった分、まとまるものもまとまらなくなったかもしれない。

 その教会がどうこうでなく、このように「定義合戦」はよく話の腰を折ってしまう。私もイヤという程経験したので、定義と聞くだけでゲンナリする。繰り返すが定義自体が悪いのではない。悪いのは議論の方向を定義合戦にずらすことにある。つまり人間の側の問題だ。

 たとえば上述のカルト化教会の被害者の集まりに参加して、「カルトってこういうことですよ、皆さんの被害は破壊的とまでは言いませんよ。どちらかと言うと軽い方ですよ」とか言ったらどうなるか。クリスチャンの集まりだから暴力沙汰にはならないだろうけれど、そうなってもおかしくない。そんな御託は、被害者には傷口に塩をベッタリ塗りつけられるようなものだからだ。仮にそうでなくても、そんな定義など何の役にも立たない。

 そもそも定義というのは、既に起こった出来事・既に存在する事物を集めて調べて「これはこういうことだ」と意味付けることだ。当事者たちの気持ちや感覚とは関係ない。むしろ距離を置いている。だからこそ冷静になって意味付けができるのだ。

 映画『タイタニック』は有名だから多くの人が観ているだろうけれど、非常に滑稽な場面がある。冒頭、発掘調査チームのメンバーが、タイタニックがどのような過程で沈没したか効果音付きで説明する。けれどその相手が年老いたローズで、彼女はかつて実際にそれを体験している。だから「船体がポキンと折れた」とか「あとはズブズブ沈むだけ」とか面白おかしく言われても、腹立たしいだけなのである。「実際はそんなもんじゃなかったのよ」と彼女は悲痛な顔で言っている。
 信仰の虐待を受けたクリスチャンたちにカルト定義ウンヌンを抜かすのも、これと同じ種類の残酷さだと私は思う。

 定義は定義で大事だろうし、そういう分析や研究の成果を後の世のために有効活用してほしいとも思う。そういう役割の人も必要だろう。けれど同時に必要なのは、実際に目の前にいる被害者の気持ちに少しでも寄り添う役割の人々だ。そして寄り添うのである以上、定義とか分析とか研究とかいう学術活動は、二の次、三の次と考えるべきだ。私はそう思う。

2014年12月22日月曜日

クリスチャンと「悔い改め」の大事な関係

 引き続き、クリスチャンと謝罪について。
 
 クリスチャンの謝罪は「悔い改め」と密接に関係している。たとえば人に対して罪を犯してしまった場合、まず心の中で悔い改めて、その結果として相手に謝罪する、というのが一般的な筋道だからだ。この場合悔い改めと謝罪はセットになっていて、どちらが欠けてもならない。謝罪のない悔い改め、悔い改めのない謝罪は誠実とは言いがたい。
 
 そして悔い改めというと、思い出しても楽しくない、けれどその本質について考えさせられる、ある事例がある。
 
 ある牧師が大きな問題(罪)を起こし、こっそり続けて楽しんでいた。けれど発覚した。決定的な証拠があった。信徒らに呼ばれた牧師は初めトボケて、貴重な時間を潰してどうしてくれるとか脅していたけれど、証拠があるとわかった途端、泣きと謝罪に切り替わった。
 
 すっかり観念したかに思われた。けれどいわく「今進めているプロジェクトだけは、神様の大事な御心だから成し遂げたい。これは自分がいなければ進まない。今やめたら大勢に迷惑がかかってしまう」とのこと。結局、なし崩し的にその活動だけしばらく続いた。
 
 牧師は関係者(というよりそれを知っている人たち)に謝罪して回った。そして信徒が見ているのを知っていて長時間うめき苦しんだり、泣き続けたり、そういう「俺は苦しんでいる」アピールを続けた。
 
「アピール」と書いたのは、それが本心からの謝罪でなかったからだ。
 
 第一に、牧師が謝罪に回ったのは事実を知る少数の人間だけだった。もっとも肝心な、もっとも被害を受けた人たちを放置した。交通事故で言えば、目撃者に一生懸命謝って被害者に何もしないみたいな感じだ。
 第二に、そうやって悔い改めに回った後も、同じ罪を続けているのがバレた。謝っても行動を改めないのは、「悔い改めのない謝罪」と言う。

 つまり事実を知る人間に徹底的に悔い改めの姿勢を見せておき、「でも個人の名誉は守られるべきだ」という話で、もうそれ以上話が広がらないように目論んだのだ。それは悔い改めでなく、悔い改めを利用した隠蔽工作である。信徒を痛め付けただけでは飽きたらず、さらに都合よく事を運ぼうとした訳だ。
 
 という訳で、それは悔い改めでもなければ謝罪でもない。
 だから教会で誰かが悔い改めたとか謝罪したとか言ったら、それがちゃんと筋の通ったことなのかどうか、周りの人間が検証すべきだ。形ばかりの悔い改め、形ばかりの謝罪では被害者が救われないばかりか、当の本人にとっても良くない。
 
 このケースのもう1つの論点は、「牧師として不適格と判断されても、現在進行中の仕事だけはある時点まで続けさせて良いかどうか」だ。
 上記の牧師の言い分をまとめると、
 
①それは大事な御心のある仕事で、
②自分にしかできない部分があり、
③今止めると大勢が迷惑する。
 
 ということだ。これは熱心なクリスチャンにはけっこう説得力のある主張かもしれない。けれどこの主張には、多数のためなら少数を犠牲にしてもいい、という心理が働いている。なぜなら牧師の罪によってひどく傷つけられた人たちがいて、その人たちからしたらもう牧師なんて信用できないし、「世のため人のため」とか言ってほしくないし、そもそも牧師を辞めてほしいとさえ思っているのに、当の牧師は大義のために働き続けようとしているからだ。それはより多くの人々の利益のためだからお前らはガマンしろ、と言っているのと同じだ(もっとも、それが本当に利益になるかどうかも怪しい)。
 
 その考え方を、たとえば日本国憲法は「公共の福祉に反しない限り・・・」のくだりで支持している。だからこの国では、大勢の利益のためなら少数が犠牲になることもある。けれど99匹を置いて1匹を探すキリスト教世界では、必ずしもそうではない。むしろ1匹を大事にするという非合理的な方法が採られている。
 
 だから私が思うに、問題が発覚した牧師は、「働き」が途中だろうが何だろうが即刻完全に手を引かせるべきだ。それが必ずしも辞任に繋がるものでなくても、とにかくちゃんと悔い改めさせ、しっかり補償ができたと判断されるまで、戻してはならない。
 
 これは考えてみれば当たり前のことだけれど、その当たり前が当たり前でない教会が多いように思う。だからクリスチャンの一人一人、信徒の一人一人がそういう意識を持って、教会を、あるいは牧師を冷静に見ることが肝要だと私は思う。

2014年12月21日日曜日

謝らないクリスチャンと謝るクリスチャン、どちらが信頼できるか

「謝る」というのは人として基本的な行為だけれど、実際にするのは案外難しい。

 明らかに自分に非があり、どう考えても弁解の余地がないなら、謝って当然だろう。あるいはシンプルな失敗なら簡単に謝れると思う。
 けれどほとんどの場合は相手にも非があったり、自分を正当化する材料もあったりするから、素直に謝るのが難しかったりする。職場など身近なところを見ても、謝ることのできない人は少なくない。傾向として年輩になればなる程そうだ。

 映画『謝罪の神様』でこんな話があった。日本には「とりあえず謝っておく」という習慣があるけれど、欧米には後々不利になるから簡単には謝ってはいけない、という逆の習慣がある。「土下座」という言葉がある通り、日本には謝罪の文化がある、というような話だ。

 頷けるところもあるけれど、その「謝罪の文化」が現代に受け継がれているかどうか、かなり怪しいと私は思う。
 そして私の場合クリスチャン生活が長いからかもしれないけれど、謝れない日本人というより、謝れないクリスチャンを多く見てきた。

 たとえば以前、あるクリスチャンから根拠のない言いがかりを付けられたことがあった。私が個人名を特定して根も葉もない誹謗中傷を書いている、みたいな内容だった。もちろんそんな記事は存在しない。その旨を説明すると(本当は説明なんかする必要なかったけれど)、相手は引き下がった。けれどなお私にケチを付けるだけで、今に至るまで何の謝罪もない(その人物がこの記事を読むかもしれないからあえて書いておくと、聖霊派クリスチャンにそこまでモラルを期待した私がバカだった)。
 

「10月携挙説」を主張して11月になると逃亡したクリスチャン(?)も、「聖霊様が謝らなくていいと言ったから謝らない」とか言っている。約束を反故にして謝らなくていいというのは子どもの世界でも通用しない。もし本当に神様にそう言われたとしたら、「いえ、それでも私は謝らなければなりません」と食い下がるのが本当だろう。ソドムの滅亡を事前に教えられたアブラハムも、神様に考え直すように食い下がった。神様とクリスチャンとの関係は、後者が何でもハイハイ言うものでなく、本来そういうもののはずだ。

 他にも大小イロイロなケースがあるけれど、イロイロ理由をつけて結局謝らないというクリスチャンはいる。
 けれど、じゃあ謝ればいいかと言うと、そう簡単な話でもない。

 ある教会から、一組のクリスチャンホームが突然離れた。何の挨拶もなし、何の連絡もなしである。信徒からしたら驚くばかりだ。ある日曜の礼拝に来なくて、たまたま休んだだけだと思っていたら、牧師が突然言う。「あの家族はこの教会を離れました」
 理由はよくわからなかった。ただ牧師が、「私の力不足でした」と泣いて土下座したのである。よくわからないけれど、何か大変なことがあったのだろう、そして牧師先生は一生懸命努力したのだけれど、どうにもできなかったのだろう、そんな印象を持った。だからその家族の方に何か問題があったのだろう、という推測に繋がった。だって牧師がこんなに泣いて、土下座して謝っているのだから。

 けれど何年か経って真相がわかった。その家族が牧師にとって不都合なことを言ったから、牧師が怒って追放したのだ。牧師が手前勝手に追い出しておいて、残った信徒に「あの家族は(止めたのに)出て行った」という作り話をした訳である。
 私が呆れたのはそういうウソでなく、そのために泣いて土下座して見せる根性の方だ。あれだけ真に迫って悔い改めているように見せて、全部演技だったとは。

 だから謝らないというのも問題だけれど、謝ったから全部解決ということでもない。

 ここまで書いておいて今更という気もするけれど、ちゃんと謝れる、立派で誠実なクリスチャンも多い。とても善良で、お人好しな人たちだ。そういう人たちは、牧師が泣いて土下座すれば簡単に信じて許してしまう。その陰で牧師がペロリと舌を出しているとも知らずに。
 人を信じるとはつくづく大変なことである。

2014年12月19日金曜日

【雑記】実名を挙げるか、伏せるか、という話

 このブログを始めた頃から度々考えていたことがある。実名を挙げて書くべきか、伏せて書くべきか、ということだ。当初は明確な結論のないまま、とりあえず実名は伏せて書いていた。
 
 もっとも当時は当時で事情があった。
 このブログの「ほぼ毎日更新」が始まったのは2013年3月だけれど、その数年前まで私は「超」熱心な聖霊派クリスチャンであり、ここで問題提起しているような事柄のほとんどに手を染めていて、それを当然とする人間であった。ところがイロイロ問題が起こり、「もしかして間違いだったのでは?」という気づきから、「いや、間違っている部分もあったよ」を経て、「いやいや、ほとんど全部間違ってたんじゃね?」に至った訳である。それでその間違いについて書き始めたのだけれど、当初はまだ(自分を含む)関係者のダメージが生々しくて、とても実名を挙げて書ける状態ではなかった。被害を受けた人たちが更なる被害を受けないよう、できるだけ配慮しなければならなかった(そしてそれは今も続いている)。
 
 という訳で実名を挙げないことにしたのだけれど、じゃあそれと無関係な人物名や団体名なら挙げてもいいかと言うと、それも違う気がした。一方を伏せて書き、もう一方を実名で書くのはフェアでない気がしたからだ。
 もちろん、挙げても何の支障もない個人名・団体名は別だ。たとえば村上密先生とか、海外のメガチャーチ名とかは今までにも何度か書いてきた。
 その村上先生は個人名・団体名をガンガン書いていて、それはそれで必要なことだと私は思う。実際に訴訟問題を取り扱っておられるから、むしろ堂々と実名を挙げるべきかもしれない。

 けれど、ある傾向を持ったキリスト教会やクリスチャンに対する批判的意見を書く場合、全てが実名でなければならないとも思えない。何故なら実名を挙げるにしても、伏せるにしても、それぞれに役割があると思うからだ。
 
 実名を挙げる場合、それはより直接的な「対決」になる。実際の被害があり、証拠なり根拠なりがあって、その加害者を名指しで非難するのだから、争いになるのは必然だ。訴訟問題に発展するかもしれない。
 だからその行動の本質は「ブログを書く」ことでなく、「特定の加害者を糾弾し、特定の被害者を守る」ことにある。ブログはいわば副産物的な位置づけであろう。
 
 他方で、私のようにブログしか書けない人間もいる。どこかの誰かや団体と直接対決する程の強い動機も時間的余裕もないけれど、同種の事柄に対する問題意識はあり、問題提起しようと考える人間だ。その目的は自ずと、「特定の個人や団体と対決する」ことでなく、より普遍的な表現になる。
 たとえば、どこそこの聖霊派教会のやり方を特定して問題視するのでなく、それを聖霊派教会全体が陥りやすい問題として表現する、という感じだ。現に同じような問題を、直接関係ない複数の教会が起こしている。その場合、それは教派そのものが孕んでいる問題と言えるはずだ。そういうことを書くことで、問題を一地域教会内の出来事から、教派あるいはキリスト教界全般のテーマにできるのではないかと思う。
 
 だから実名を書くのも伏せるのも、それぞれの役割なのだと私は考える。そして私自身は現段階では実名を伏せた書き方、より普遍的なものを目指す書き方を採っている。実名を挙げて糾弾するのは、法廷問題に対応できる人たち、ある程度専門的に対応できる人たちに任せるべきだ。そういう実務的なことができないのにやろうとするのは単に無謀なだけでなく、無責任でもある。
 
 とは言いつつ、対象をほとんど特定できるような記事も書いている訳だから、その線引きには難しいところもある。けれど実名を挙げるか伏せるかについて、最近考え至ったのは以上のようなことだ。
 もし「実名を挙げないのは卑怯だ」と言う方がいたら、ぜひご自分で調べて実名を挙げ、とことん戦われたらいいと思う。きっとそこまでの覚悟があるのだろうから。

2014年12月18日木曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第50話

 それからキマジメくんは毎日、自分のyoutube動画を繰り返し再生し続けた。というのも初めの1週間で視聴回数700回を偽造してしまったからだ。その後も第三者から視聴される回数は低迷し、1日10回にも満ちていない。そのまま放置すれば、視聴回数の激減を指摘され、理由を問い詰められてしまうかもしれない。だから1週間で少なくとも500回くらい視聴されたことになるよう、数字を調整しなければならなかった。

 自分が蒔いた種とはいえ、むなしい作業だった。キマジメくんはロボットのようにパソコンの前に座り、ひたすら同じ操作を繰り返した。
 もともとは、ノルマ1000回を突き付けられたのが原因だった。それを達成できず叱責されるかと思うと、偽造でも何でもせざるを得なかったのだ。もちろん偽造は悪いことで、良心が咎められる。けれど真っ赤な顔の溝田牧師に怒鳴りつけられるのを想像しただけで、居ても立ってもいられなくなってしまう。
「主よ、お許し下さい」
 キマジメくんは時折そんなことを呟きながら、作業を続けた。

 それからの何週間かは何事もなかった。
 ミーティングは毎週あったけれど、各担当者の準備は滞りなく進んでおり、殊更問題とされることもなかった。溝田牧師もミーティングを早々に切り上げて、出掛けるようになった。サトリコ姉妹を連れて車に乗り込むところを、キマジメくんは何度か見かけている。何の用事か聞いていないけれど、たぶん奉仕なのだろう。
 
 さて、ついに『メボ・ルンド聖会』の前日になった。朝から教会を上げて準備である。
 まず全員で教会全体の掃除をし、そこから会場セッティング、食材の買い出し、チラシ配りなどに分かれた。午後になって溝田牧師が現れ、会場をあちこち回り、「ここもっと掃除して」とか「照明の角度はこう」とか「テーブルの配置はこう」とかイロイロ指図しだした。奉仕者たちは言われる通り動いた。
 キマジメくんは当日スクリーンに映すパワーポイントの仕上げに入っていた。そこにも溝田牧師がやって来て、「全部初めから見せてみて」と言う。キマジメくんはプログラムに沿って画面を表示した。全部終わると、牧師が眉間にシワを寄せつつ言った。「じゃ、メモして。修正点を言うから。まず初めの画像だけど・・・」
 という訳で無数の修正点を言いつけられ、キマジメくんはほぼ一からやり直しの作業を始めることになった。

 ここでキマジメくんのために補足しておくと、パワーポイントはすでに1週間前に準備できていて、牧師の確認ももらっていた。今日は細かいところをチェックしていただけだった。そこへ牧師がやって来て、一度オッケーしたものをアレコレ変えろと言い出した訳だ。
 それでもキマジメくんは従順に作業を続けた。「神様は生きて働いておられるから、その時々で御声を聞かなければダメだ」と牧師に言われたからだ。

 午後になり、溝田牧師が車でメボ・ルンド師を迎えに行った。ルンド師は成田空港に午後到着予定とのこと。「メボ・ルンド先生が来られたら、皆粗相のないように」牧師に怖い顔でそう言われて、皆緊張気味に返事をした。

 それから2時間程して、牧師が帰ってきた。着くなり、運転席で満面の笑みを浮かべている。降りてきたサトリコ姉妹が急いで後部ドアを開けると、中から長身のアメリカ人が出てきた。ポスターで何度も見た顔、メボ・ルンド師本人である。白人とインディアンの混血らしいが、後者の血が強いようだ。インディアンと言った方がシックリくる。
 牧師も降りてきて、何やら話している。そこに居合わせた奉仕者らは直立不動、最高の笑みである。キマジメくんも皆に倣って立っていた。
 溝田牧師はさっそくメボ・ルンド師をミーティングルームに迎えて、歓談し始める。ルンド師は紳士的な物腰で、穏やかな口調で話す人だった。奉仕者の一人一人にも丁寧にお辞儀していた。対する溝田牧師は、ちょうど得意先を接待する営業職みたいな雰囲気である。大きな声で笑い、大袈裟に反応し、会話が途切れないようにしゃべり続けている。キマジメくんは就職したことがないし、営業職についてほとんど何も知らないけれど、テレビなんかで見る典型的な営業マンなら知っている。それとそっくりだ。
 さて、そこへ軽食係の姉妹がお盆を持ってやって来て、お茶とお菓子をテーブルに置いた。反射的にお礼を言った溝田牧師だったけれど、すぐに口調が変わった。
「何これ? これだけ?」
「は、はい?」と姉妹。
「ちょっとちょっと、ルンド師は空港から何も食べてないんだよ? こんなんで足りる訳ないじゃない。ちょっと考えればわかるだろう。何かないの、軽食?」
「でもあれは、明日の・・・」
「明日のはまた買ってくればいいんだよ!」溝田牧師が怒鳴る。「臨機応変に考えなさい! 今ここに空腹の旅人がいるんだよ! 聖書はもてなすように言っているだろうが! なぜそんなこともわからないんだ!」
「す、すみません!」
 姉妹は慌てて奥に駆け出す。牧師は「まったく」と一つ呟くと、また急に笑顔に戻ってルンド師の方を向いた。「ソーリーソーリー・・・」
 キマジメくんはその一部始終を見て姉妹のことを気の毒に思ったけれど、どうすることもできない。ルンド師はと言うと、何も気に留めた様子もなく牧師と話している。自分もああいう風に怒鳴られないように、自分の仕事はしっかりやらないと、とキマジメくんは思った。そしてまたパワーポイントの修正作業に戻った。明日の聖会が無事に終わってくれることを願いながら。(続く)

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この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
この小説は不定期連載です。
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2014年12月17日水曜日

クリスチャンと「自分探し」の危険な関係・その2

 前回のまとめ。
 大人になってもまだ「自分探し」をするのは、自分のことしか考えていない心理状態を現している。
 また教会で「自分探し」をすると、「賛美する者」とか「預言する者」とかいうステレオタイプな役割を自分のアイデンティティと思い込んでしまい、かえって自分を見失うことになる。以上。
 今回は、別の視点から考えてみたい。

 クリスチャンは「なり方」が2種類あって、

①未信者がある時点でクリスチャンになった
②クリスチャンホーム生まれでいつの間にかクリスチャン

 というのがある。もちろん厳密にどちらかに分けられないケースもあるだろうけれど。

 それで①と②では、(あくまで傾向として)持っている雰囲気が違うように思う。②の方が「いい子」が多いようである。あるいはグレていても、どこかグレ方が可愛い(もしくは中途半端)のである。たぶん幼い頃から聖書を教えられていたり、教会学校で過ごしていたりするのが大きいのだと思う。

 ②の人に「いつ神様を信じたか?」と聞くと、「いつの間にか」と答える人が少なくない。神様がいるのが当たり前で、何も疑問に感じない、という感覚なのだ(もちろん中には、「いついつ神様に本当に出会った」と言う人もいるけれど)。

 そういう人の場合、アイデンティティはまさに「神様がいての自分」なのかもしれない。
 ①の人は「こういう自分が神様に出会った」という感覚だろうけれど、それに対して②の人は「神様は初めから自分と一緒にいた」のである。だからアイデンティティの確立の仕方が、両者とも根本的に違うのではないか。

 そういうことがあって、②の方が「いい子」が多いのかもしれない。
 もちろん、どちらが良いか悪いかという話ではない。けれど親からしたら、「いい子」であるに越したことはないだろう。

 そう書いておいて前言を思いっきり撤回するようだけれど、クリスチャンホームの「いい子」というのもイロイロある。

 たとえば、彼らはどうすれば教会の大人たちが喜ぶか知っている。「将来牧師になりたい」と思っていもいないのに言ってみたり、「神様がこんなことしてくれました」とちょっと大げさに話してみたりして、大人たちが感嘆するのを楽しんでいたりする。あるいは聖書の知識がけっこうあるから、「この場合聖書はこう言っていますね」とか、まるで神殿で話し込んでいた12歳のキリストみたいなことをするのである。若干大人を手玉に取った感じがする。

 それとは逆にかわいそうな面もある。たとえば親が熱心な家庭の子らは、毎週教会学校に通う。そこで毎週聖書の話を聞く。それから大人の礼拝で説教を聞くかもしれない。日曜を終日教会で過ごす子は、他にもいろんな形で聖書のメッセージに触れる。だから彼らからしたら、「耳タコ」な話が多い(もちろんその教団教派によっても違うだろうけれど)。

 べつに教会学校をどうこう言うつもりはないけれど、慣れている子供たちからしたら、「またその話かよ」ということが少なくないようである。確かに話の切り口とか内容とかが違っていても、結局言いたいことが同じなら、「それ知ってる」みたいになるだろう。それは基本的に大人も同じだけれど、子供の場合、反応がより明確である。

 だから頑張っている教会学校の先生は「子供たちが真剣に話を聞いてくれない」と悩んだり、「もっと飢え渇いて聞くように」と祈ったりするようだけれど、子供の立場で言えば、「いい加減にしてくれ」なのではないだろうか。

 だから「いい子」というのもイロイロある。子供の頃はあまり聖書漬け、宗教漬けでない方が健全な気もするけれど、そんなことを書くと怒られそうなのでやめておく。

 ただアイデンティティの点で言うと、「神様がいての自分」というのは、詰まるところ自分を半分見失っているような状態ではないかと思う。「聖書がこう言っているから」「神様はこう願っているから」というのが根っからの行動基準になっているとしたら、「自分はこうしたい」というのをハナから諦めていることにもなる。自分がいるようで、実はいない。極端に言えば「従順ロボット」みたいな心理状態ではないだろうか。

 そう思うと、「将来牧師になりたい」と言って周囲の大人たちを感嘆させ、手玉に取って楽しんでいる子供というのも、どこか哀れである。ほんの遊びのつもりでピエロを演じているようでいて、実は演じさせられている、と言ったら言い過ぎ・考え過ぎだろうか。

2014年12月16日火曜日

クリスチャンと「自分探し」の危険な関係

「自分探し」なる言葉がある。
 要はアイデンティティの探求のことだと思うけれど、時々二十代、三十代くらいの大人が、そういうのを理由に勤め先を辞めたり転職したりする。仕事に疲れて自分を見失ってしまったのか、あるいは本当の自分はこんなのではないと思ったのか、まあ事情はそれぞれだろう。
 
 私の知り合いにもそういう理由で職場を辞めた人がいたけれど、その後「自分」を見つけられたという話は聞かない。もしかしたら退職理由として適当にでっち上げただけだったかもしれない。あるいは「自分探しの旅に出る」みたいな表現が、カッコイイと思ったのかもしれない。私はカッコイイとは思わないけれど。
 
 そういう「自分探し」をする人は「なんで生きているのかわからない」「人生とは何なんだ」というようなことも言う。自分が何なのかわからないから、生きる意味も理由もわからない、ということだろう。実は私自身もそういう傾向があって、高校時代なんかは「人生って何なんだ」みたいなことを友人たちによく問いかけていたものだ(ひどくウザかったと思うけれど)。
 
 だから余計にわかるけれど、「自分探し」とか「人生の意味」とかにこだわるのは、自分軸の考え方でしかない。自分が何で、何をしたくて、将来どうなっていくのか、というような自分自身のことにだけ執着しているから出てくる発想だ。そこには他者がいるようでいない。あくまで自分中心の考え方である。
 
 もちろん、アイデンティティの確立は心理学的にみても重要だ。青年期の発達課題としても挙げられている。けれどそれは十代、遅くとも二十代前半までの話で、それ以降も延々と「自分探し」をするのは、何と言うか「甘え」のような気がする。
 
 それに多分、「自分はこういう者だ」(職業とか肩書きとかでなくて)とハッキリ言える人は少ないと思う。自分のことはだいたいわかっているけれど、時々よくわからない部分が出る、みたいな不確かさは誰にもあるだろう。でも不確かなのが人間だと思う。そういう意味で、人間には何歳になっても成長する余地があると言える。だから人生は面白いのではないだろうか。
 
 ところでそういう「自分探し」が終わっていない人がキリスト教に出会うと、どうなるか。
 
 特に聖霊派教会に通うようになると、「キリストにあるアイデンティティ」を与えられることになる。「キリストにあるアイデンティティ」とは、「キリストと共に生きる自分こそが自分」という、禅問答みたいなものである。結局のところ自分のことがわかったようなわからないような、煙に巻かれたような感じだけれど、まあ言われた方は不思議と納得してしまうものだ。
 
 けれどそれは全然可愛い方で、もうちょっと悪質(?)なところに行ってしまうと、「あなたには賛美の賜物がある。あなたは天使のように主を賛美する器となる」みたいなことを言われて、よく確かめもしないで「よし、自分は賛美一筋で生きていくんだ」となってしまったりする。この場合、その人のアイデンティティは「主を永遠に賛美する者」になる。それはそれで良くも悪くもない。けれど問題は、「賛美の賜物があるからこの世で成功するはずだ」と当たり前に考えてしまうことだ。
 
「主を永遠に賛美する者」というのは聞こえがいいけれど、よく考えると、クリスチャンなら全員が該当する事柄だ。神様を賛美しないクリスチャンはおそらくいない。だから何も特別なことではない。「この世」で成功するかどうかも関係ない。むしろ成功するために賛美するのだとしたら、それは本当の賛美ではない。
 
 けれど変な教会で「賛美の賜物がある」と言われて本気にしてしまい、何もかも捨てて歌の勉強を始めたはいいけれど、結局何にもならなかった、みたいなケースは多い。
 そこで「自分探し」などしていなければ、そういうことにはならなかったろうと思う。べつに「自分探し」を全否定するつもりはないけれど、ホドホドにすべきではないだろうか。
 
 アイデンティティとは、そんな風に誰かに言われて確立するものではない。人に言われたアイデンティティで生きていくことは、人生を他人任せにするのに等しい。

 たとえよくわからなくても自分は自分でしかない。日々働き、休み、遊び、食べて飲んで、怒ったり笑ったり、そういうのの総和が自分自身の輪郭だ。また人と接することで、逆に自分が見えてくる。人間とはそういうものではないだろうか。

2014年12月15日月曜日

礼拝に「角笛」や「竪琴」は必要か、という話

「ダビデの幕屋」の礼拝に通ずる行為として、「角笛を吹く」とか「竪琴を弾く」とか「旗を振る」とかいうのがある。海外から角笛や竪琴を輸入したり、旗を手作りしたりして、そういう礼拝等で使うのである。角笛なんかはいかにもイスラエルっぽくて、なんだか聞くだけで啓示が来そうである(注・あくまでそんな気がするだけ)。
 
「ダビデの幕屋」の礼拝をする教会や団体のHPを見ると、そういう場面の写真が載っていたりする。色とりどりの旗やら角笛やら竪琴やらを見ると、私は「K福のK学」のO川さんが壇上で翼のついた衣装で説教している写真を思い出した。
 
 角笛も竪琴も旗も一応意味があって、「主の臨在をもたらす」とか「主の勝利を宣言する」とかイロイロある。礼拝ではそれぞれにふさわしいタイミングで使われる。けれど盛り上がってくると、あちこちで叫び声が上がり、あらゆる楽器が大音量になり、それにつられる形で角笛も竪琴も鳴りまくるから、もう何が何だかわからない。さっきの意味はどこへやら。おそらく本人たちは夢中で、「主の臨在がすごすぎて圧倒された」とか言う。
 
 基本的に礼拝は自由だし、何を使ってもいいと思う。ある器具を使った礼拝が受け入れられ、べつのある器具を使った礼拝が受け入れられない、ということはない。だから角笛でも何でも使ったらいい。けれど問題は、角笛や竪琴が「主の臨在を呼ぶ」とか、「深い啓示をもたらす」とか、そういう物質依存の礼拝に陥ることだ。角笛がなければ臨在を感じない、竪琴の音がなければ啓示が受けられない、としたら、何もない無人島に流れ着いた人は礼拝できない。
 
 それに竪琴の音で神様が来られるのだとしたら、その神様はゲームなんかに出てくる召喚獣みたいなものだ。人間にいいように使われる存在でしかない。あるいは角笛のない教会に神様が来られないとしたら、その神様は不公平だ。物質を見て「来る・来ない」を判断していることになるからだ。
 
 そういうのはユダヤ主義というより、神秘主義であろう。あるいは香とか焚いて悪魔を呼ぼうとする魔術と基本的に同じで、オカルトとも言える。いずれにせよ新約聖書が言う礼拝者とは駆け離れている。旧約聖書に回帰し、新約聖書を廃棄しているようにも思える。
 
 彼らは自分たちこそ真の礼拝者だと自負しているけれど、真の礼拝者は物には頼らない。盛り上がったかどうかで礼拝の正否を決めない。物を使って礼拝しても、それが絶対必要だとは言わない。

2014年12月14日日曜日

神様に「用いられる」子供たちについて

 聖霊派だけだと思うけれど、小学生くらいの子供に「預言」をさせるとか、「異言の解き明かし」をさせるとかいう場面がある。海外の集会の映像で、10歳にも満たないくらいの子供に祈られて大人がぶっ倒れる、というのも見たことがある。以前「十代の十代による集会」の話を書いたけれど、これは更に低年齢化、更に「霊的」化した話である。
 
 その子たちがどういう教育を受けてきたのか知らないけれど、彼らに言わせると「主は幼子をも用いられる」とのこと。べつにそれに反論する気はない。聖書を見るとサムエルなんかは幼い頃に神様の声を聞いている。またヨブ記をみると、年配者ほど賢い助言ができる、とは限らないことがわかる。神様は年齢に関係なく、相手が幼くても語るだろう。
 
 また子供だからという訳でなく、彼らが言う「預言」や「異言の解き明かし」そのものが疑わしい。何故なら「吟味」という過程がないからだ。礼拝や祈りの場で「主がこう語られる」と誰か(有名人等)が言うと、無条件に「アーメン」となる。何も確認されない。むしろ即座に「アーメン」しないと不信仰扱いされる。預言を語る際に聖書が示す注意点を、彼らは知らないようだ。
 
 その証拠に、彼らは確かに語られたという証拠を何も提示できない。「御霊に感じた」「確かに語られた」と自分で主張するだけだ。現に「10月に携挙がある」と「預言」したけれど外して、それが神様からでなかったことを逆に証明している。
 
 そういう大人たちに囲まれた子供が言う「預言」や「異言の解き明かし」が、その大人たち以上に信頼に足るかどうかは、ちょっと考えればわかる。
 
 べつに子供をバカにするつもりはないけれど、箴言は子供を「愚かさにつながれている」と言っている。子供を育てたことがあれば、それは実感としてわかる。ヨソの子は優秀に見えることもあるけれど、自分の子の欠点は親ならよく知っている。そしてその欠点はおよそ修正不能に思えることもあって、「つながれている」という表現にも納得できる。
 
 けれどそれは子供だから仕方のないことであって、何ら問題ない。問題はそういう子供を殊更に神聖視して、「預言」させたり「異言の解き明かし」をさせたりすることだ。
 
 いつも書いているように、子供には特に教育が必要だ。何かさせるにしても、仕事みたいな責任を持たせるべきでなく、あくまで体験としてさせるべきだ。つまりアウトプットよりインプットが中心でないと、結局アウトプットそのものができなくなる。サムエルだって幼い頃は「語られた」だけであろう。
 
 そういうことを考えず「子供だって用いられる」としか考えない大人たちに囲まれて、子供はどう育つのだろうか。幼い頃から「異言」とか「預言」とか「解き明かし」とか「見分ける」とかやって、それはそれは「霊的」な人間になるのだろうか。けれどその「霊的」は、人々を本当に助けることができるだろうか。人々を欺くことにならないだろうか。周囲の大人たちがそうであるように。
 
 ちなみに「活躍する子供たち」を見ると、映画やドラマに登場する子役俳優のことを連想する。子役として成功すればするほど、成人してからの成功が難しいと聞いたことがある。その理由は個々にあるだろうけれど、たぶん「子供時代に経験すべきことを経験できなかった」というのは要因の一つとしてあるのではないかと思う。
 
 クリスチャン家庭、特に牧師家庭の子供を多く見たけれど、彼らの多くは「いい子」だ。礼儀も言葉遣いも気遣いもできている。「やっぱり神の祝福が注がれている」とか周囲から言われる。
 けれどよく見てみると、その背後に時として、計り知れないストレスや葛藤の存在を感じる。そして残念ながら彼らのうちには、何かのキッカケで大きな問題を起こしてしまう子もいる。日本にいられなくなって海外に活動の場を移した子もいる。自業自得とはいえ、哀れに思えてならない。
 
 そしてそれは彼らだけの責任ではない。そう仕向けた親や大人たちの責任は大きい。

クリスチャンは何を「増やす」べきなのか

 クリスチャンを奉仕に駆り立てる牧師(あるいは教会)がいる。先日も書いた「奉仕・訓練・成長」を強調するタイプである。その根拠を聖書に求めて、たとえばマタイの福音書25章を引用する。こんな話だ。

(天国のたとえとして)ある人が、3人のしもべに能力に応じた額のお金を預ける。旅から帰ってくると、3人のうち2人は商売でお金を増やしていた。残る1人は何もせず、預かったままの額を返した。先の2人は褒められた。残る1人は怠け者だと叱責された。

 この話から、「何もしないのは怠惰の罪だ」と持って行く。だからクリスチャンは一生懸命働かなければならない。自分の能力を最大限発揮しなければならない。どんな過密スケジュールにも文句を言ってはならない。となる。

 けれどそれは以前にも書いた通り、ただの仕事であって、「霊的成長」とは関係ない。仕事を通して人格的に整う部分はあるかもしれないけれど、そういうのを「霊的」と捉えるのは的外れであろう。

 では、上記の箇所はどう捉えたらいいのだろうか。商売をやってお金を増やした人は褒められて、そのまま返した人は叱られた。これは私だけの感覚かもしれないけれど、預かったものをそのまま返して何が悪い、とは思う。けれど現に聖書では叱られている。これをどう捉えたらいいのだろうか。

 少なくともお金の話ではない。でないと全ての人がお金で何かしなければならなくなってしまう。
 では「能力」だろうか。できることをやらない、できるのにやらない、というのは確かに責められる気もする。能力なら皆それぞれ違うし、量的にも差があるから、文中の5タラント、2タラント、1タラントという額の違いとも通じる。

 けれどだとしたら、「増やす」とは一体どういうことなのか。能力を開花させ、より発展させることだろうか。
 現代社会において何らかの能力を伸ばそうと思ったら、それは主に職場での話になるだろう。それぞれの職業には必要なスキルがあるだろうし、長年やることで熟練していくのだと思う。けれどこの場合、職業によっては何年かで頭打ちになる気がする。

 あるいは「人格」かもしれない。人格的な成熟を怠けた者が叱られる、というのは理解しやすい。キリスト教精神の一つである「愛」も、人格に関する事柄であろう。また人格的成熟とは、取り組もうと意識しなければなかなか取り組めないし、取り組まないと成らない。あるいは不測の不幸に見舞われて、大変な苦労をし、その中で自ずと人格が整っていく、ということはあるかもしれない。それは半ば強制的な人格矯正であろう。

 またあるいは、それは「時間」かもしれない。人生に与えられた時間をどう使うか。無為に過ごして終わらせるか。何かに取り組んである程度の結果を残すか。そうだとすると、私たちはただ生きているだけではダメだ、という話になるだろう。毎日働いて、休んで、遊んで、そうやって少しずつ年を取り、やがて死ぬ(キリスト教的に言うと「肉体が朽ちる」)。その時、何が残っているだろうか。
 あるいは、何かが残っていなければダメだろうか。

 以上、脈絡もなく書いたけれど、特に答えはない。
 これはべつに聖書解釈をしている訳ではない。いろいろな可能性を提案してみただけだ。正しい聖書解釈を探したい人、定義したい人には、何の役にも立たない。
 けれど、「聖書はこう言っているんだからこう生きろ」と一方的に決めつけられている人に、考える材料を提供できたとしたら幸いなことだ。

2014年12月12日金曜日

クリスチャンの「あるある」的に書いてみた(若手牧師メッセージ篇)

 福音派・聖霊派教会あたりの若手牧師が、メッセージ中に言いそうなことをまとめてみた。
 ちなみに服装は皮ジャンにジーンズ、ブーツである。脚は「休め」の姿勢。片手はマイクを持ち、もう片手は腰。時々髪をかき上げる。講壇にはiPadかmacbookを載せている。

・初めに「寝てもいいですよ。眠い人は遠慮なくどうぞ」と寛容さを見せておく。
 けれど誰が眠っていたかは忘れない。

・「いや~、今日は暑い(寒い)ですね~。冷房(暖房)は効いてますか?」
 と会衆席の環境に配慮する。初めっから親しげな口調。

・「聖書を読んでいただければ、僕なんか何もしゃべる必要ないんですけどね」
 いやいや、しゃべる気満々でしょ。

・「(会衆をいくつかのグループに分割して)じゃあ〇〇書の〇章、1節をこっちのグループ、2節をそっちのグループ、3節をあっちのグループが、順番に読んで下さい。さあ、どこが一番声が大きいかな?」
 と聖書朗読をグループごとに競わせる。ていうかノリがほとんど運動会。

・「はい、この意味が分かる人、いますか? ・・・じゃあ〇〇兄弟」
 と、会衆との会話に時間をかける。ちなみにいじられやすい兄弟姉妹はメッセージ中、徹底的にいじられる。

・「うわー、僕が〇〇(聖書の人物)だったら、××なんてとてもできませんよ~」
 といちいち自分の身に置き換える。

・「このように、信じる者は祝福されるのです。そしてこの祝福は今日、あなたにも起こるのです。さあ隣の人に、『あなたも今日祝福されます』と言いましょう」
 と言って隣席どうしをいちいち交流させる。その間に自分は水を飲む。

・「(自前の映像を流した直後)はい、作った人に拍手。あ、あとイエス様にも」
 映像を創った裏方の人への感謝を忘れない。また全ての栄光を神様に帰す配慮を忘れない、というアピール。

・「(出版した書籍を持って)これ、ウチのユースパスタ―が一生懸命書いたんですよ。ぜひ読んでやって下さい」
 ユースパスタ―って自分のことだよね?

・ちなみに初めの10分は笑い話ばかり。

・「はい、神様に拍手」
 事あるごとに拍手させる。

・「この箇所の真の意味は・・・・・・・・・・・・・・・・・〇〇です」
 と、やたらと間を置く。本当に聞かせたいポイントに集中させる、説教学的テクニックだとか。

・「この箇所から、〇〇という啓示が与えられました。けれど後日、もっと深い××という裏啓示が与えられました」
 何だよ裏啓示って。

・「ここで神様から教えられた秘密があります。それは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・〇〇です」
 また間を置く。しかも囁き声。集中させるテクニックなんでしょう。

・「私たちはこうだけど、神様はこうなのです! 私たちにはできないけれど、神様にはできるのです!」
 クライマックスに向けて声が大きくなっていく。壇上を左右に歩き回り、全身で訴える。やっと真面目な顔が見れた。

・「最後に、このお話を紹介しましょう・・・」
 来ました、お涙頂戴の感動話。ハンカチを準備して聞きましょう。

・「時間が過ぎているのはわかっていますが、このことだけは語らなければなりません」
 いかにも神様によって語らされている、というアピール。だったら冒頭の笑い話を端折れば?

・「では一緒に祈りましょう。ただし、本当に献身したい人だけ祈って下さい。中途半端な人は祈らないで下さい」
 え、祈っちゃダメですか?

・メッセージ後、司会者に「〇〇先生、ありがとうございました」と言われると、黙って上を指さす。べつに天井に何かある訳ではありません。

 以上、福音派・聖霊派教会あたりの若手牧師がメッセージで言いそうなこと。こういうのが見たかったら是非とも「今風な」教会へどうぞ。

2014年12月11日木曜日

教会で「訓練」に疲れてしまった方へ

 先日いただいたコメントへのお返事もかねて、この記事を書きたい。
 コメントにはコメントで返すべきかもしれないけれど、大変考えさせられたし、必要性の高い内容でもあると思うので、こういう形にさせていただいた。

 そのコメントはこちら(2014年12月9日・匿名様より)。

「最近教会の奉仕、また訓練とか成長とかいう言葉に苦しさを感じます。
 自分は真の自由を求めていますが、何か教会では不自由を味わいます。
 自分ではどうにもならない問題を抱えて教会に通うことになったのですが、教会でも悩みを抱えるとは。
 強いられて奉仕するのではないのですが、(中略)暗黙の上で奉仕せざるを得ません。
 何の為に教会に行くのか?
 訓練と言われると心底から違和感を覚えます。」

 たぶん、クリスチャンは訓練されて成長せねばならない、その為にも奉仕は必要だ、みたいな話を教会でされたのだと思う。

 何かで困っている人が、キリスト教についてあまり知らないまま、助けを期待して教会のドアを叩く。そして福音を聞いて心が休まり、皆が自分を快く受け入れてくれることもあって、この神様と共に生きていきたい、と願うようになる(人もいる)。それで信仰告白とか洗礼とか、一連の流れを幸せに踏む。しかし教会生活を始めると、とたんに状況が変わる。成長のための訓練、そして訓練のための奉仕、が始まるのである。
成長するのが義務だから」とか言われると、クリスチャンになったばかりの人には断る術がない。

 そこにはコメント者様が書いているように、「教会とは何か」という問題がある。
 細かい定義は定義屋さんにヨソでやってもらうとして、一般的な(特に未信者が持つ)教会のイメージには「癒し」とか「神聖さ」があると思う。けれど上記のような教会(たぶん聖霊派か福音派の一部?)の実際は、「奉仕、訓練、成長」である。

 その主張はこんな感じだ。
「クリスチャンはせっかく神様に救われたのだから、その神様に仕え、人々にも仕え、神の国(教会)を拡大する義務がある。だから礼拝を充実させ、熱心に伝道し、慈善事業とか音楽活動とか、その他諸々の奉仕活動に従事する中で、スキルを磨き、成長していくのだ」
 そのわかりやすい例として、「教会は客船でなく戦艦だ」みたいな言葉がある。つまり、役に立たない人間は要らない、いるなら何かしろ、ということだ。

 それは確かに正論かもしれない。「癒し」を求める人々が(言葉は悪いけれど)傷を舐め合うだけなら、べつに教会である必要はない。同じような悩みを持つ人のコミュニティに行けば事足りる(むしろ悩みが特殊であればあるほど、教会では事足りなくなる)。
 教会であれば、たとえば礼拝という活動がある。そしてみんなで一緒に礼拝するなら、何かしらの奉仕が必要になる。全員でないにしても、誰かが何かしなければならない。そういう意味で、奉仕は不可欠だ。

 けれど、そこに「成長しなければならない」が結びつくのは強引な話だ。成長そのものは良いことだし、望ましいことだと思うけれど、それが事実上強制されるのは違う。
 聖書には確かに「義の訓練」とか「矯正」、「成長」という言葉が出てくる。その方向性は必要だろう。けれど、少なくとも教会での物理的な奉仕(奏楽とかその他イロイロ)は、そういう成長に直結していない。むしろ関係ないとさえ言える。長年そういう奉仕に身を置いた人が(特に霊的とされてきた人が)大勢、不品行で姿を消してきた。そういうのを見れば、全然「成長」していないのは明らかだ(「霊的訓練」を称する人たちも同様である)。

 だから「訓練」とか「成長」とかを標榜する牧師やリーダー自身がどれだけ成長しているのか、よく見るべきであろう。ちゃんと聖書に従っている人なら、どんな形であれ他人に強制などしない。事実上の強制となるような状況にもしない。

 だいいち、そう難しく考えなくても、何かを強制されるような状況はストレスでしかない。そしてストレスしかもたらさないなら、宗教であれ何であれ不要だ。どんなに理屈をこねても結局強制的な状況に持って行くのであれば、それはキリスト教ではない。キリストを騙った別の宗教である。

 というのが冒頭のコメントに対する私の返事でもあって、だからコメント者様には、その生活を続けるべきかどうか、よくよく考えていただきたいと思う。どこか他の教会をイロイロ見てみるのも、参考になって良いかもしれない。悩みが解決することを、心から願っている。

キマジメくんのクリスチャン生活 第49話

 土曜の夜。
 キマジメくんはディスプレイを見つめたまま、頭を掻いている。youtubeにアップした動画の視聴回数は、さっきようやく100に達したところだった。何度更新ボタンを押しても、ほとんど変わらない。
 
「メボ・ルンド聖会」の紹介動画を完成させ、youtubeにアップするまでは問題なかった。関係のある教会やクリスチャンの知り合いにメールして、動画の紹介もしてみた。そのせいか初めの2、3日で視聴回数は80回に達した。けれどそこで止まってしまった。あとは1日数回ずつ増えるだけで、約1週間たった今日、ようやく100回に達したのだった。
 
 素人が初めて作った映像で、しかもクリスチャン人口の少ない日本でキリスト教系の内容な訳だから、誰からも見向きされない可能性が高いのはわかっていた。逆にそう考えると、1週間で100回というのは健闘した方かもしれない。けれど溝田牧師から課せられた視聴回数1000回というノルマには程遠い。これが800とか900とかだったら「惜しかった」と言ってもらえるかもしれないけれど、100回じゃ何を言われるかわからない。
 かと言ってこれ以上やりようがない。映像を作り直す時間はないし、広報しようにもアテがない。一度、キリスト教系のHPやブログの投稿欄に片っ端からリンクを貼ろうかとも思ったけれど、同じことをしてヒンシュクをかっている人がいるのを見て、思い止まった。クリスチャンとして、マナーは守らなければならない。
 
 そういう風にイロイロ考えていたのだけれど、堂々巡りするだけで、何の行動にも結び付かなかった。
 明日は日曜で、礼拝後にまた「メボ・ルンド聖会」のミーティングがある。皆の前でyoutube視聴回数の報告をしなければならないのだけれど、そこで「100回でした」と言う自分と、それを聞く溝田牧師の顔とを想像すると、居ても立ってもいられなくなる。何とかして、褒められないまでも、叱られない程度の結果にできないものだろうか。
 
 あるいは正直に、ありのままを言えばいいのかもしれない。努力しましたが100回でした、と。けれどそれはそれで、溝田牧師の答えが容易に想像できる。「努力が足りない」「信仰が足りない」「やり抜こうという意思が足りない」「主のために命を懸けていない」・・・
 おそらくそんな答えが飛んでくる気がする。
 
 じゃあどうするか・・・。
 さっきからそこで、思考が止まるのだった。そしてyoutubeの画面を更新して視聴回数を確認し、何も変わっていないのを知り、また初めから考える。その繰り返しだった。実は策はあった。けれど実行するのがためらわれた。
 しかしそうこうしているうちに午前0時になり、1時になり、2時になった。非常に眠い。しかし明日のミーティングのことを考えると、否応なく目が冴えるのだ。
「もうどうにもなりません・・・」
 キマジメくんは祈った。「異言」で祈り出した。主が助けて下さる。そう信じる以外ない。そうしてしばらく祈ってから、もう一度画面を更新してみた。視聴回数、101回。
 
 もうやるしかない。キマジメくんはそれ以上何も考えないことにして、自分がアップした「メボ・ルンド聖会」紹介映像の再生ボタンを押した。約2分たって映像が終わると、また再生した。そうやって何度も再生を繰り返した。朝まで繰り返せば、どれくらい視聴回数を稼げるだろうか。もはや計算する気にもなれなかった。
 
 翌朝目覚めると、キマジメくんは身支度をしながら、また教会に向かって自転車をこぎながら、そして礼拝しながら、マメにスマホをいじって動画の再生を続けた。教会のパソコンも使って同時再生もした。ミーティングが始まるギリギリまで続けた。そしてミーティングの時間になった。
 
「はい、じゃあまた各担当者、報告して」
 溝田牧師がソファにふんぞり返って言う。すでに「異言」の祈りもハレルヤ三唱も終わっている。また端から順番にスタッフの報告が始まり、キマジメくんの番になった。キマジメくんは1週間かけて手直ししたHPをスクリーンに映し出し、変更箇所を説明した。それからyoutubeの画面に切り替えて、例の動画の視聴回数を示した。
「1週間で700回です・・・」
 おおぉ、という何とも言えないどよめきが起こった。それがどういう意味かキマジメくんにはわからない。一晩で急に回数が増えたことに、誰か気づいているかもしれない。心拍数が上がるのが自分でわかった。恐る恐る牧師の顔を見る。すると、その顔は予想に反して笑顔だった。
「へえ、そんなに行ったんだ。すごいじゃん。私の予想じゃ、せいぜい100か200ってとこだったけど」と溝田牧師。
「はい?」
「ご苦労さん、キマジメくん。じゃあ本番までに、もっと視聴回数が伸びるかもね。楽しみだ。じゃ、次の人」
「でもノルマは・・・」
 そう言いかけたキマジメくんの言葉は、次のスタッフの声にかき消されて、誰の耳にも届かなかった。(続く)
 
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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
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2014年12月9日火曜日

クリスチャンと「偶像崇拝」・その3(まとめ付)

 クリスチャンと「偶像崇拝」の問題について書いている。
 前2回をまとめるとこんな感じ。

①趣味もダメ、娯楽もダメ、は偶像(貪欲)の排除というより、行き過ぎた禁欲。それにその結果、教会に引きこもったとしても、そこには「きよさ自慢」という貪欲がある。貪欲は心の中にあるから、どこに行っても避けられない。

②行き過ぎた禁欲の背景には、「全てを捧げます」という献身の思いがある。けれど同時に、「自分は役に立つ」という傲慢もある。しかし人間は神様にとって役に立つ存在ではない。

②について補足すると、神様の役に立たないから人間は不要だ、というような話ではない。そもそも神様と人間との関係は、「役に立つか立たないか」という視点で論じるべきでないと思う。神様が目的をもって人間を創ったのは間違いないけれど、それが実際的に神様を助けることとか、それがないと神様が困ってしまうとか、そういう話ではないはずだからだ。

 こう書くと、「でもアダムはエデンの園を管理したではないか。だから人間には世界を管理する使命があるではないか」と言う人がいるかもしれない。けれどアダムが園を管理したのは、神様がそれをできなかったからではない。神様がアダムに任せただけの話だ。

 だから、「全てを捧げて献身し、神様の役に立ちたい」というのは、その熱意はわかるけれど、若干ナンセンスを含んだ話だと思う。人間の存在理由、創られた理由は、もっと他にあるはずだからだ。「神とともに歩む」とは、ひたすら神様に奉公するだけの人生という意味ではない。それに神様に奉仕する存在なら天使たちだっている(それとて絶対的に必要なものではないけれど)。

 よく聖霊派教会(たぶん一部?)では、「神様のために生きるのが最高の人生です」という訳で、

教会献身=1番
働きながら教会を捧げる=2番
礼拝に来ない=3、4を越えて地獄行き

 みたいな序列が暗に語られている。けれどこれも「献身すれば神様の役に立つ」という視点に立った話でしかない。根本的に勘違いしている。

 ここまでくると、人生の意味に直結した話になる。すなわち「神様抜きの人生」は私たちクリスチャンには考えられないけれど、じゃあ「神様だけの人生」でいいいのか、という話だ。神様の役に立つことだけを私たちがひたすら考えて生きることが、神様の願いなのだろうか。私たちが何かに夢中になって楽しんだり、映画を観て涙を流したり、美味しいものを食べて満足したりすることを、神様は願っていないのだろうか(無論そういう平和な時代ばかりではないけれど)。

 もちろん、人間は世界宣教を託された訳で、それをすることは神の意志に従うことだ。宣教を専門にする人間も必要だろう。けれどそれを生涯し続けたとしても、だから「私は神の役に立った」と言うべきではない。むしろ生きる意味を与えられ、その通りに生きられたことを感謝すべきだと思う。

 またもちろん、ペテロやパウロのように神様を伝えることに生涯を捧げ、幾多の迫害に耐え、最期まで神様に忠実に歩んだ人たちもいる。尊敬に値する人たちである。けれど全ての人が使徒なのでなく、この世界には農作物を作る人や、機械を作る人、警察や医者、その他数えきれないほどの役割が必要で、皆それぞれ大変な思いをして働いている。使徒たちが犠牲を払って大変だったように、皆何かしらの犠牲を払って自分の役割を続けている。私たちは毎日ハッピーに暮らしている訳ではないし、どちらかと言うと逆であろう。

 だから「神様の為に生きるのが最高の人生だ」という台詞は、私にはどことなく絵空事に聞こえる。

 話がだいぶ脱線してしまったから戻す。
 クリスチャンの行き過ぎた「偶像排除」だけれど、熱心にそれをする人がいる一方で、そこまで熱心でない人たちもいる。彼らはだいたい新米クリスチャンで、牧師や先輩たちの指導(圧力?)によって、その手の「偶像排除」をさせられているのである。きっと疑問に感じることもあると思うけれど、初めからそう教えられている訳で、もうどうすることもできない。

 彼らがしているのは、ハッキリ言って痩せ我慢である。たとえばテニスが好きで、週末はテニスをしたいのだけれど、偶像崇拝だと言われるから諦めなければならない。挙げ句の果てには「偶像を断ち切れ」ということで、大事にしていたラケットやウェアを捨てさせられる。それで「神様に喜ばれた」と納得させられる。もちろんそんなことで神様が喜ぶはずがないけれど。

 けれどそういう痩せ我慢も、続けば自分のものになる。テニスを捨てさせられたその人は、やがて「こんなに苦しんで俗世を捨てた自分は本物のクリスチャンだ」と思うようになるだろう。そして自分が捨てさせられたように、今度は後輩たちに大事なものを捨てさせるのである。それも、正しいと思って。
 そうやって、どこかおかしい偶像排除の慣習が連鎖していく。まさに合掌。

クリスチャンと「偶像崇拝」・その2

 クリスチャンと「偶像崇拝」について。2回目。
 
「むさぼり」も偶像崇拝だから、神様以外に大好きなもの、夢中になれるもの、自分の生涯をかけていいとさえ思えるものは、全て偶像崇拝だ、だから一切の趣味も娯楽も捨てるのが本物のクリスチャンだ、と主張する人々がいる。
 
 そういう人々の理想体は、教会に引きこもって、賛美と祈りに明け暮れることである。けれど「むさぼり」は状況によらず存在するし、「きよさ」を求める心さえも「むさぼり」になる。だから彼らの偶像崇拝を避けようとする姿勢は、どこか間違っているのではないか。というのが前回のまとめ。
 
 たとえば「10月携挙説」の人の暮らしぶりも、端から見る限り、凡ての娯楽を切り捨てて「祈り」と「礼拝」に勤しんでいるように見える。毎朝2時間祈るとか、メディア断ちとか、コンビニのパンは食べない(?)とか、それはそれは敬虔(?)な姿だ。
 けれどその結果、自分(と関係者たち)こそ本当に御心を知る者だ、真に霊的に目覚めたクリスチャンだ、と自負し、他のクリスチャン全員を「わかっていない」と断定してしまう。それは傲慢なだけでなく、「霊的」と言われる事柄に対する「むさぼり」とも言える。神を立てているようでいて、実は自分を立てているだけだ。自画自賛という貪欲かもしれない。
 
 だからいくら俗世から離れても、貪欲から離れることはできない。もちろん環境を整えることには意味があるけれど、根本的な解決にはならない。問題はいつも人の心の中にある。
 
 ところで、彼らを擁護するつもりはないけれど、その「偶像崇拝を避けよう」という態度そのものは、純粋な動機から始まったのではないかと私は思う。神様に誠実でありたい、立派なクリスチャンでありたい、みたいな動機があって、偶像崇拝の徹底排除に至ったのではないだろうか。
 
 またそこには、「神様に自分自身を全て捧げます」という献身の思いも絡んでいるはずだ。よく「聖会」なんかの最後の方、会衆のテンションがクライマックスになったところで、「神様に全てを捧げて仕えます!」なんてみんなして叫ぶシーンがあるけれど、あの感覚だ。
 
 余談だけれど、この「全て捧げます」という献身的、あるいは殉教的、あるいは英雄的なフレーズは、クリスチャンにとって殺し文句だ。普段あんまり熱心でないクリスチャンも、ああいう盛り上がった場でそう言われると、「よし、オレも!」みたいな気分になって口が滑ってしまう。それでみんなで「主よ、捧げます!」コールになる。
 
 話を戻す。「全て捧げます」というフレーズには、「全ての不純物を取り除きます」という意味も含まれている。だから偶像とか貪欲とかも、自分の中に残っていてはならない。そういう視点で自分自身を吟味してみると、たとえばテニスが好きだとか、テレビドラマが好きだとか、音楽が好きだとか、そういう「偶像っぽいもの」が見つかる。それで「これはいけない、捨てなければ」という話になる。
 そして、山奥の修道僧みたいな暮らしを理想とするようになる。
 
 けれど、この「全て捧げます」も自己中心的な主張だ
 もちろん私たちがどれだけ捧げたか、あるいは捧げなかったか、神様は知っている。そしてたとえわずかでも、神様は尊んで下さる。
 しかしそれは神様の愛ある配慮であって、あくまで量的には、私たちの最大限も最小限も、神様から見たらゼロと同じだ。私たちの精一杯の努力なんて、神様には何の役にも立たない。人間が創られたのは創世の最後であって、そもそも何かの役に立つようにと意図して創られたのではない。
 
 そういう視点で考えると、この「全てを捧げます」には、「だから自分は役に立つはずだ」という心理が前提となっているのがわかる。「全部捧げます。だから何かやってやる」みたいな。
 
 そういう意図があっての偶像崇拝完全撤廃だから、結局手前勝手なものになる。テニスはダメ、ドラマはダメ、音楽はダメ。神様が創られたものは「非常に良かった」はずなのに、彼らにかかると「全部ダメ」になってしまう
 
 だからそれは前回も書いた通り、行き過ぎた禁欲でしかない。「敬虔」を装ったガマン大会とでも言うべきか。
 
 そういうガマン大会が好きな人は、ぜひ彼らと一緒に「教会引きこもり」をしたらいいと思う。私はこの世界の美しいもの、素晴らしいもの、良いものをできるだけ沢山観るつもりだけれど。

2014年12月8日月曜日

クリスチャンと「偶像崇拝」

「偶像崇拝」というのがあって、キリスト教では禁止事項となっている。有名な「十戒」の一つでも
あり、聖書の他の箇所でも繰り返し注意喚起されている。
 
 意味はすなわち「神以外のものを拝むこと」で、イスラエル人が拝んだ「金の子牛」とか「バアル」とか「アシェラ像」とか、そういうのがわかりやすい偶像の例である。
 聖書を読むと、繰り返し禁止されているにもかかわらず、イスラエル人がすぐ偶像崇拝に走っているのがわかる。だからそこには何らかの魅力があるのであろう。クリスマスも初詣もイベントごとになっている日本では、イマイチわかりにくい魅力だけれど。
 
 けれど新約聖書には「偶像崇拝=むさぼり」という表現もあって(コロサイ3章)、わかりやすい形の偶像以外にも、私たちの中には何らかの「偶像」が存在すると示唆している。
 
 福音派・聖霊派あたりはこの部分に特に注目している。そして「神以外のものを優先すること、あるいは神以上に大切なものがあること」が、すなわち偶像崇拝だと言う。だから私たちの身近には常に数多くの偶像があり、私たちはいつも偶像崇拝の危険に晒されている、警戒しなさい、という話になる。
 
 実際に見聞きした事例を挙げるとこんな感じだ。
「テニスが好きでよくやっていたが、ある時、それは偶像崇拝だと神様に示されたので、キッパリやめた」
「ギターを弾いて賛美することが好きだったけれど、それがいつの間にか(自分の中で)偶像になっていた。このままではサタンと同じ過ちを犯してしまうと感じ、悔い改めてギターの奉仕をしばらくやめた」
「あるマンガが好きで発売日ごとに買っていたけれど、それをやめられなくなっている自分に気づいた。これは偶像崇拝だと思ったので、断ち切った(マンガを捨てた)」
 
 他にも沢山あって挙げきれない。私にも同じような経験がある。
 
 じゃあそういう「偶像」を切り捨てていくと、どうなるか。たぶん「クリスチャンの禁止事項(?)について・その2」でも述べたような姿になる。すなわち「毎日教会にこもり、異言と断食で祈り続け、聖書だけ読み、ワーシップソングだけ聴く。『汚れた』一般社会とは、一切接点を持たない」
 つまり「キリストには変えられません」という賛美歌で言うところの、「世の楽しみよ 去れ」だ。

 けれどそこまでしてはじめて「偶像崇拝」を避けられるとしたら、その代償はあまりに大きいのではないだろうか。

 確かに「貪欲=偶像崇拝」と聖書は言っているから、単純に仏像を拝むことだけが偶像崇拝ではない。自分の欲にかられて何かをむさぼることは貪欲の罪となる。しかしテニスを好んでプレイすることとか、好きなマンガを全巻そろえることが、そのまま貪欲に直結するというのは短絡的ではないか。それはいわば「行き過ぎた禁欲」であって、偶像崇拝とは別の問題の気がする。

 でなければ、クリスチャンは「この世」を捨てて、人里離れた山奥でひっそりと暮らさなければならなくなる。清貧、労働、そして祈り、という訳だ。
 けれどそれだと、クリスチャンに課せられている伝道という使命をどう果たせばいいのだろうか。極端に走っている気がしてならない。

 それにもし本当に山奥に隠居したとしても、真の問題解決にはならない。貪欲は人間の心の中にあるからだ。それはどこに隠れてもついて来る。山奥には山奥の貪欲があり、都会には都会の貪欲がある。教会には教会の貪欲がある

 すなわち、「私はこれだけ神に仕えている」「私はこれだけ祈っている」「私はこれだけ断食している」「私はこれだけ・・・」という「きよさ」に関する追求そのものが、そしてそれによって称賛を得たいという願望そのものが、貪欲なのではないだろうか。

2014年12月6日土曜日

クリスチャンは「無学」でいいのか

 おそらくペンテコステ系教会だと思うけれど、「神は無学な者を用いられる」というフレーズを強調する向きがある。
 
 元漁師のぺテロたちが神について大胆に語ったのを、ユダヤ教の偉い人たちが驚いた、という箇所がある(使徒4章)。教養もあって地位もある祭司たちを「無学」な弟子たちが論破した、といういわゆる逆転劇である。ドラマ『半沢直樹』にハマった日本人にはたまらない展開であろう。
 
 だから神様が「無学」な者を用いて、知者たちの高い鼻をくじいたのは事実である。そしてそういう「不利な者が有利な者を負かす」というのを、きっと神様は好むのだと思う。たとえば神様に選ばれて士師になったギデオンは、当時の最弱部族の最若家庭の出身だった。またイスラエルの王となったダビデは、兄弟から除け者にされた身だった。他にもそういう例はあるだろう。
 
「持っていない人」が、「持っている人」を打ち負かす。
 それはたぶん前者の為というより、後者の為の神様の愛ではないかと私は思う。
 
 で、ペンテコステ系はこの「持っていない人」すなわち「無学」を強調する訳である。
 私が知っている実例でも、「神学校で学んでも3年かけて頭でっかちになるだけだ」ということで献身者に神学校に行かせず、自教会でちょっと訓練しただけで(あるいは信仰生活が充分長いとかで)、牧師と名乗らせた、というのがある。
 あるいは牧師と名乗らせないまでも、「教会スタッフ」「インターン」「伝道師」みたいな名称の、一定の立場(一般信徒とは異なる扱いをされる立場)を与えるというのがある。
 
 もちろんそういうことで牧師になっても、他の教派とか教団では通用しない訳で、単にイタイだけである。けれどその教会がある程度大きかったり、チェーン店化していたり、同じような教会群とのつながりが強かったりすると、狭い世界とはいえある程度の地位になる。その中では認められる。
 
 そうなるとますます(自分の地位を守るためにも)「無学でいいんだ」という主張になるだろう。むしろ「無学でなければならない」みたいに言い出すかもしれない。
 
・ではクリスチャンは「無学でいい」のだろうか。
 
 冒頭のペテロの例で考えてみると、彼は確かに当時のユダヤ教的には「無学歴」だったろう。けれど、じゃあ全く何の知識もなかったかと言うと、そんなことはない。彼はキリスト本人と3年以上一緒にいて、いろいろ教えられたはずだ。また復活後のキリストとも話した。その彼の知識と経験とは、当時の学歴に換算したらゼロだろうけれど、きっとそれを凌駕する内容だったに違いない。
 だから、ここで言う「無学」は知識ゼロという意味ではないはずだ。
 
 それに「聖霊に満たされて語った」というのは、恍惚状態になって、操り人形みたいな、自分が何を言っているのかわからない状態で語ったのではない。あくまでペテロ本人のクリアな意識で、その知識を使って、選択的に語ったはずだ。
 そうでなければ、聖書を全く知らない・読んだことのない完全に無知な人も「聖霊に満たされて語る」ことができることになる。けれどその人は恍惚状態・睡眠状態で語らせられたことになる。何も知らないのだから、自分の言葉で語るなんてできないからだ。
 そしてその人は目覚めたら何も覚えていない訳で、だったらクリスチャンである必要はない。神が適当な人を選んで、一時的に操り人形にして、語らせればいい。
 
 という訳で、聖霊に満たされようが満たされまいが、知らないことは語れない。だから神が何かを語らせようとするなら、その人はそれに足る知識を持っているはずだ。文字通りの「無学」ではそうならない。
 つまり、神は「無学歴」を用いるけれど、「無知」は用いられない。

・では学んでいればいいのだろうか。
 
 そうなると、じゃあ学歴がなくても、独学でも学べばいいだろう、という話になるかもしれない。確かに、ある神学校を修了したから牧師の資格がある、というのは若干疑問がある。とんでもない人格破綻者が、神学過程を修了しないとは限らないからだ。

 けれど一般的に考えて、学校を出るのと独学とでは事情が違う。学校なら系統的・総合的で抜けのない学習ができるだろうし、教材も環境も準備してもらえるし、ペース配分してもらえるし、理解度のチェック(テスト)もしてもらえる。独学だとそうはいかない。
 たとえば「東大卒の人」と、「東大卒レベルの頭脳の人」は同じではない。前者は東大の過程を全てやり遂げたと証明されている。けれど後者は、たとえ頭脳レベルが同じだとしても、その過程をやり遂げる忍耐力や自制心があるかどうかはわからない。

 だから「神学校卒業」という肩書きは、それだけで良い牧師であるとの証拠にはならないけれど、卒業していない人より「信頼度」において高いと言える。

結論)
 神様が用いられる「無学」の人とは、勉強していない、何も知らない人ということではない。むしろよく勉強していなければならない。ただ、それが学校の勉強で足るかどうかは一概には言えない。また独学で足るとも言えない。 

何で満足するか、どこで満足するか、という話

 先日、「美容整形」を取り上げたテレビ番組を観た。
 
 実際に整形手術をした何人かの女性を囲み、芸能人が賛成・反対に分かれてイロイロ論じる、という形式だった。私は普段テレビはあまり観ないけれど、議論の行方が気になって、しばらく観ていた。
 
 しかし賛成も反対も、割とオーソドックスな意見だったと思う。
 すなわち反対派は、「親からもらった体なのに」「そのままで十分なのに」「結局ずっとメンテが必要になる」「整形崩れが心配」という感じ。
 一方賛成派は、「きれいになることで自信がつく」「局所に注射するだけの簡便なものもある」「化粧と同じようなもの」という感じ。
 
 目新しかったのは、番組の中で紹介された、ある中国人(確か)家族の写真だ。何かの記念にみんなで正装して撮る、よくある家族写真である。けれどそこに写っていたのは、美男美女の両親と、そんな両親とは似ても似つかない子供たちだった。両親のどちらか(たぶん母親)が整形したんだな、と誰が見てもわかる。そういう意味で紹介された写真だった。
 
 親が整形していて、そのことが子供の存在ゆえに明瞭にわかる。その子はどう感じるだろうか。そんな問題提起だったと思う。けれど残念なことに、そこは番組ではあまり深く掘り下げられなかった。

 いずれにせよ、整形の是非を巡る議論は昔からあるし、これからもきっと続いていく。そして決着はつかない。けれど議論がどうあれ、整形は法律で禁止されてはいないから、個人の自由なのは間違いない。やりたい人はやるし、やりたくない人はやらない。私は基本的にそれでいいと思う。
 
 ただ一つ書いておくと、私は美容整形には必ずしも賛成していない。理由は必要ないからとか、やらなくていいからとかではない。危険だと思うからだ。
 
 危険というのは、もちろん施術の失敗とか、後々の整形崩れとか、そういう物理的なものもある。けれどもっと危険なのは心理的なものだ。
 
 前述の整形賛成派の有力な意見として、「整形することで自分に自信が持てる」「前向きに生きられるようになる」というのがあった。
 そういう効果は確かにあるだろうし、それ自体は良いと思う。けれど実際に整形した女性たちの話を聞くと、次のような共通点がある。
 
「初めは〇〇をした」→「次に△△をした」→「その次は××をした」→「今度は――をしたい」
 
 つまり、際限がないのである。ここで終わり、ここで満足、というラインが、彼女たちには存在しないように思える(もちろん個人差はあるだろうけれど)。

 でもそれはある意味当然で、たとえばガジェット好きなら常に新しい製品、新しいスマホ、新しいパソコン、新しいタブレットを買うし、ある時点でもう満足、とはならない。古いパソコンをいつまでも使い続けるという人は(よほどのマニアでなければ)いない。
 また化粧で言えば常に新しい製品や良い製品が求められるし、新しい化粧法や、何か美容に良いものが求められている。
 現実的にはどこかで満足しなければならないけれど、どんな分野でも、現状で完全に満足しているという人は、そうそういない。

 そのように「ここで終わり」というゴールが存在せず、延々と「理想の自分」「理想の美」を求めて整形を続けるとしたら、それはもはや「自信」とか「前向き」とか、そういう話ではなくなる
 たとえば鼻を少し高くするとか、口角を少し上げるとか、そういうわずかな変化(でも確かに印象が変わる)で「自信」がつくなら、もうそれ以上整形する必要はないはずだ。けれどそこでは終わらない現実を、彼女たち自身が示していた。

 そういう際限のない追求が危険だと私は思う訳だ。一生懸命働いて貯金して、整形手術を繰り返して、その先に何があるのだろうか。故マイケル・ジャクソンは人種を変えるくらいの挑戦をして、それはそれですごいと思うけれど、あそこまで行くとかえって「美とは何か」という問題を明確にする。

 何が美しくて、何が美しくないのか。
 またその基準は時代によっても変わる。きっと普遍的ではない。だから自分が整形で得た「美」もいつか時代遅れになるかもしれない。その時どうするのだろうか。時代の要請に合わせて、また根本的に作りかえるのだろうか。

 もっとも、これは美容整形に限った話ではない。他のあらゆる分野でも言える。何で満足するか、どこで満足するか。それは私たちの行動を決する、案外重要な選択だ。
 その番組を観ながら、そんなことを考えさせられた。

2014年12月4日木曜日

クリスチャンと「祈り」と「サタン」の関係

 先日の体験談記事「クリスチャンの禁止事項(?)について・その2」について、投稿された方から追加情報をいただいたので書いてみたい。

 同記事に「徹夜で祈る」という項目があり、「金曜の夜が特に重要」と書いたけれど、その理由が「イスラエルが安息日に入るから」だとのこと。
 つまり、安息日でイスラエル人が休んでいるから、サタンに襲われやすい状態にあり、私たちがその分祈らなければならない、ということだそうだ。

 これは単純に考えて、おかしい点が3つある。

 まず1つ目。サタンは一人しかいないし、神様のように偏在でない。だからもし安息日のイスラエルを襲うなら、日本は襲えない。逆もまたしかり。それにもし仮に、安息日がサタンにとって襲いやすい日なのなら、むしろイスラエルの方を襲うはずで、安息日という習慣のない日本が特に「襲われやすい」ことにはならない。

 2つ目。ヨブ記を見ればわかるけれど、サタンは神様の許可がなければ直接人間を襲えない。だから安息日とか関係なく、人間がサタンに襲われるということは基本的にない。それにもし仮にあるとしたら、人間は「霊の戦い」とかしている余裕もなく一瞬でやられるだろう。ヨブが受けた被害を見ればわかる。一晩祈ってサタンと戦うとか、そもそもそういう戦いにはならない。

 3つ目。日本とイスラエルは7時間の時差があり、日本の方が進んでいる。だから日本の方が7時間早く安息日に入り、7時間早く明ける。だから日本で徹夜で祈るだけでは向こうの安息日をカバーできない。

 他にもおかしな点があるかもしれない。見つけた方はご一報下さればと思う。

 という訳で、おかしいことだらけである。
 聖書をちゃんと読んでいればそういう間違いには陥らない気がするけれど、やはり指導者とか、有名牧師とかの話を鵜呑みにしてしまうのだろう。あるいは聖書との矛盾に気づいても、実際的にお世話になっている人の話は無下にできないのかもしれない。

 また、金曜の徹夜の祈りとは関係ないけれど、「私たちが祈らなければこの世界が大変なことになる」という発想はそもそも傲慢であろう。神様が無能で、人間が祈らなければサタンの好き放題にされる、と言っているのと同じだからだ。けれど実際は逆で、神様がサタンなり悪魔なりを制しておられて、その上で人間が勝手に「霊の戦い」だと騒いでいるに過ぎない。

 私たちの個々の祈りは、たとえばアマゾン川とかナイル川に一滴の水を垂らすようなものだと私は思う。それは大河にとって何の影響もない。その一滴で「流れを変える」と主張するのが上記の「霊の戦い」推進クリスチャンたちだけれど、傲慢にも程がある。

 しかし「大河も一滴の水から」という言葉もある通り、その一滴に何の意味もないのではない。神様も私たち一人一人の祈りを決して無下にはされない。むしろその一滴一滴に目を留めておられる。ただし一滴はあくまで一滴であって、それ以上ではない。その謙虚さは持っていなければならないと私は思う。

2014年12月3日水曜日

教会とクリスマス

 早いもので、もう12月である。
 
 キリスト教会としてはクリスマスのイベントで忙しい時期だと思う。師走の忙しい時期に教会でも忙しい訳だから、信徒の皆さんは大変であろう。ぜひ無理のないようにやってほしいと思う。
 
 クリスマスは一年で一番、教会らしさを出せるチャンスかもしれない。たぶんツリーにキャンドルにキャロル、ハンドベル、聖劇あたりが「教会のクリスマス」のイメージで、そういうのを楽しみにしている人が、そういう教会に訪れるのではないかと思う。一年で一番、教会に人が集まる時期かもしれない。
 
 けれど昨今の福音派・聖霊派あたりの教会には、あまりクリスマスっぽさを出さないところがある。先日の記事「クリスチャンの禁止事項(?)について」でも取り上げたように、クリスマスツリーを異端視する向きもあるくらいだ。そういう教会はツリーを飾るなんてもってのほかだろう。またもっと原理的なところになると、「クリスマスはキリストの誕生日と関係ない。そもそも時期が違う」という訳で、巷のクリスマスムードに思いっきり水をぶっかける有り様である。

 という訳で、クリスマスを祝うとしても、あまりクリスマスらしくない過ごし方をする教会もある。そういう教会にキャロルとかハンドベルとかの「クリスマスらしさ」を期待して行くと肩透かしを食らうので、注意が必要である。

 そういう教会が開くクリスマス集会は、一応クリスマスと銘打ってはあるけれど、いわゆる「大物メッセンジャー」がゲストとして来るとか、有名無名(大半は無名)のシンガーがコンサートをするとか、基本的に普段の伝道集会の延長である。だからポスターがクリスマスっぽくても、メッセージや歌にクリスマスが絡んでいても、あまりクリスマスらしくない。

 もちろん、それが悪いという話ではない。けれど、もったいない気がする。せっかくのクリスマスなのだから、世間一般が期待するようなクリスマスを思いっきり演出して、一般の人に最大限サービスしたらいいのに、と思う。
「いやいや、クリスマスの本質はツリーとかサンタとかじゃないよ。Christ(キリスト)をmass(礼拝)することだよ。だから普段通りの礼拝が一番なんだよ」とかいう教会側の理屈はわかるけれど、それだと未信者の人は楽しくないから、誰も集まらない(集まるのは信徒の家族や友人とかだけ)。すると伝道にもならない。「クリスマス伝道集会」と位置付けても、意味がないことになる。

 だいいち、キリスト教界の「大物メッセンジャー」が来たって、一般の人からしたら「ただのおじさん」(こりゃ失礼)だ。はっきり言って何の魅力もない。大騒ぎして集まるのはクリスチャンだけで、結局、内輪で盛り上がるだけだ。

 つまり、教会が上目線で「これこそ真のクリスマス」とか思ってやっても、本来伝道すべき人々からまったく見向きもされない代物でしかない。逆に教会って何なんだ、という話になってしまう。

 伝道は「施し」じゃないのだから、「やってあげる」ものではない。日本はただでさえクリスチャン人口が少ないのだから、クリスマスという教会が注目されやす時くらい、腰を低くして、人々に奉仕してもバチは当たらないだろうと思う。

2014年12月2日火曜日

クリスチャンと「常識」について

 先日投稿した連載小説『キマジメくんのクリスチャン生活』第48話にも描いたけれど、クリスチャンと「常識」との関係は、よくよく考えなければならないトピックだと思う。

「信仰は常識を超える」とか「信仰は常識に縛られない」とか言う牧師がいる。その根拠として、たとえば「宮きよめ」の箇所とか、屋根を壊して病人をキリストのもとに釣り下ろした箇所とか、そういう「過激」と思われる聖書箇所を取り上げる。そして結論として、「イエス様はいわゆる過激派だった」「プロテストとは反抗を意味する」「だからクリスチャンはこの世の常識に縛られてはいけない」という話に持っていく。

 もっともらしく聞こえる話で、信じる人も多かった。だからその教会全体が一般常識を軽視する方向に流れるのも無理はない。
「10月携挙説」を主張した人もこれと同類だと思う。人間として当たり前の常識が通用しない。この人の場合は「間違ったら謝る」という当然の礼儀を無視している。「愛は礼儀に反することをせず・・・」という第一コリント13章をどう解釈しているのか知らないけれど。

 前述の牧師は「過激派クリスチャン」なんて言葉を使っていた。と言ってもテロ行為に及ぶ訳でない。せいぜい広報活動禁止の場所で勝手に伝道するとか、高速道路を160キロで走って奉仕先に向かうとか、交通取り締まりの警察官に暴言を吐くとか、その程度だ。過激とか言う割に、やることは小さい。

 そういう人たちは「神のために」時には常識を無視しなければならない、と主張する。人にどう見られるかより、神にどう見られるかの方が大切だ、という訳だ。それで「神のために」禁止場所で伝道し、法定速度を破り、それを止める警察に抗うのである。それでも「神のために犠牲になっている忠実で敬虔な僕」みたいにも見えるからか、盲信的な人たちには受けが良く、「すばらしい神の器だ」という評価になる。

 けれどそういう牧師なり教会なりは、常識無視がほとんど日常的な感覚になっている。夜間に礼拝で騒音を出すのもお構いなしで、近隣からクレームが来ても「神のための礼拝だ」と言い張る。教会として利用する業者(たとえば不動産屋とか印刷屋とか看板屋とか)にはあり得ないレベルの値下げとか、納期短縮とかを要求して、ほとんど脅しの域だ。そういうイロイロを全部「神のため」というベールで覆い、「だから仕方がない」で片付けている。神様としては、とんだ迷惑ではないだろうか。

 もちろん、時には常識か否かで決められないこともあるだろう。たとえば、病院でまさに死を迎えようとしている未信者の患者さんがいるとする。そこにクリスチャンの看護師がいて、たまたま福音を耳元でささやける機会があるとする。この機会を逃したら、おそらくもう次はない。けれど職務中の宗教行為禁止というルールに従って、黙っているべきかどうか。ルールを守るべきという常識に対して、疑問を抱く瞬間ではないかと思う。

 だから一概に「常識無視」がいけないとも言えない。けれど少なくとも、何でもかんでも常識無視がまかり通ると考えるべきではないだろう。

「宮きよめ」をしたキリストが、普段から暴力的で、行く先々で物を倒したり人を追い出したりしていたのではない。またプロテスタントの祖でもあるルターは、ローマカトリックに対して過激な反抗運動を展開したのではない。彼の最初の行動は、95ヶ条の論題を教会の扉に貼ったことだった。

「反抗」という言葉を都合をよく解釈して、自分たちのやりたいようにやるのがプロテスタントではない。そこには守るべき常識や礼儀がある。それを無視することは、自分たちが信じるキリストを貶めることになる、ということがわからないのだろうか。おそらくわからないのだろう。

2014年12月1日月曜日

「まだマシ」な被害と、そうでない被害について

 たとえばカルト化教会でこんな酷いことが行われている、こんな被害に遭った、これは信仰に見せかけた虐待だ、とかいうことを書くと、「それはまだマシな方だ」と言われることがある。そして世の中にはもっと酷いことがあり、もっと悲惨なことがあり、もっと苦しんでいる人がいる、ということを明に暗に言われる。

 それは確かにそうで、この世で最も悲惨なのは自分だ、とか思っている人はそうそういないだろう。私もそんなこと思っていない。
 カルト化教会にしても、まだマシなレベル、それより酷いレベル、最悪なレベル、みたいな分類はある程度可能だと思う。あるいはおカネの話ならもっと明確に、幾ら損したかで「悲惨のレベル」が判定されるかもしれない。

 そういう意味で、私が教会で経験したことや知っていることは、「まだマシ」なレベルかもしれない。多分そうであろう。けれど実際にそう言われると、何か腑に落ちないものを感じる。

 だが腑に落ちないのは、「悲惨のレベル」に不満があるからではない。悲惨さを軽く見積もられた、なんて思っていない。繰り返すけれど、私の経験は「まだマシ」な方であろう。もっと酷い信仰的虐待を受けた人は相当いるはずだ。

 じゃあ何が腑に落ちないかというと、その「まだマシ」という言葉の裏に、「そんなの大したことない。何でもない」というメッセージを感じるからだ。そこには、もっと悲惨な経験をした人が沢山いるのだからあなたのは悲惨のうちに入らない、という心理がある気がする。つまり「悲惨のレベル」が低い人間は最悪でなかったことに感謝すべきだ、悲惨だとか言うな、ということだ。

 わかりやすい例かどうかわからないけれど、子を亡くした親が二人いるとする。
 一人は不慮の事故で子供を亡くした。それは偶発的な事故であり、親にも子にも、他の誰にも責任がなかった。
 もう一人は、悲惨な事件で子供を殺害された。何の落ち度もない子が、残虐な犯人によって一方的に、理不尽に殺された。
 

 では前者の親に向かって、「あなたはまだマシな方だ。後者の親を見なさい、あなたよりずっと悲惨だ」などと言えるだろうか。少なくとも私は言えない。なぜならその人も子供を亡くしたのは同じだからだ

 カルト化教会の被害に遭った人の話を聞いて、「あなたのは軽いカルト被害だ」とか言う人がいた。私は耳を疑った。それが実際にどんなだったか、どれだけ辛かったか、今もどれだけ苦しんでいるか、まったく想像が及んでいないようだった。何年たっても傷が癒えず、ずっと引きずっている人からしたら、被害の軽いも重いもない。しかし残念ながら、そういうことは傍観者にはわからないようだ。

 もちろん被害の大小はある。けれど、その当事者にとっては、やり直しのきかない人生の中で確かに起こった、なかったことにできないダメージなのだ。辛くなかった訳がない。そういうことにちょっとでも考えが及ぶなら、「まだマシ」などとても言えないはずだ。

 人の気持ちに寄り添うのは難しい。わかったつもりで不要な発言をし、更にその人を苦しめてしまうことがある。カルト化教会の経験のみならず、何らかの理由で苦しんでいる人に対しては、何も言わないという選択肢もある。そして選び難いけれどそれが一番いい場合もあるということを、私たちは知っておくべきだ。