何で満足するか、どこで満足するか、という話

2014年12月6日土曜日

生き方について思うこと

t f B! P L
 先日、「美容整形」を取り上げたテレビ番組を観た。
 
 実際に整形手術をした何人かの女性を囲み、芸能人が賛成・反対に分かれてイロイロ論じる、という形式だった。私は普段テレビはあまり観ないけれど、議論の行方が気になって、しばらく観ていた。
 
 しかし賛成も反対も、割とオーソドックスな意見だったと思う。
 すなわち反対派は、「親からもらった体なのに」「そのままで十分なのに」「結局ずっとメンテが必要になる」「整形崩れが心配」という感じ。
 一方賛成派は、「きれいになることで自信がつく」「局所に注射するだけの簡便なものもある」「化粧と同じようなもの」という感じ。
 
 目新しかったのは、番組の中で紹介された、ある中国人(確か)家族の写真だ。何かの記念にみんなで正装して撮る、よくある家族写真である。けれどそこに写っていたのは、美男美女の両親と、そんな両親とは似ても似つかない子供たちだった。両親のどちらか(たぶん母親)が整形したんだな、と誰が見てもわかる。そういう意味で紹介された写真だった。
 
 親が整形していて、そのことが子供の存在ゆえに明瞭にわかる。その子はどう感じるだろうか。そんな問題提起だったと思う。けれど残念なことに、そこは番組ではあまり深く掘り下げられなかった。

 いずれにせよ、整形の是非を巡る議論は昔からあるし、これからもきっと続いていく。そして決着はつかない。けれど議論がどうあれ、整形は法律で禁止されてはいないから、個人の自由なのは間違いない。やりたい人はやるし、やりたくない人はやらない。私は基本的にそれでいいと思う。
 
 ただ一つ書いておくと、私は美容整形には必ずしも賛成していない。理由は必要ないからとか、やらなくていいからとかではない。危険だと思うからだ。
 
 危険というのは、もちろん施術の失敗とか、後々の整形崩れとか、そういう物理的なものもある。けれどもっと危険なのは心理的なものだ。
 
 前述の整形賛成派の有力な意見として、「整形することで自分に自信が持てる」「前向きに生きられるようになる」というのがあった。
 そういう効果は確かにあるだろうし、それ自体は良いと思う。けれど実際に整形した女性たちの話を聞くと、次のような共通点がある。
 
「初めは〇〇をした」→「次に△△をした」→「その次は××をした」→「今度は――をしたい」
 
 つまり、際限がないのである。ここで終わり、ここで満足、というラインが、彼女たちには存在しないように思える(もちろん個人差はあるだろうけれど)。

 でもそれはある意味当然で、たとえばガジェット好きなら常に新しい製品、新しいスマホ、新しいパソコン、新しいタブレットを買うし、ある時点でもう満足、とはならない。古いパソコンをいつまでも使い続けるという人は(よほどのマニアでなければ)いない。
 また化粧で言えば常に新しい製品や良い製品が求められるし、新しい化粧法や、何か美容に良いものが求められている。
 現実的にはどこかで満足しなければならないけれど、どんな分野でも、現状で完全に満足しているという人は、そうそういない。

 そのように「ここで終わり」というゴールが存在せず、延々と「理想の自分」「理想の美」を求めて整形を続けるとしたら、それはもはや「自信」とか「前向き」とか、そういう話ではなくなる
 たとえば鼻を少し高くするとか、口角を少し上げるとか、そういうわずかな変化(でも確かに印象が変わる)で「自信」がつくなら、もうそれ以上整形する必要はないはずだ。けれどそこでは終わらない現実を、彼女たち自身が示していた。

 そういう際限のない追求が危険だと私は思う訳だ。一生懸命働いて貯金して、整形手術を繰り返して、その先に何があるのだろうか。故マイケル・ジャクソンは人種を変えるくらいの挑戦をして、それはそれですごいと思うけれど、あそこまで行くとかえって「美とは何か」という問題を明確にする。

 何が美しくて、何が美しくないのか。
 またその基準は時代によっても変わる。きっと普遍的ではない。だから自分が整形で得た「美」もいつか時代遅れになるかもしれない。その時どうするのだろうか。時代の要請に合わせて、また根本的に作りかえるのだろうか。

 もっとも、これは美容整形に限った話ではない。他のあらゆる分野でも言える。何で満足するか、どこで満足するか。それは私たちの行動を決する、案外重要な選択だ。
 その番組を観ながら、そんなことを考えさせられた。

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