クリスチャンと「自分探し」の危険な関係

2014年12月16日火曜日

キリスト教信仰 生き方について思うこと

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「自分探し」なる言葉がある。
 要はアイデンティティの探求のことだと思うけれど、時々二十代、三十代くらいの大人が、そういうのを理由に勤め先を辞めたり転職したりする。仕事に疲れて自分を見失ってしまったのか、あるいは本当の自分はこんなのではないと思ったのか、まあ事情はそれぞれだろう。
 
 私の知り合いにもそういう理由で職場を辞めた人がいたけれど、その後「自分」を見つけられたという話は聞かない。もしかしたら退職理由として適当にでっち上げただけだったかもしれない。あるいは「自分探しの旅に出る」みたいな表現が、カッコイイと思ったのかもしれない。私はカッコイイとは思わないけれど。
 
 そういう「自分探し」をする人は「なんで生きているのかわからない」「人生とは何なんだ」というようなことも言う。自分が何なのかわからないから、生きる意味も理由もわからない、ということだろう。実は私自身もそういう傾向があって、高校時代なんかは「人生って何なんだ」みたいなことを友人たちによく問いかけていたものだ(ひどくウザかったと思うけれど)。
 
 だから余計にわかるけれど、「自分探し」とか「人生の意味」とかにこだわるのは、自分軸の考え方でしかない。自分が何で、何をしたくて、将来どうなっていくのか、というような自分自身のことにだけ執着しているから出てくる発想だ。そこには他者がいるようでいない。あくまで自分中心の考え方である。
 
 もちろん、アイデンティティの確立は心理学的にみても重要だ。青年期の発達課題としても挙げられている。けれどそれは十代、遅くとも二十代前半までの話で、それ以降も延々と「自分探し」をするのは、何と言うか「甘え」のような気がする。
 
 それに多分、「自分はこういう者だ」(職業とか肩書きとかでなくて)とハッキリ言える人は少ないと思う。自分のことはだいたいわかっているけれど、時々よくわからない部分が出る、みたいな不確かさは誰にもあるだろう。でも不確かなのが人間だと思う。そういう意味で、人間には何歳になっても成長する余地があると言える。だから人生は面白いのではないだろうか。
 
 ところでそういう「自分探し」が終わっていない人がキリスト教に出会うと、どうなるか。
 
 特に聖霊派教会に通うようになると、「キリストにあるアイデンティティ」を与えられることになる。「キリストにあるアイデンティティ」とは、「キリストと共に生きる自分こそが自分」という、禅問答みたいなものである。結局のところ自分のことがわかったようなわからないような、煙に巻かれたような感じだけれど、まあ言われた方は不思議と納得してしまうものだ。
 
 けれどそれは全然可愛い方で、もうちょっと悪質(?)なところに行ってしまうと、「あなたには賛美の賜物がある。あなたは天使のように主を賛美する器となる」みたいなことを言われて、よく確かめもしないで「よし、自分は賛美一筋で生きていくんだ」となってしまったりする。この場合、その人のアイデンティティは「主を永遠に賛美する者」になる。それはそれで良くも悪くもない。けれど問題は、「賛美の賜物があるからこの世で成功するはずだ」と当たり前に考えてしまうことだ。
 
「主を永遠に賛美する者」というのは聞こえがいいけれど、よく考えると、クリスチャンなら全員が該当する事柄だ。神様を賛美しないクリスチャンはおそらくいない。だから何も特別なことではない。「この世」で成功するかどうかも関係ない。むしろ成功するために賛美するのだとしたら、それは本当の賛美ではない。
 
 けれど変な教会で「賛美の賜物がある」と言われて本気にしてしまい、何もかも捨てて歌の勉強を始めたはいいけれど、結局何にもならなかった、みたいなケースは多い。
 そこで「自分探し」などしていなければ、そういうことにはならなかったろうと思う。べつに「自分探し」を全否定するつもりはないけれど、ホドホドにすべきではないだろうか。
 
 アイデンティティとは、そんな風に誰かに言われて確立するものではない。人に言われたアイデンティティで生きていくことは、人生を他人任せにするのに等しい。

 たとえよくわからなくても自分は自分でしかない。日々働き、休み、遊び、食べて飲んで、怒ったり笑ったり、そういうのの総和が自分自身の輪郭だ。また人と接することで、逆に自分が見えてくる。人間とはそういうものではないだろうか。

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